第7回
7
相原奈央を目の前にして、結奈は彼女を直視することができなかった。
この娘が、あの男――相原響紀の親戚の子。
喪服の女に狙われながら、唯一その魔の手から逃れたという、妹たちと同じクラスの少女。
すらりとした肢体はモデルの如く。その整った目鼻立ちはとても涼やかで日焼けもなく透き通るように白かった。ピンクの唇は艶っぽく、うっすらと引かれたアイラインが年上であるはずの自分よりもひどく大人っぽく見えた。それでいて年相応のあどけなさも残していて、これほどの少女を結奈はこれまでの人生で一度も眼にしたことがなかった。
たとえ同性であっても眼が釘付けになるほどの美しさ――けれど、響紀のことを思うと、結奈はどう奈央に声をかけていいものか解らなかったのである。
軽い挨拶だけして、ひとりうちに帰ろうと思った。
それが昔からの悪い癖であり逃げであることは重々承知していたけれど、どうしても居たたまれない気持ちになって、村田一が来るのを理由にしてこの場を去ろうと思ってしまった。
もしあの時、桜が引き留めてこなければ、結奈は自分の気持ちに従って逃げ帰っていたことだろう。とは言え、今でも逃げたい気持ちに変わりはないのだけれども。
結奈は桜や玲奈たちと館内を歩きながら、それでもなるべく奈央には関わらないよう努めずにはいられなかった。
カードショップの前でハジメや大樹たちと分かれ、そのまますぐ隣のスズキ図書に結奈たちは向かった。
店内に足を踏み入れるなり、結奈は玲奈たちに手を振って、
「じゃ、私はあっちに行ってるから、あんたたちも適当に店んなか回ってなよ!」
「あ。うん」
「玲奈、新刊コミックんとこ行こうよ。奈央はどうする?」
「私も、ちょっと欲しい本あるから、またあとでそっち行くね」
「わかったー」
そんな会話を背に、結奈は足早に人文科学のコーナーへ足を向けた。
児童書や小説、コミックコーナーと打って変わって客の姿はとてもまばらで、ひとりふたりいれば多い方、書棚の列によってはひとりも人の姿は見当たらなかった。
結奈は実際のところ、レポートに必要な本などありはしなかった。
そもそも大学は二か月もの夏季休業に入っているし、ゼミでもそんな課題は出されてなどいない。むしろこの八月と九月の長い長い休みをどう過ごすか、まだその予定すらまともに立ててなどいないほどだった。
ゼミ仲間の中にはこの夏季休業を利用して県北に伝わる妖怪物語の研究およびその現代語訳、などというものにチャレンジすると言っている子もいたけれど、さて、私はいったい何をしようか。ってか、何したいんだか……
思いながら、結奈は日本神話の棚の前を、左右にうろうろと行ったり来たりする。
どうせなら、改めて神話について学び直してみるというのはどうだろうか。
宮野首家はもともと田舎の神社の神主の家系だし、その縁で今バイトのような形で巫女をやっているけれども、そこまで詳しく神話について突き詰めたことなんてなかった。
宮野首家の本家である新道平神社に祀られているのは主に市寸島比売(いちきしまひめ)命、多紀理毘売(たぎりびめ)命、多岐都比売(たぎつびめ)命の三女神である。他に伊邪那岐神、伊邪那美神の二柱の社も境内に並んでいたと記憶している。祖母の代で廣嶋市内に引っ越してきてしまったために、その本家との関りも希薄になり、結奈たちの代ではもう数えるくらいしかその神社には訪れたことがなかった。
ここは自分のルーツ(は言い過ぎかもしれないが)を知るために、とりあえず宮野首本家の神社で祀られている神様のことくらいは詳しくなっておくか。
思いながら、結奈は本棚に並べられていた『ざっくり解説・古神記の話』という、如何にも初心者向けなのであろう、美少女キャラのたくさん描かれた薄めの本を手に取った。
ぱらりとページをめくり、軽く目を通してみる。
***
天地の始め
宇宙が始まり、あらゆる物質が生まれたが、しかしその気性は完全ではなく、名前も動きもなくその形を認識できるものなどどこにも存在しなかった。やがて天と地が分け隔てられ、そこにはじめて現れた神の名は天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神。続いて高御産巣日(たかみむすひ)の神、神産巣日(かみむすひ)の神。しかしこの三柱の神々には眼に見える形というものがなく、皆独り神だった。
