BL】さあ!新しい冒険の世界へ

美夜本ルイ(ミヤモト落水)

第1話 塔の守人

 砂漠の夏の嵐の中に建つ塔の守人は、迷い人に、涸れるまでは涸れない魔法の水を与え願いを一つ叶えてくれる――。

 『泉の塔の物語』



     ◎   ◎   ◎



 私は塔に一人暮らしている。

 塔は広い砂漠の中に建っている。

 塔には井戸があり、水が僅かに湧いている。

 ここは極小さな緑地で、周囲には幾らか植物も生えている。小さな生命達が一時の安らぎを得にやって来る。お陰で、窓外の景色は立地条件から想像するほど味気ないものではない。

 一年間の殆どは、何事もなく穏やかに過ぎて行く。

 何事にも例外はあり、この塔でのそれは、夏季の三日間ほどのことだ。

 嵐がやって来る。

 常にはただ一色の空が、塔を包む黄土色の砂煙に隠され、遠雷が――。



 轟きを聞いた気がして、私は顔を上げた。

 これでサトゥランチの悩ましい局面から一時的にでも解放される、といそいそと黒白の盤の前を離れ窓前に立つ。格子窓を押し開き、身を乗り出す。

 顎下に吹き上げる風を感じた。熱く、重い、力強い風だ。

 反射的に思う。

(来る)

 嵐だ。

 ここでは、嵐は瞬く間にやって来る。

 窓をきっちりと閉め、格子越しに表を見遣ると、風が唸った。

 何処からともなく、さらさら、と砂粒がぶつかる音が聞こえ始める。

 窓を離れ、寝台ベッドに腰を下ろす。

 座り心地を整える為に少し浮かせた腰を下ろさぬ内に、大地が割れるかと思うような地響きが立つ。影が空へと翔け昇って行く。部屋は真っ暗になった。

 塔が朦朧と揺れて、私は寝台に尻餅をついた。

 無意識に片手で胸を押さえる。鼓動が早い。落ちるように座った衝撃も理由の一つだが主にはこの凄まじい嵐の勢いに対してだ。何度経験しても慣れない。

 脈に合わせて視界が淡く明滅する。瞼を閉じても同じ光景だ。

 強い緊張に疲労を覚えて、座ったまま、寝台に身体を横たえた。

 何時の間にか、寝台脇の書き物机と、扉脇の小箪笥ローチェスト洋燈ランプに灯が入っている。

 些か頼りなくも思える、暖かな色の灯りが揺れる。

 丁度視線の先にある、寝台の足側に置いた小卓子サイドテーブル上のサトゥランチの盤に変化はない。急かす空気感もない。私の唯一の友人である“姿のない指し手”は帰ったようだ。

 彼(彼女かも知れない)は嵐の間は私の前には姿を現さない。常なら、サトゥランチの盤を出して来れば何処からともなく現れて、私の見ていない内に一手を指す。これを見て私も次の手を指す。これを繰り返す。気の長い対局をする。しかし、嵐の間は彼は決して現れない。

(今日の指し手は一枚も二枚も上手のようだったから、助かった……かなぁ)

 勝ち負けに拘る性格ではないから、強い相手と対戦することも楽しめるが、余りに実力差があるのは考えものだ。玩ばれるのは悲しい。負けさせて貰えないのは辛い。

 とはいえ、と思う。

「は……」

 息を吐いた。

 この塔に閉じ込められて、一人での時間の潰し方は嫌でも身に付いたが、それでも、誰も構ってくれる者がないというのは応える。声を掛けないでいるのと、声を掛ける相手がいないのとでは全く違う。

 瞼を閉じる。

 無数の砂粒が大嵐に巻き上げられ、その風の中で互いを打ち合う。細かな音が幾千万と重なり、聴覚がおかしくなるほどの轟音を生んでいる。その中に雷鳴が混じる。

(この夏も、誰も迷い込むことがありませんように)

 胸の前で手を重ねた。祈るには余りにもだらしない格好だが、祈る神のない身である。

(送り出した人達が、ちゃんと、家族の元に帰れていますように)

 この塔は、砂漠の外では『迷い人を喰らう嵐の塔』と呼ばれている。

 砂漠を行く者でこの塔のことを知らぬ者はない。

 砂漠で嵐に巻き込まれ帰らぬ者は多いが、極稀に「塔に行った」と帰って来る者がいるのだ。故に、塔の話は真実味を持って語り継がれている。

 帰って来る者が居るのに『迷い人を“喰らう”塔』などと言われるのは、結局の所、嵐に巻き込まれれば帰らぬ者の方が多いからだろう。

 帰ることが出来た者は、難事を逃れた強運の持ち主、だ。

(どうか、幸せな人生を送っていますように)

 生まれた家、共に育った兄姉弟妹、友人達。想う相手、妻、子供……数々の縁を編んで長く美しい時を過ごして欲しい。

 すっかり色褪せてしまっている、かつては当たり前に己もその中にあった、人々の営みを何とか思い出す。友人、同僚、好ましく思っていた市場の娘――もう、誰の顔も名前も思い出せない。皆、疾うに亡くなっている。

