第4回

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 奈央が目を覚ましたのは、時計の針が午前から午後へと差し掛かろうかという頃になってからのことだった。開けっ放しにしていた窓から部屋のドアへと流れていく風は生暖かく、部屋の温度もすっかり上がり、身体中から汗が滲みだしていた。


 気怠そうに奈央はベッドから起き上がると、床に落ちていた冷感素材のタオルケットを拾い上げてベッドの上に投げ飛ばした。それから階段を下り、しんと静まり返った家の中で、玄関の方に視線を向ける。当たり前のように小母の靴も小父の靴もなく、あまりにも長いこと寝すぎたことに奈央は小さくため息を漏らした。


 昨日はソレイユで玲奈や桜たちと分かれてから、ふらつく大樹を支えながら帰宅した。大樹はしばらく奈央の部屋で横になっていたが、夕方辺りにはある程度体力が戻ったらしく、結局ひとりで帰っていった。果たして大樹は無事に家まで帰ることができただろうか。奈央はふと不安になり、あとでメッセージを送ろうと思いながら台所へ向かった。


 冷蔵庫からお茶を出して飲んでいると、ふとテーブルの上にメモと千円札が一枚、置かれていることに気が付いた。


『おはよう。冷蔵庫の中が空っぽだから、お昼ご飯は何か買って食べてね』


 奈央はありがたく思いながらメモとお札をそのままに、一旦シャワーを浴びるため風呂場へ向かった。


 手早く衣服を脱ぎ、脱衣かごにそれらを投げ込む。浴室でシャワーを浴びながら、奈央はふと身体中に小さな痣のようなものができていることに気が付いた。それは首元と言わず、胸元と言わず、腹部や太ももにまで点々としており、思わず眉間に皺を寄せた。一昨日も昨日も虫刺されか何かだと思っていたけれど、こんなにたくさん、いつの間に。奈央は鏡で全身を確かめてみたが、しかし虫刺されにしては何かがおかしい。虫に刺されたような痕はどうしても見えなくて、何かの病気だろうかと一抹の不安を覚えた。もしこれ以上増えるようなら、皮膚科かどこかを受診してみよう。思いながら奈央は風呂場をあとにし、自室へ向かった。


 勉強机の上に置いていたスマホを手に取り、大樹に『おはよう、昨日は大丈夫だった?』とメッセージを送る。なかなか既読はつかず、もしかしたら大樹もまだ寝ているのかも知れないと奈央は肩を落とした。ちょっと心配だけれど、また帰って来てから電話してみよう。


 デニムのパンツを穿き、袖にレースのあしらわれた黒い半袖シャツに腕を通す。白の帽子を頭にかぶってから、奈央はベッドの下に雑に投げていたショルダーバッグに手を伸ばした。中身を確認し、必要最低限のモノだけを入れて再び一階に下りる。台所のテーブルに置いたままにしていた千円札を手に取り、財布に収めながら玄関へ向かった。


 白のサンダルを履いて玄関を抜けると、突き刺すような陽の光と息もまともにできないほどの熱波に眉根を寄せる。一応、着替える前に日焼け止めは塗っておいたが、これだけ陽が強いとそれでもこんがりと肌が焼けてしまいそうだ。そうでなくてもあまりの暑さ、うるさいくらいに響き渡る蝉の鳴き声に、頭がもうろうとしてくる。


 さっさとコンビニでお昼ご飯を買って帰ろう。奈央は思い、足早に道を進んだ。奈央の家から近くのコンビニまでは、普通に歩いてだいたい十分もかからないくらいだ。走れば五分くらいで着くが、こんな暑い中で走る気になるはずもない。


 家を出てしばらく歩いてから、近代的なデザインの家の角を右へ曲がり、春先に建ったばかりのアパートの前へ差し掛かったあたりのことだった。


 そのアパートのうちの一室のドアががちゃりと開き、ひとりの男が姿を現した。


 男は黒の短パンに白い半袖シャツを着ており、ふと奈央の方に顔を向けた。


 視線が交わり、奈央はその男――大樹の顔に目を見開く。


「――あれ? どうしてここにいるの?」


 奈央は思わず、大樹に訊ねた。


 大樹は小首を傾げながら、

「ど、どうしてって、ここに住んでるからだけど……」

 戸惑うようにそう答えた。


「そうだったんだ」奈央は微笑み、「昨日は大丈夫だった?」


 大樹は「え」と小さく口にして辺りを見回し、「まぁ、一応」と口ごもるように答える。


「でも、どうして言ってくれなかったの? ここに引っ越してきたって」


「え、あ、いや、まぁ――ごめん」


 困ったように頭を掻く大樹の腕に、奈央は嬉しさのあまりぎゅっと抱き着く。華奢だと思っていたけれど、大樹の腕は思っていたよりもずっと太かった。なんて逞しい腕なんだろうか。気のせいか、胸板も少しばかり厚くなっているように感じられる。もしかしたら、夏休みに入ってから身体を鍛え始めたのだろうか。