次に、国の若く水に浮いた脂の如き水母の様な時代に、泥の中から葦が芽吹くような勢いで現れた神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神、次に天(あめ)の常(とこ)立(たち)の神。この二柱もまた眼に見える形というものがなかった。
以上、五柱の神々は別(こと)天(あま)つ神(かみ)である。
次に現れた神の名は国(くに)の常(とこ)立(たち)の神、豊雲野(とよくもの)の神。続いて現れた神の名は宇比地邇(うひぢに)の神、次に湏比智邇(すひぢに)の神。角杙(つのぐひ)の神、活杙(いくぐい)の神。意富斗能地(おほとのぢ)の神、大斗乃弁(おほとのべ)の神。於母陀流(おもだる)の神、阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。伊耶那岐(いざなき)の神、伊耶那美(いざなみ)の神。
以上、国の常立の神より下、伊耶那美よりも前を、併せて神世七代(かみよななよ)と称する。上の二柱は独り神で一代であり、下の五柱は双り神にて一代である。
別天つ神
造化の三神
天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神 天の中心を司る最高神。
高御産巣日(たかみむすひ)の神 天照大神と並び高天原の至上神。生成と太陽を司る。
神産巣日(かみむすひ)の神 生成の力を持つ。兄弟神に謀殺された大国主を蘇生した。
命を吹き込む
宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神
天上界の永久を守る
天(あめ)の常(とこ)立(たち)の神
以上、五柱に姿形や性別はない。
神代七代
国土の永久を守る
国(くに)の常(とこ)立(たち)の神
大自然に命を吹き込む
豊雲野(とよくもの)の神
生命を育む土壌を整える
宇比地邇(うひぢに)の神
湏比智邇(すひぢに)の神
生命に形を与える
角杙(つのぐひ)の神
活杙(いくぐい)の神
男女の性別を与える
意富斗能地(おほとのぢ)の神
大斗乃弁(おほとのべ)の神
人の姿を整え、繁栄と増殖を促す
於母陀流(おもだる)の神
阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神
男女の求愛を行う
伊耶那岐(いざなき)の神
伊耶那美(いざなみ)の神
以上、七柱のうち、先の二柱は姿形や性別はない。
後の五柱は形があり、それぞれ男女一組で一柱である。
***
なるほど、男女の求愛、要するにセックスの神様っていうことか。
思いながら、結奈はくすりと笑んだ。
それはさすがにふざけた言い方かもしれないけれど、実際、このふたりのセックスによって国が産まれてきたわけだから、決して間違いとも言い切れないだろう。
結奈はさらにページをめくった。
***
島々と神々の生成
こののち、伊耶那岐と伊耶那美は別天つ神の命により、天の泥矛を賜って漂える国を整えはじめる。天の浮き橋に立ち、淤能碁呂島を形成しそこに降り立ち、天の御柱を立てて御殿を建てた。二柱は婚姻し、この際伊耶那美から声をかけ交わったことにより水蛭子が産まれ、二柱はこの子があまりに醜く育つことがない為に葦の船に乗せて流した。また、次に淡島が産まれたが、これも子の数に入れなかった。
伊耶那岐と伊耶那美は別天つ神に相談し、伊耶那美より声をかけ交わったことが原因であると占われる。二柱は御殿に戻り、伊耶那岐から声をかけて交わった。これにより多くの国が産み出されることとなった。国の形が整い、続いて神々が産み出された。そして火のヤギハヤオまたの名を火のカガビコ、或いは火のカグツチを産んだ際、伊耶那美はその炎で陰部を焼いて病み伏せる。この際に吐瀉物からはカナヤマビコの神とカナヤマビメの神が産まれた。次に糞からハニヤスビコの神とハニヤスビメの神が産まれた。また尿からはミツハノメの神とワクムスヒの神、またの名をトヨウケビメの神が産まれた。こうして伊耶那美は命を落とした。
カグツチにより陰部を焼き、嘔吐や下痢などに苦しむ伊耶那美であったが、それでも神々を産まねばならなかった。死ぬ直前に糞や尿より産み出された神々には、火を防ぐ力があった。伊耶那美は苦しみの中で死んでいった。