 迷い込んだ塔が魔法の塔だと気付いた時から覚悟はしていたが、迷い人から己の育った時代のことを昔話として聞かされた時には、胸が裂けた――これさえ、もう上手く思い出せないほど古い記憶だ。

 人間というものは不思議なもので、確りと思い出せる現実の事象が一つもなくても、胸の痛みはほんの僅かにも欠けないように出来ている。

(私が最後になりますように……)

 幸福な記憶だけを思い出せたら良いのに――。



 胸が騒ぐ気がして、私は閉じていた瞼を開いた。

 身体を起こすと、少し目が回る気がする。うとうととしていたらしい。

 どれほどこうしていたのだろう、などと思いながら一度固く瞼を閉じて、開く。幾らかすっきりした心持ちになって、部屋を見回す。

(何だろう……?)

 不安、恐怖。それから、期待――。

 ここに来て初めて覚える情緒だった。しかも、強い。

 どうにも、居ても立ってもいられず、立ち上がる。

 身体を翻して、今まで背にしていた扉に向かった。

 気持ちの落ち着かない時には厨で井戸水を頂くに限る。

 他の物なら欲しいと感じただけで用意されている塔だが、水だけは自ら井戸まで行って汲まなければならない。

 井戸水は普通の水だ。舌の肥えた者ならまた別の感想を懐くのかも知れないが、市井に生まれ育った私には、かつて飲んでいた水との区別は付かない……付かなかった。せいぜい、何時も冷たいことをありがたく思うくらいだ。

 それでいて気持ちが変るのは“自ら汲む”という行為の方に、昂りを静める効果があるのだろう。

 魔法の塔というのは便利なもので、望めば大抵のものは得られるし、扉を開ければ行きたい部屋に行ける。廊下や階段を歩かせられるということはない。

 扉を開けて、何も思わずに踏み出した部屋は、厨。

「え」

 調理台と竈に水屋箪笥の並ぶ土間、ではなかった。

 一瞬、何処に迷い込んだのか分からなかった。そのくらい馴染みのない部屋だった。

 高い天井。高い位置にある明かり取りの小さな窓達。扉のない左右の壁の下には一辺が一尋ほどの絨毯が何枚も敷き詰められている。他には何もない。

(玄関広間)

 前にここに来たのは何年前だっただろうか、と思う。二年や三年ではない筈だ。

 踏み出してしまえば、一度閉じなければ戻ることを許さない扉が、私を押し出し、後背で閉まる。同時に、対面にある玄関扉が震えた。

『ひらけ』

 拙い呪文が聞こえた。鼓膜ではなく肌に響く音だ。

『開け!』

 一呼吸ほど置いて、今度は確かな声が呪文を唱える。ざらり、と重い音を引き摺って両開きの大きな玄関扉が動いた。


 扉の陰から、赤い陽光が射し込む。

 嵐は過ぎ去っている。何故なら、塔は迷い人を歓迎するからだ。

 ゆっくりと扉が開いて行く。膨らむ夕日に照らされて、玄関広間を彩る組みタイルがその本来の美しさを現す――。


 私はこの様子を、息をすることも忘れて眺めていた。

 迷い人が入って来る様を見るのは初めてだった。今までは、扉の閉まる大きな音が聞こえて、それから玄関広間を訪れていた。

 赤色アカい陽光を背に、細い影が塔に入って来る。

 両足が床に着き、開いた扉が閉まり始める。その音に、迷い人の上体が動くのが分かった。後ろを向いたのだろう。

(いけない)

 私は、心の中に、声を上げた。

 突然閉まり始めた扉に「閉じ込められては大変」と出てしまったら、嵐は止んでいるとはいえ、真夏の砂漠に逆戻りだ。後悔して振り返っても、もう彼の前に塔はない。

 完全に振り返って背中が見えたら声を掛けよう、と覚悟を決める――滅多に他人と相対することのない私に、見ず知らずの相手にいきなり声を掛ける、ことは難度が高い。

 そう気を張っていたのに、迷い人は後背の出来事には関心を覚えなかったようで、一瞥しただけで、こちらに向き直った。

 扉の開いている幅が細くなり、ほぼ正面から射し込んでいた強い光が瞳を刺さなくなり迷い人の姿が分かるようになる。背の高い、男性である。旅装……長い外套マントに大きな巾着鞄……で頭巾フードを目深に被っているので顔立ちは分からないが、立ち姿から察するに、若い。

