第4部 序幕・ぬくもり

ぬくもり

 彼は彼女を愛していた。


 そこに嘘偽りなどなく、ただ純粋な好意だと彼は信じていた。


 その好意は言葉にせずとも彼女に伝わっているものだとばかり思っていた。


 それゆえに、彼は彼女が涙を流すことに我慢ならなかった。


 どうして彼女は泣いているのか。


 どうしてそんなに辛そうな表情をしているのか。


 どうしてそんな思いをしなければならないのか。


 それは彼にとって理不尽なことだった。


 自分の愛する人は、自分の一部に他ならなかった。


 彼女が涙するということは、彼が涙するのと同義だった。


 彼はそれが許せなかった。


 必ずその理由を排除しなければならないと決意した。


 それは彼女を守る為であり、彼を守る為であった。


 彼はただ正しいことをしたかった。


 それが正義であると信じていた。


 彼女を悲しませるものを徹底的に取り除かなければならない。


 彼はその原因に心当たりがあった。


 いつも彼女に付きまとっている、あの男だ。


 あの男を排除しなければ、彼女の、そして彼自身の悲しみは消えることは決してない。


 だから、彼は男を殺してしまおうと思っていた。


 それが彼と彼女の為だと強く信じていた。


 彼は男を追い詰め、そして男と共に転落した。


 それは彼にとっても命がけの行為だった。


 彼女を守るためには、致し方ない自己犠牲。


 その為に、彼の腕は折れ、肋骨には複数のひびが刻み込まれた。


 それでも良かった。


 彼女の幸せの為には、必要不可欠な事柄だったのだ。


 そう、強く信じていたのに――


 目を覚ました彼の目の前に、彼女はどこにもいなかった。


 彼女は彼の前から消え、一命をとりとめた男に寄り添っていたのである。


 何故、と彼は戦慄した。


 酷い裏切りだと彼は絶望した。


 すべてが反転した瞬間だった。


 認めることのできない現実に、彼の心は打ちのめされた。


 彼はすべてが許せなかった。


 男のことも、男を選んだ彼女のことも。


 彼は暗闇の中、ただ独りだった。


 どこまでも続く闇を、あてもなく彷徨っているようだった。


 彼の居場所などどこにもないように思われた。


 彼の存在理由も失われてしまったように思われた。


 彼にとって、彼女は全てだった。


 生きている理由に他ならなかった。


 彼女を失った今、彼に生きる理由などありはしなかった。


 彼は夜の闇を彷徨いながら、全てを手放そうとしていた。


 彼女に裏切られたこと、男に彼女を奪われたこと。


 命がけで彼女を守ろうとしたというのに。


 彼はその現実からとにかく逃れたかった。


 彼は闇の淵に立ち、眼下の虚空を見つめた。


 そこにしか救いはないように思われた。


 自分もその虚空の一部になってしまいたかった。


 全ての感情を失い、存在を失い、無に帰してしまいたかった。


 だから、彼は一歩踏み出そうとした。


 彼の足が、その淵から離れようとした、その時だった。


「――ごめんなさい」


 彼の背後から声がした。


 彼は振り向き、目を見開いた。


 そこには、愛しき彼女の姿があったのだ。


 彼女は眼に涙を浮かべ、彼に向かって両腕を広げていた。


 彼は救われたようだった。


 彼女が、戻ってきてくれた。


 彼は気付けば、彼女の身体を強く抱きしめていた。


 彼の身体を優しく包み込むように、彼女もまた彼の背中に腕を回した。


 甘い花の香りが心地よかった。


「私を許して」


 彼女は言って、そっと彼にキスをした。


 ぬるりとした舌が彼の中を這い、どろりとした何かが彼の中へと流れ込んだ。


 彼は眼を大きく見開き、驚愕して彼女から身体を離した。


「――どうして逃げるの?」


 彼女はそう口にすると、にやりと笑んだ。


「私は、あなたが欲しい。あなたは、私が欲しくはないの?」


 再び彼女は両腕を広げる。


 彼はその姿に違和感を覚えたが、けれどその想いに反することはできなかった。


 彼は今一度彼女の身体を抱きしめると、吸い込まれるように彼女の唇に口づけして。


 彼は幸せだった。


 愛する彼女と通じたような気がした。


 彼の望みが叶ったようだった。


 彼は彼女のモノになりたかった。


 彼は彼女が欲しかった。


 彼女の全てが欲しかった。


 彼女の身体に包まれながら、彼は全てを彼女に委ねた。


 それは至福のひと時だった。


 身も心も彼女の中にあって、彼はもはや彼女の一部だった。


 彼女は悦びの声をあげていた。


 彼も歓びの声をあげていた。


 ふたりを見下ろす彼らもまた、喜びの声をあげていた。


 全ては彼女のモノだった。


 彼女こそが全であり、神であり、母であった。


 そのぬくもりに包まれながら、彼は――

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