伊耶那岐と伊耶那美が産んだ国の数は十四、神は三十五柱だった。
黄泉の国
伊耶那岐は伊耶那美の死体を前に、「美しき我が妻が一匹の子によって死んでしまった」と嘆き悲しみ、枕の方や足元の方で泣き伏した。この際、その涙からも泣沢女の神が生まれた。伊耶那美の骸は射雲の国と伯耆の国の境にある、比婆の山に葬られた。伊耶那岐は佩いていた刀にてカグツチの首を斬り落とし殺した。その際に飛び散ったカグツチの血や体からも様々な神々が生まれた。
***
たくさんの子供を産んで、そして火の神様を産んだことで性器を焼いて死んじゃうなんて。
しかも、せっかく産まれた火の神を簡単に殺してしまうだなんて。
なんだかちょっと、火の神様が可哀そうかも。
結奈は次のページをめくった。
***
命を落とした伊耶那美の骸は、島禰県夜須来市の比婆山に葬られる。廣嶋県鉦原市にも同名の山と伝説があるが、江戸時代に本織宣長によって記された『古神記伝』から考えるに、伊耶那美は島禰の比婆山に葬られたものと思われている。
伊耶那岐はもう一度伊耶那美に会いたいと、死者の魂の留まる黄泉の世界に向かった。その御殿の扉を開いて現れた伊耶那美に、伊耶那岐は言った。「愛しき我が妻よ。私とあなたが作っていた国は、まだまだ作り終わっていない。だから帰ってきなさい」 これに対し、伊耶那美は答える。「あぁ悔しい、どうしてもっと速く来てくださらなかったのですか。私はもう黄泉の火にかけた物を食べてしまいました。しかし、愛しきあなたが折角来てくださったのです。何とかして帰りたい。ですので、黄泉の神々に相談してみようと思います。ただし、その間私を見ないでいてください」そう言って伊耶那美は扉の向こうに姿を消し、伊耶那岐はしばらくの間待っていた。しかし伊耶那美はなかなか戻ってこない。伊耶那岐は左の御髻(みみづら)に刺していた湯津爪櫛(ゆつつまくし)の歯を一本折り、それに火を点して御殿の中を覗き込んでみれば、蛆が大量にわき、ごろごろと音を立てながら頭には大雷(おおいかづち)、胸には火(ほ)の雷(いかづち)、腹には黒雷(くろいかづち)、陰部には柝雷(さくいかづち)、左の手には若雷(わきいかづち)、右の手には土雷(つちいかづち)、左の足には鳴雷(なるいかづち)、右の足には伏雷(ふしいかづち)の併せて八つの雷神を出現させた伊耶那美の姿があった。
***
つまり、ゾンビになっていたってことか。
結奈はうげっと軽く舌を出した。
にしても、ここでも随分、たくさんの神様が出てくるものだ。
***
伊耶那岐はこれに驚き、慌てて逃げ出した。「よくも私に辱を掻かせましたね」と伊耶那美は伊耶那岐の後を配下である黄泉醜女(よもつしこめ)に追いかけさせた。伊耶那岐がこれに対し黒御蘰(くろみかずら)を投げると野葡萄が生えた。黄泉醜女らがこれを取って食べている間に伊耶那岐は逃げたが、なお追いかけて来る者に右の御髻に刺していた湯津爪櫛の歯を欠いて投げつけると今度は筍が生えた。これを抜いて食っている間に、伊耶那岐は逃げ続けた。伊耶那美はさらに八つの雷神に千五百の黄泉軍を従えさせ伊耶那岐を追わせた。そこで伊耶那岐は佩いていた十拳の剣を抜いて後ろに振りながら逃げ、なお追われて黄泉平良坂の下まで来たとき、そこに成っていた桃を三つ取り投げつけると、黄泉軍は皆逃げていった。伊耶那岐はこの桃に「お前が私を助けたように、葦原の中つ国に住む者達が苦しんでいる時にも助けてやってくれ」と言われ意富加牟豆美(おほかむづみ)の命という名前を与えた。そして最後に伊耶那美が自ら追いかけてきた。これに対し伊耶那岐は千引の岩で黄泉平良坂を塞ぎ、その岩を挟んで伊耶那美は叫んだ。「愛しき我が夫よ。こうなればあなたの国の民草を、日に千人縊り殺してやりましょう」これに伊耶那岐は答える。「愛しき我が妻よ。ならば私は日に千五百の産屋を立てよう」これにより人は一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百人が生まれるようになったという。
