第3回
3
玲奈はだらりと両腕を伸ばし、机に突っ伏すようにして目を閉じていた。
夏休みの課題も粗方終わり、一昨日から続いていたお腹の痛みもある程度落ち着いてひと安心。全ての気力を投げ出して、ただただ疲労の中に溺れていた。
傍らのベッドの上では、コトラが呑気に寝息を立てながら丸くなっている。
玲奈はゆっくりと上半身を起こすと、徐ろにコトラの体を掴んで胸に抱き締めた。柔らかい毛に頬を寄せ、くしゃくしゃになるくらい撫で回してやる。
「な、な、何ですか! 何ですか!」
コトラが慌てたように飛び起きて暴れ出したが、それにも構わず玲奈はまるでぬいぐるみのように、コトラを強く抱きしめる。
とにかく今は、疲れた身体に癒しが欲しくてたまらなかった。
「コトラ! 終わった! 終わったよ〜!」
「な、何がですか? 何が終わったんですか?」
「夏休みの課題!」
「そ、それは、良かったですね……」
暴れるのをやめて、大人しく抱きしめられて撫で回されるのを受け入れるコトラに、玲奈はひとしきり癒されてから、
「……ふう。ごめんね、コトラ。柄にもなくはしゃいじゃった」
「い、いえ、ご満足いただけたのであれば……」
コトラはやっと体を解放され、プルプルと体を震わせた。それから乱れた毛を整えるように、ぺろぺろと毛繕いを始める。
それを横目に、玲奈は机のうえに広げていたノートやら教科書やらをまとめながら、
「そうだ、桜の方はどうなったんだろ。桜ももう少しで終わりそうって言ってたけど」
もし終わっていたなら、またどこか一緒に遊びに行こう。まだ終わってないなら、手伝ってあげるのも良いかも知れない。課題さえ終わってしまえば、残りの夏休みはどこまでも自由時間だ。なんという解放感だろう。毎年早めに課題を終わらせるのは、この解放感を味わうためだと言ってもいいくらいだった。
玲奈はスマホに手を伸ばすと、桜に『課題はどんな感じ?』と短いメッセージを送った。机の上を片付けながら返事を待っていたが、なかなか桜からの返信はない。普段ならものの数分で返信があるのに、今日に限っては既読の文字すら表示されなかった。
珍しいけど、桜だっていつもいつもスマホを気にかけているわけじゃない。もしかしたら今日は村田くんとどこかに出かけているのかも知れない。そう思いながら、玲奈はベッドの上に仰向けに倒れた。
大きく深呼吸をして、額に右腕を乗せ、真っ白な天井を見つめる。左手を下腹部に当てて、円を描くように擦りながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
今日は特に予定はないし、このまま昼寝でもしちゃおうかな。
身体の力を抜き、そのまま静かに寝息を立て始める玲奈の傍らに、コトラもいつの間にか身を寄せてくる。玲奈はコトラの身体を軽く抱きながら、いつしか深い眠りの淵に落ちていった。
***
玲奈は闇の中にいた。
真っ暗な、どこまでも続く深い深い闇だった。
――あぁ、ここに来るのはひと月ぶりくらいだろうか。
玲奈は小さくため息を漏らし、同時に身体を緊張させた。
最近はあまりこういうことがなかったから、ついつい油断してしまっていた。
玲奈は辺りを見回し、神経を研ぎ澄ませて様子を窺う。
たぶん、ここに来てしまったからには何か理由があるはずだ。
コトラの姿はどこにもなく、玲奈ひとりがただ闇の中に佇んでいる。
この闇の中を進むべきか、何かが起こるまで待つべきか、玲奈はしばし逡巡した。
できることなら関わりたくはない。このまま目覚めてしまいたい。
けれど、目覚め方がわからない。
ここが夢の中とは思えないほど現実的で、意識もはっきりとしていて、起きるという行為そのものが出来そうになかった。
やがて闇の向こう側から、何かがこちらに近づいてくる音が聞こえてきた。
こつ、こつ、こつ、こつ。
これはたぶん、人の足音。
誰かが闇の中を、玲奈に向かって歩いてきている。
玲奈は身構え、音の鳴る方を注視する。
こつ、こつ、こつ、こつ。
足音は着実にこちらに近づいているが、けれどその姿は一向に見えない。
……死者だろうか、麻奈だろうか。
怪異的な何かが起きた時、この闇の中で出会うのは大抵、死者か姉である麻奈だ。
こつ、こつ、こつ、こつ。
足音からして、麻奈ではない。
だとすれば、死者、亡者……或いは。