 彼が俄かに手を上げたので、私は肩を竦ませた。

 何をするのだろう、と注視していると、額ほどまでに上がった手が、頭巾を払った。

 明るい髪色が目に飛び込んで来る。

 顔の造形までは分からない――光量は少なくなったとはいえ逆光であるし、何より私の視界が未だ陽光に焼けている。完全には回復していない。

 目を細めて、懸命に彼を見ようとしていると、視線が合った気がした。

 驚いて、背中が後背の扉にぶつかる。同時に、どん、と玄関扉の閉まる音がした。広間の影が濃くなり、ふつふつ、と壁に掛けられた洋燈に灯が入って行く。


「こんにちは!」

 少し高目の、朗々とした美しい声だった。耳に心地好い。ただ、些か音量が大きい。

 極めて静かな生活を送っている私には大きな音は刺激が強く、反響は恐ろし気で、身体を庇うように、胸の前に両腕が上がった。

「こちらの方ですか?」

 ここは玄関広間なので他の部屋と比べれば確かに広い……もしかすると食堂などと同じ広さであるかも知れないが、何も置いていない分とても広く感じられる。とはいえ、所詮は塔だ。物理的に広いということはない。

 そんなに声を張らなくても、充分に聞こえています――!

 思いはあっても口唇はすぐには開いてくれず、私はただ頷くことしか出来なかった。

 青年は、歩を再開した。

 大股で、足早。

 駆け寄るのを我慢している、という勢いで近付いて来る。繰り返すが、この場の広さは高が知れている。

 逃げなければ――咄嗟に思う。同時に働いた思考が、振り返って扉を開いている間に捕まってしまうに違いない、と結論を出す。

 捕まって何をされるか、は思い付きもしないし、私に悪事を働く理由が青年にあるとも思えない。それでも、真直ぐに迫って来る青年から逃げなければ、と気が焦るのは未知のものに対する本能的な恐怖だ。

(どうしよう)

 動揺に、身体が震える。

 この状況を切り抜ける方法を考えようとするが、混乱していて思考を始めることからして困難だ。

 「来ないで」「止まって」こんな時に使うべき言葉も、全く思い出されなかった。

 何も出来ないでいる間に、青年は手を伸ばせば届く所まで近付いている。

(ぶつかる!)

 もう一歩か二歩進めば腕を伸ばせば触れられるという距離になっても速度を落とさない青年に向って私は、両掌を翳した。

 青年は半歩手前で華麗に立ち止まり、私の両手をその両手で包んだ。

「……」

 咄嗟に瞑った瞼を開いて、先ず見えたのは、手。青年の手は白色シロかった。私の褐色に近い黄色の手と対比して一層白色く見えた。

 指が長く形の良い手は一見、労働など知らない柔い手に思えたが、よくよく見ると、指先は荒れているし、掌は印象よりずっと堅い。

 少し節ばった大きな手に見惚れていると、手が、青年の口元に引き上げられた。

(何?)

 青年は、彼の手の間から覗いている私の指先に口唇を落とした。その仕草が、何処か厳かに見えて、私はまた声を上げることが出来なかった。

 一度目は畏れ、二度目は思慕――そんな風に私の指先に接吻けた。

「初めまして。僕はサシェナといいます」

 塔の守人となって初めて自己紹介というものを受けた。

 私は改めて、青年・サシェナの顔を確りと見た。

 白茶色の髪、明るい茶色の瞳。一文字の濃い眉、くっきりとした二重の大きな目、高い鼻、口唇は少し厚め――些か大味ではあるが、骨太の美男子だ。

 しかも、見上げるほど背が高い(これは私が小柄であることも理由だが)。

 この顔が、私と視線を合わせる為に心持ち背を屈めている所為で、元々半歩しかない距離が一層縮まり、本当に間近。サシェナの長めの前髪が触れそうな距離にある。

 頬が熱くなった。男性的な美形というものを間近に見たことがなかったから、同性であるのに照れてしまった。

 顔が赤くなっているだろうことを恥ずかしく思い、顎を引く――本音を言うなら、背中を向けるなり、手で覆うなりして顔を隠したい。だが、背中は扉に密着しており、両手はサシェナの手の中で、これ以上どうすることも出来なかった。

「塔の守人」

 落ち着いた声が呟く。問い掛けには聞こえなかったが、内容に間違いがないので、一応頷いた。

 こめかみに熱いものが触れた。汗が流れるように輪郭を滑り頬が覆われる。ここで漸くこの熱がサシェナの掌のものであることに思い至った。冷水を浴びせられた気がした。

「あ」

 塔に辿り着くのは、砂漠の嵐に巻き込まれた遭難者だ。

 サシェナとて同じである。疲れた様子はなく、特異な言動をするといって、己のことに手一杯になって、労わることを忘れて良い相手ではない。

 今、冷たいものを用意します――。

 慌てて告げようとした言葉は一音も口にすることが出来なかった。

 視界が横に流れた。

「あぁ、どうしよう」

 声が耳の後ろ辺りから聞こえた。このことと、声を上げようとして動かした口唇が擦れた硬い布地の感触に、抱き締められていることを知った。

 気付いてしまうと、随分キツく抱き付いて来るな、などとも思う。

「とても嬉しい。本当に……本当に」

 感極まる独白は「いた」と続いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る