伊耶那美はすでに黄泉の国の女帝となっており、その配下には様々な魑魅魍魎を従えていた。日に千人殺そうといったのは、もちろん実際の数ではなく多くの民を殺そうという意味である。伊耶那岐も、実際の数ではなく死ぬ数を上回る子を生もうと宣言し、これを別離の言葉として双り神から独り神になったのである。
伊耶那美はこれにより、黄泉津大神と成り、伊耶那岐を追ったことから道敷の神とも呼ばれている。また、その黄泉の坂を塞ぐ岩を道反大神といい、またの名を黄泉戸の大神ともいう。黄泉津平良坂とは、今の射雲の国の伊賦夜坂である。
***
「神話について、レポートを書くんですか?」
「うきゃあっ!」
思わず変な叫び声が漏れて、危うく手にしていた本を取り落とすところだった。
慌てて横を振り向いてみれば、そこには相原奈央の姿があって、興味深そうに結奈の手にしている『ざっくり解説・古神記の話』を覗き込んでいた。
ふんわり香ってくる甘い香水の匂い――けど、それに混じって何か妙な臭いが結奈の鼻を突く。腐った魚のような、微かな臭い。
「あ、ごめんなさい! 驚かせちゃって!」
「あ、ううん、大丈夫大丈夫!」
結奈はぶんぶんかぶりを振る。
「ちょっと集中して読んじゃってたわ。ごめんね、気付かなくて」
「いえ、お気になさらず」奈央は言って、微笑むように、「すごい可愛いイラストですね。子供向けですか?」
「さぁ、どうだろう。たぶん、子供向けってより、オタク向けって感じじゃない?」
なるほど、と奈央はくすりと笑んで、
「でも、本当に酷い男ですよね、イザナギって」
「え? あぁ、うん」結奈は頷きかけて、「……そう?」と小首を傾げる。
すると奈央は眉間に皴を寄せて、
「だって、初めて産まれた子は海に流しちゃうし、次に産まれた子は子供のうちに入れないし、次から次へと子供を産ませたうえに、そのせいでイザナミが死んでしまったからって、最後に産んだ子供すら簡単に殺してしまうんですよ。あんなに苦しんで、死んでまで産んだ子供を、簡単に! あり得ないでしょう、こんな男は!」
「た、確かに、そう考えればそうかもしれないね……」
思わぬところでスイッチの入った様子の奈央に、結奈は少しばかり引き気味に返事した。
会った時から何となく大人しそうな子だと思っていたし、実際玲奈や桜たちから聞いた話だと人付き合いの苦手な静かな子といった印象だったけれど、その内側にはこんな感情を抱いていたりするのかと驚いてしまう。
「だから、仕方のないことなんですよ」
「仕方がない? 何が?」
「日に千人が縊り殺されたとしても、それはイザナギのせいなんです」
「……あ、うん。そうだね」
「貴方なら、そう言って頂けると思っていました」
奈央はにっこりと微笑んで――けれど、その眼はまるで笑ってなどいなかった。
瞬間、あの魚の腐ったような臭いが強まったような気がして、思わず結奈は息を止める。
なに、この臭い。いったい、どこから……?
眉を寄せ、結奈は辺りを見回す。
そんな結奈に、奈央が一歩、歩み寄ってくる。
「――どうかしたか?」
ずん、とお腹の奥に響いてくるような、低い声。
結奈は「えっ」と奈央の顔をじっと見つめ、そして眼を見張った。
一瞬、奈央の姿がぐらりと揺れて、そこにうっすらと黒い影が浮かんで見える。
けれど瞬きをした次の瞬間には、すでに先ほどまでの奈央の顔がそこにはあって。
「……大丈夫ですか? 顔色が悪いみたいですけど」
「あ、あぁ、うん、だい、だいじょうぶ」
「そうですか? ならいいんですけど……」
「お! いたいた! 奈央! 結奈さん!」
通路の向こう側から桜の声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、レポートの資料、見つかった?」
ふたり並んでこちらに歩いてくるその姿に、結奈はほっと安堵し、胸を撫で下ろした。
それから改めて奈央の方に視線を向けて、
「――っ!」
ひゅっと息を飲んでしまう。
奈央は口元にニヤリと不気味な笑みを浮かべており、動揺する結奈に、
「……また今度、ゆっくりお話ししましょうね。ふたりっきりで」
そう小さく口にすると、「ごめんね! お姉さんと話し込んじゃって!」と、桜と玲奈に向かって、小走りに駆けて行ったのだった。
結奈はそんな奈央の姿に、足元が小さく震えて、止まらなかった。
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