こつ、こつ、こっ――
不意に足音が止まり、再び静寂が訪れる。
ただ、何者かの視線だけが玲奈の身体を射抜いていた。
玲奈はぞくりと背筋に悪寒を感じた。
どこ? どこにいるの? どこから、私を。
「……、……、……」
小さく囁くような声が、すぐ耳元で聞こえて玲奈は振り向く。
誰も、いない。
ただ闇が、どこまでも広がっているだけだ。
「……、……、……」
再び耳元で囁く声がした。
ばっと振り向く玲奈の目の前には、やはり闇が続くのみ。
「誰っ!」玲奈はたまらず叫んでいた。「何を言っているの!」
けれど、答える声はなかった。
それなのに、小さく息遣いだけがすぐそばから聞こえてくる。
逃げ出してしまいたかった。けれど、玲奈は逃げなかった。
その何者かに、敵意というものを感じなかったからだ。
何者か――或いは、何か。
死者でも亡者でもなく、人の姿すらしていない、タマモやコトラのような化生とも異なる、目に見えない存在。
いや、もしかしたら、それは存在すらしていないのかもしれない。
玲奈はその何かに、再び声をかける。
「……私に、何か伝えたいことがあるの?」
こつ、こつ、こつ、こつ。
玲奈の周りを、ただ足音だけがくるくると歩き回る。
それはまるで、その音の主もまた如何にして玲奈にそれを伝えようとしているのか、悩んでいるようだった。
やがて足音がピタリと止まり、玲奈は思わず身構える。
再び目の前で息遣いをするような音が聞こえて、ようやく微かに、消え入るような大きさで、
「……彼女を止めて」
それは玲奈も聞いたことのない、女性の声だった。
次の瞬間、激しい電子音が鳴り響いてーー
***
玲奈はバッと目を覚ますと、慌てて飛び起きた。
音の出所に顔をやれば、スマホがけたたましい音で鳴り響いている。
どうやら誰かから電話がかかってきたようだ。
コトラも驚いたように目を見開き、頭をもたげていた。
玲奈はベッドから起き上がると、机の上に置いたままのスマホを手に取る。
桜からの電話かと思えば、そこに表示されていたのは相原奈央の名前だった。
連絡先を交換してから、初めての電話じゃないだろうか。
玲奈は何となく緊張しながら、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「あ、宮野首さん? 私、相原だけど」
「あぁ、うん」玲奈は電話越しに小さく頷く。「どうしたの?」
「あれからどう? 体調の方は」
「う、うん。大丈夫、だいぶ落ち着いてきたから」
「そっか、よかったね」
「あ、ありがと……」
「それで、なんだけどさ、宮野首さん。今、時間ある? ちょっと会いたいなって思って」
「え?」玲奈はふと壁にかけている時計に目をやる。時刻は昼をとっくに過ぎて、夕方になろうとしていた。そこそこ長いこと寝ていたらしい。とはいえ、暗くなるまでにはまだ二、三時間ほど余裕がある。「たぶん、大丈夫だけど」
「よかった!」ふふふっと笑みが聞こえて、「ねぇ、今から遊びに行っていい? 宮野首さんの家に行ってみたいな」
「え、うちに?」
「うん。だめ?」
「うちは……」玲奈は少しばかり考え込み、「ごめんね。今日はちょっと」
「そっか、残念。お姉さんたちにも会いたかったんだけど」
「……お姉ちゃんたちにも?」
「うん。でも、まぁ、仕方がないね。それはまた今度にするよ。じゃぁ、逆にウチには来れそう?」
「相原さんの家?」
「そう。峠を越えた先にあるんだけど、どう?」
「……えっと」何でだろう。行ってはいけないような気がする。玲奈の中で、何かが危険を発していた。「そ、外は暑いし、峠を越えるの辛いから、別の場所じゃダメ?」
玲奈の言葉に、しばらく相原は沈黙する。
「……相原さん?」
どうしよう、怒らせてしまっただろうか。
何となく不安に思っていると、
「あぁ、なら、カラオケは? 駅前にあるやつ。踏切の前の」
「……カラオケ?」
「あそこなら大丈夫でしょ?」
「う、うん。じゃぁ、駅前のカラオケで」
玲奈の言葉に、相原は嬉しそうにくすくす笑んで、
「……楽しみだな」
ぷつりと静かに、通話を切った。
玲奈はそんな相原に、言いしれぬ不安を覚えたのだった。
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