第26回
奈央、と大樹は口の中で呟き、自動ドアを何とか自力で開くと、外に飛び出した。
生温い空気が辺りを支配し、霧のような細い雨が降りしきっている。空には灰色の重たい雲がたちこめ、今にも世界を圧し潰してしまいそうだった。周囲の民家のどれにも灯りはついておらず、しんと深く静まり返っていた。人の気配どころか、車一台走っていない。まるで世界に取り残されてしまったような寂しい空間。そればかりか、大樹はこの世界がまるで虚構のようだと感じた。自分たちが住んでいる街に似せて作られた、張りぼてのような偽物の世界。
迷い込んではならない場所に迷い込んだような気がして、大樹は身を震わせた。
大樹はそんな世界の中で、拳を強く握りしめ、喪服少女が住んでいると言われている峠道を駆けのぼった。
奈央はきっと、あの女と一緒にいる。
小林と同じように、あの喪服少女もまた奈央の身体を狙っているのだとすれば、早く助けに行かないと。
道中、大樹は道の傍らで崩れた祠を目にした。それは昔からその場にあって、近所の老人たちが毎日のように手入れしている小さな祠だった。その祠には古い地蔵が祀られているはずだったが、肝心の地蔵は無残にも粉々に打ち砕かれ、すでにその形を失っていた。のみならず、それは砕かれてから相当の時を経ているのだろう、緑のコケが至る所に生えていた。
ざわざわと道沿いの竹林がざわめく。建ち並ぶ形だけの家々の前を通るたびに、まるで誰かに監視されているような感覚に囚われて大樹は辺りを見回した。
闇の中に蠢く何かの気配は感じるものの、彼らがその闇から這い出てくるようなことはなかった。大樹を警戒し、恐れ、身を潜めているようだ。
やがて峠道の中腹で、大樹はその廃屋を前に立ち竦んだ。禍々しいその雰囲気に、大樹は尻込みしてしまう。
幼いころから、決して近づかないようにしていた不気味な廃屋。
ここには喪服の少女がひとりで住んでいて、関わったものを誘い込んでは――
大樹は大きくかぶりを振り、ダメだダメだ、と自身を奮い立たせた。
早く、奈央を、助けないと。
大樹は頷くと廃屋の門を開き、一歩踏み出して。
「あぁぁ――あぁあ! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――!」
耳をつんざくような絶叫に、大樹は身を震わせて立ち止まった。
今のは、奈央? いや、違う。奈央の声とは明らかに違う声だ。いったい、何が?
大樹は辺りを見回し、どこから声が聞こえてきたのか耳を澄ませる。
「俺の家族に、手を出すなぁああぁ―――!」
聞き覚えのない、男の声。
何だ、何なんだよ! 何が起こってるんだ!
たぶん、家の中じゃない。家の外、庭だ。けど、いったいどこから行けばいいんだろう。
「奈央! 奈央!」
大樹はその名を叫んだが、その声はまるで聞こえていないようだった。
バタバタと駆ける足音、そしてか細い悲鳴が再び聞こえる。
あっちか、と大樹は廃屋の玄関を抜け、細い通路を回り込むようにしてその音の方へ向かった。
そこには比較的広めの庭があって、地面に尻をついて背中を向ける奈央の姿があった。
奈央は肩で激しい息をしながら、目前に見える古い井戸を見つめていた。その井戸の口はトタン板で塞がれており、まるでそこに何かを叩き落としでもしたかのように大樹には見えた。
大樹が困惑しながらその姿を見つめていると、車の走行音がすぐ近くから聞こえてきた。空を見上げれば雲間から青空がのぞき、太陽の光が差し込みはじめる。
「……奈央! ……奈央! 奈央!」
大樹は叫び、再び駆け出した。
奈央がこちらを振り向き、強張った表情で大樹を見つめた。
大樹はそんな奈央の身体を抱き起しながら、
「大丈夫? 痛いところとかない? 何があったの?」
けれど、奈央はその質問にはすぐに答えることができないようだった。
奈央は堰を切ったように嗚咽と涙を漏らしながら、大樹の身体にしがみつく。
何が起こったのかまるで解らなかったけれど、たぶん、この様子だとすべて終わったあとのようだ。
あの喪服の少女はどうなったのか、あの男の叫び声は誰のものだったのか、ここでいったい何が起こっていたのか、解らないことだらけだったけれども、今はただ、大声で泣きじゃくる奈央を抱きしめることしか、大樹にはできないのだった。
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