第6回

   6


 疲れた、というのがハジメの率直な感想だった。


 日帰りの予定で昼過ぎに桜の父親と共に車に乗り、本当なら夕方過ぎまでには帰ってくる予定だったのに、相手方の社長さんが桜の父親を夜の接待にしつこく誘ってくるものだから、仕方なくハジメだけひとり新幹線で戻ってきたところだった。


 もしこのまま桜と結婚してオヤジさんのあとを引き継ぐことになったら、ああいうことにも今後付き合わなければならないのか。そう思うと心底辟易してくる。とはいえ、桜とこのまま一緒に居続けるには避けては通れない道だろう。時と共に、あんないかにもオヤジ臭い時代遅れの接待なんてする輩も減っては来るのだろうけれど。


 新幹線が駅に着いた頃には辺りはすっかり暗くなっており、窓から見える町並みは煌びやかな夜の姿に切り替わっていた。週末ということもあって、繁華街の方には呑みに来ているのであろう老若男女の姿がまるで餌に集る虫のようにうじゃうじゃしていた。何とも言えない嫌悪をそこに感じていると、駅到着のアナウンスが新幹線の中に響き渡った。


 新幹線を降りて駅から出ると、湿気を含んだむわっとした空気がハジメを包み込んだ。長蛇の列が並ぶタクシー乗り場の前を通り過ぎ、昔からある大きなホテルの前をとぼとぼ歩きながら、ハジメはひとり、自宅へ足を向ける。


 繁華街の広がる駅の表側と比べて、こちら側は比較的閑散としている。それでも真新しいビルやテレビ局、ホテルが多く建ち並び、それなりの活気には満ちているのだけれども。


 ハジメはそんな眩しい表通りを避けるように、足早に住宅の建ち並ぶ方へ進んだ。途端に歩道を歩く通行人や道路を走る車の量も減り、あの喧騒がまるで嘘だったかのように、虫の音が聞こえ始めた。街灯の数も減り、所々に真っ黒な影が落ちている。


 スマホを取り出し、時刻を確認してみれば午後九時前。今日のところは帰ったらさっさと風呂に入って寝てしまおう。桜に連絡するのは明日でもいいか。


 そう思っていると、

「――村田くん」

 目の前から歩いてきた人影に、ハジメはふと足を止めた。


 少ない街灯の中にぼんやりと見えたのは、黒いスカートに黒の半袖シャツに身を包んだ、髪の長い女だった。その長い髪がゆっくりと風になびき、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。すらりとした手足はモデルのようで、彼女は明るい街灯の下に立つと、ハジメににっこりと笑みを浮かべた。


「……相原?」


 ハジメは眉間に皺を寄せて、相原奈央の顔をまじまじ見つめた。


 くっきりとラインの引かれた目元と長いまつげ。スッと通った鼻の下には、紅い唇が艶っぽく煌めいて見える。桜と比べてあまりにもその姿は大人っぽく、昨日一緒にソレイユで遊んだ時とはまた違った魅力がそこにはあった。


 けれど、どうしてこんな時間に、こんな場所で。


「どうしたの? もしかして、私が誰だかわかんない?」


「あ、いや」ハジメは一瞬口ごもり、「どうしたんだよ、相原。こんな時間に」


 相原奈央はくすりと笑んで、「散歩だよ」と短く答える。


「散歩? こんなところまで?」


「うん」


 相原の家は、確か例の峠道を越えた向こう側のはずだ。三つ葉中学の校区内だから歩いて来れないほどの距離ではないが、それでも散歩というにはずいぶん遠くまで歩いてきたことになる。