 健康的な身体つきになった大樹の胸板に、奈央は左手を当てながら、

「すごい。いつの間にこんなになってたの?」


「ちょっと前からね。だいぶ身体がたるんできたから、鍛えようと思ってさ」


「そうなんだ」奈央は口元を綻ばせながら、その胸板をシャツの上から何度も撫でつつ、「ねぇ、もっとじっくりこの身体を見てみたいな」


「えぇっ?」


 大樹は眼を見張り、奈央の顔をじっと見つめた。


 戸惑うような、困ったような、けれど何かを期待しているようなその視線に、奈央はぞくりと背筋に快感を覚えた。


「……だめ?」


「あぁ、いや――もちろん、いいよ」

 大樹も口元にぎこちない笑みを浮かべると、「どうぞ」と部屋の扉を開け、奈央を中へ招き入れてくれた。

「あ、でもいいの? どこかへ出かけるところだったんじゃないの?」


「ううん」と奈央は首を横に振る。「そっちは?」


「俺も、ちょっと暇だから出かけようとしてただけだから、大丈夫」


「そっか。じゃぁ、ゆっくり遊べるね!」


「あぁ、うん。そうだな」


 ぱたりとドアが閉じられて、奈央は大樹の部屋に足を踏み入れた。


 玄関で靴を脱いで短い廊下を抜けると、汗臭い小さな部屋がそこにはあった。いかにもひとり暮らしの男の部屋といった感じだ。


 小さなテレビとゲーム機、茶色いテーブルに座布団。部屋の隅のパソコンデスクには二つのモニターがのっていた。ちゃんと掃除はされているらしく、床の上は意外にも綺麗だった。


 唯一脱ぎ散らかされていた衣服を拾い集めながら、大樹は「好きに座ってて」と口にする。


 奈央はそんなリビングの隣、開け放たれた寝室に足を向けた。


 そこはベッドと本棚、大きめのワードローブだけの簡素な部屋だった。


 彼女はベッドに腰かけ、口元に笑みを浮かべた。


「――あ、そっちは寝室だから、遊ぶならこっちで」


 大樹が顔を覗かせ、そう口にする。


 けれど奈央は首を横に振って、

「ううん、こっちがいい。ねぇ、早く来てよ」


「い、いや、でも――」


「は、や、く」


「あ、あぁ、うん……」


 大樹は恐る恐るといった様子で寝室に入ってくると、ぽんぽんと自分の隣を軽く叩く奈央の隣に腰を下ろした。


「えっと、それでキミは……」


 何か言葉を発しようとする大樹の唇に、奈央は構わずキスをした。


 驚き、のけぞる大樹に奈央はさらに身体を寄せ、舌を絡ませる。ふんわりと香るタバコのような臭い。ざらりとした舌の感触。はじめこそ戸惑っていた大樹も徐々に奈央の気持ちに応え、今では自ら求めるように奈央の身体を抱き寄せ、貪るようにその唇に吸い付いていた。


 とても幸せな瞬間だった。これほどまでに大樹に求められて、奈央は頭の中が痺れるほど嬉しくてたまらなかった。


 大樹の手が奈央の胸をまさぐり、ふとももを這い、股座の間を、その中を激しく蠢くたびに身体が激しく震えた。


 全てが大樹だった。


 奈央は大樹の頬に両手を添え、激しくその唾液を啜った。無精ひげのその感触すら愛おしかった。大樹は感情のままに奈央の服を脱がせた。奈央も大樹にされるがまま抗おうともしなかった。


 奈央の中には大樹しかなかった。全てが大樹に満たされていた。大樹こそが奈央のすべてだった。奈央の中を激しく行き来する大樹の顔が快楽で歪み、彼女は愉快でたまらなかった。


 大樹は何度も何度も奈央の中に欲望を注ぎ込んだ。穢れに満ちていた。汚い汗と唾液と体液に女の身体は塗れていた。男は獣の如く奈央をもてあそび、我を忘れて躊躇いもなく奥へ奥へと何もかも全てを吐き出した。


 彼女は嗤っていた。ついに成し遂げた事への悦びに浸り、哀れな男の末路を見下ろしながら、その唇を激しく貪り、覆い被さり、腰を何度も打ち付けながら、男の中へとどろりとした塊を流し込んだ。


 男は苦し気に、何度も何度もうめき声をあげていた。叫び声をあげていた。苦しそうに目を見開いていた。悶え苦しんでいた。


 それでも彼女はそれを辞めなかった。


 白目を剥き、涙や鼻水に汚れた男のその醜い表情を見下ろしながら、彼女は高らかに悦びの声をあげていた。


 奈央は大樹と繋がれたことに至高の喜びを感じていた。こんなにも満たされたことはなかった。自分の身体が全てに満たされていくのを感じて身体が激しく痙攣した。快楽の中に見えたのは大樹の顔だった。大樹の顔だけだった。


 女は男を貪っていた。男の全てを喰らいつくさんばかりに、深く深く食らいつき、舌を絡め、有無も言わさず胃の腑の奥までソレを注ぎ込んだ。


 どろどろに溶け合ったふたりの身体も魂もひとつに交わろうとしていた。それがあるべき姿だと奈央は思った。


 奈央は大樹とひとつにあるべきなのだと確信していた。


 奈央の全ては大樹であり大樹の全てが奈央であり奈央は何度も何度も大樹から注ぎ込まれる子種に喜びを感じ、目の前には満天の星空が見えた。奈央は大樹と共に並び、夜空を見上げながら口づけを交わしていた。きらきらと瞬く星々がとても綺麗で降り注いでくる何もかもが大樹だった。燦然と煌めく星々のなかで奈央は大樹と交わり、絡まり、何もかも忘れてそのひと時に全てを求めた。全は一であり一は全であり奈央は大樹の何もかもを手に入れた。奈央は至高の幸福に身を委ねた。


 突き抜ける快楽に彼女は今ようやく手に入れるべきものを手に入れた現実に酔い痴れ、そしてひとり、ほくそ笑んだ。

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