「よく小母さんが許可してくれたな。こんな時間に、ひとりで散歩なんて」


「そうだね」相原は小さく頷き、「うちは基本的に放任主義だから」


「そうなのか。うちと一緒だな」


「村田くんは? こんな時間に、どうしたの?」


「俺は――バイトの帰り」


「へぇ、村田くん、アルバイトしてたんだ」


「桜のオヤジさんのところだけどな」


 そっかそっか、と何度も頷く相原に、ハジメはどことなく違和感を覚える。


 何がどうおかしいのか全く判らないのだけれど、背筋が冷えるような感覚にとらわれていた。


 早くここから立ち去りたい、心からそう思った。


「じ、じゃぁな、気をつけて帰れよ!」


 言って、奈央の横を通り過ぎようとした、その時だった。


 がしりと相原に手首を掴まれて、ハジメは眼を見開いて立ち止まり、相原に顔を向けた。


「……な、なに? どうした?」


 相原はそんなハジメに、不敵な笑みを浮かべたまま、ぐっと顔を近づけてくる。


「――送ってくれないの? 女の子ひとりなのに」


「は、はい?」


「どうするの? 私がひとりで帰ってる途中、誰かに襲われたりしたら。突然見知らぬ男に押し倒されて、暗がりで犯されたりでもしたら」


「な、何言ってんだよ、大丈夫だよ――たぶん」


「本当に? 村田くんは、私が犯されてもいいんだ? 知らない人たちに嬲られても平気なんだ?」


「い、いや、だから、そういう意味じゃなくて」


「ふぅん、そっかそっか。村田くん、そういう人だったんだ。ほんと残念。私、お友達だと思ってたのに。そんな薄情な人だったんだね。ほんと、がっかり」


「そ、そんなこと言われても……」


 相原ってこんな奴だったっけ? ハジメは戸惑いながら、何とか断れないか言葉を探した。このまま無視して立ち去ってしまっても構わないのだけれど、相手は親友である大樹の彼女だ。実際、帰り道で何かあったら大樹に対して申し訳ない思いもあった。けれどそれと同時に、こんな時間にそんな親友の彼女とふたりきり夜道を歩くというのもどうかと思う。何より、相原の様子は明らかに何かがおかしい。こんなことを口にするような子ではなかったと思う。少なくとも、大樹から聞いていた相原とは、ずいぶんと印象がかけ離れていた。


「そう――わかった」相原は深い深いため息をひとつ吐くと、ハジメの腕をそっと離し、恨みがましい視線をこちらに向けながら、「村田くんも、気をつけて帰ってね」


「あ、あぁ」


 相原の背中を見つめながら、ハジメはしばらくその場に立ち尽くしていた。


 本当にひとりで行かせてしまって良かったのだろうか。相原の様子はどう考えてもおかしかった。自分の知る相原奈央では決してなかった。何が彼女をそうしてしまったのか判らないけれど、もしかしたら、大樹絡みで何かあったんじゃないだろうか……


 色々なことが脳裏をよぎり、ハジメは大きくかぶりを振る。


 考えすぎだ。いったい自分は何を恐れて、何を心配しているんだろう。こんな夜遅くに知り合いがひとりで歩いている。しかも、夏休み前のあの一件のこともある。念のため、ここは家まで送ってあげるべきなんじゃないのか。少なくとも、桜がこの場に居たら、そうしていたはずだ。


 ハジメは「うんっ」と大きく頷き、小さくなった相原の背中を追うように駆けだしたところで、

「――きゃあぁっ!」

 相原の叫ぶ声が小さく響き、何者かに腕を掴まれた相原の姿が、不意に視界から消え去った。


「あ、相原っ!」


 ハジメがその場に駆け付けると、周囲には建設中のバイパス工事のパネルが続いており、立ち退きの為か空き家があちらこちらに点々と見えた。街灯の灯りもあまり届かず、どこまでも闇が広がっている。


「……やめて! 助けて!」


 相原のか細い声を頼りに辺りを見回せば、すぐ近くの古い民家の物陰からガサゴソと物音が聞こえてきた。


「相原!」


 ハジメは叫び、物音の聞こえる古い民家に立ち入る。室外機の角を曲がり、細い通路を通って裏側に出れば、そこにはふたつの人影に覆い被さられた相原の姿があった。


「相原!」


 ハジメはもう一度叫び、そのふたつの影に向かって飛び掛かって――しかしその瞬間、ふたつの人影はまるで霧のように消え去ってしまう。


「――えっ」


 ハジメは一瞬バランスを崩し、そのまま前のめりに倒れそうになるのを、相原に真正面から抱き留められる。


「良かった。来てくれると思ってたんだ」


 相原はハジメを優しく抱きしめながら、ハジメの耳元でそっと呟く。


 ハジメはぎょっとして身体を離そうとして、けれど相原の腕からは逃れられなかった。


 相原はこれでもかというくらいの至近距離でハジメの眼をじっと見つめる。


「私、ずっと思ってたの。大樹なんかより、村田くんの方がずっと素敵だなって。あんな頼りない男の子より、村田くんの方が身体つきも逞しいし、頼りがいがありそうなんだもの。村田くんもそうなんじゃない? 矢野さんみたいな子じゃなくて、私の方がずっと綺麗で魅力的だって思ってたでしょ?」


「お、お前、何を言って――」


「誤魔化したって無駄だよ? 昨日だってそう。村田くんは私のこと、ずっといやらしい目で見てきてた。私を犯したいって顔で見つめてた。良いんだよ? 好きにしてくれて。私も、ずっと村田くんのこと、欲しいって思ってたから。好きなだけ、好きなように、私を犯してくれてかまわないんだよ?」


 にたりと嗤う相原の顔が、ハジメは怖ろしくて怖ろしくてたまらなかった。それと同時に、この女は相原奈央なんかじゃないと確信していた。この女は、俺の知っている相原奈央では絶対にない。木村大樹の愛している女とはかけ離れた、別のナニか。


 たぶん、こいつは――あの、喪服の女。


「は、離せ! 離せえぇっ!」


 ハジメは叫び、激しく自分の身体を揺り動かして相原の――女の腕から逃れようと必死に暴れたが、けれどその身体を、ふたつの人影ががっしりと掴んでいることに、今更のように気が付き、ゾッとした。


 青白い顔をした男がふたり、にやにやとした不気味な笑みを浮かべながら、ハジメの身体をぐっと押さえつけていたのだ。


 ひとりは無精ひげを生やした中年の男、もうひとりは、見るからに汚らしい身なりの初老の男。そのふたりがハジメの肩と両足を押さえ込み、身体の自由を奪っていた。


「――あなたも嬉しいでしょう? 隠さなくていいの、偽らなくていいの。心の赴くままに、私の中にその欲望を解き放てばいいの」


 女は言って、ハジメの顔を両手で掴む。恐ろしいほどのその力に、ハジメは女の唇を拒むことなどできなかった。まるで別の生き物のようにハジメの口の中を女の舌が這いずり回り、そしてどろりとした何かが喉の奥へと流し込まれる感覚に目を見開いた。


 何だ、何なんだこれは! この女は俺に何を流し込んでいるんだ! 息が、息ができない!


 ハジメは身体を押さえつけられたまま、その何かが胃の腑へ――身体の奥底へ侵入してくる気持ち悪さと苦しさに手も足も出せなかった。


 やがて女はそっと唇を離し、それと同時に、ハジメの身体も自由を取り戻す。


 ハジメはがくりと地に膝をつき、前のめりに地面に倒れた。


 胃の中で何かが激しく蠢いていた。ハジメの身体を内側から食い破ろうと、激しく暴れているようだった。四肢が自身の意図とは反したように痙攣し、けれど次の瞬間、激しい嘔吐に襲われた。


 胃の中に流し込まれたものが、一気にハジメの口から放出される。


「こ、これは――っ」


 動揺したのは、女だった。


 全てを吐き出し、両手をついてふらふらと立ち上がるハジメを、眉間に皺をよせ、忌々しそうな顔で歯ぎしりする。


「お前、何故――っ!」


 ハジメはえずきながら、それでも必死に女たちから逃れようと、全速力で駆け出した。


 背後から自分を追い駆けてくる気配があって、ハジメは決して振り返ることなく、必死に両足を動かす。


 民家を飛び出し、駅の方へと走り続けて、人通りの多い表通りに出たところでようやくハジメは後ろを振り向く。


 はるか遠くに、こちらを睨みつける相原奈央の姿があって、彼女はしばらくハジメと視線を交わすと、闇の中に溶けるように、その姿を消してしまった。


 大樹は肩で大きく息をしながら、震える手でスマホを取り出す。


 何が何だか判らなかった。


 自分の身に何が起きたのか、何もかもが解らなかった。


 今はとにかく、桜に会いたい。桜の身体を強く抱きしめたい。


 あの気持ち悪い口づけを、その全てを、桜に消し去ってほしくてたまらなかった。

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