第2回

   2


 しとしとと降り続ける雨に、玲奈はどこか憂鬱な気分だった。桜と並んで歩きながら、それを表に出さないようになるべく笑顔で話をしていたつもりだけれど、ふとした瞬間にため息が漏れてしまうことは止められなかった。桜もそれを意識しているのだろうけれど、努めて普段通りに接してくれるのがありがたい。きっとひとりでいたら、もっと鬱々とした気分になっていたことだろう。


 鯉城のお堀沿いの歩道を歩き続けて、やがてふたりは学校にたどり着いた。傘を傘立てに差し、靴を履き替えて自分たちの教室へ向かう。




 ――ぴちょんっ




 水の滴る音がした。


 その瞬間、玲奈はハッとなって立ち止まる。思わずコトラに視線を向けると、コトラも玲奈を見上げていた。それから桜に視線をやると、桜もそんな玲奈を心配そうな表情で、

「……何かあった?」


 玲奈はこくりと頷く。


「たぶん、いる」


「アイツ?」


「それは……わからない」


 まだ、音がしただけ。水の滴るあの音が、聞こえただけだ。


 まだ、あの男とは限らない。


 もう一度コトラに視線を向ければ、コトラは鼻をひくひくさせてから、

「……臭いが混ざっていて、わかりません」


「混ざってるって――どういうこと?」


 桜が問うと、コトラは「おそらくですが」と前置きしてから、

「他にもたくさんの霊が集まってきているんだと思います。いったい、どれくらいいるんだろう。それすらも判らないくらいの数が、集まってきています」


「集まってきてる? 学校に?」


 聞き返す桜に、コトラは頷く。


「はい」


 玲奈は辺りを見回し、霊の気配や姿を探した。たくさんの生徒たちがひっきりなしに行き来する脱靴場。そこから見える校門の方へ顔を向ければ、古い制服を着た生徒たちの姿がちらほら見えた。だがしかし、それはある意味、いつもの光景でもあった。いつ亡くなったのか解らない、複数人の霊魂たち。彼らは死してなお、学校という場所に囚われている。登下校中に事故死した者、学校の行事で不慮の死を遂げた者、虐めに耐えかねて自死した者、そして或いは――何者かの手によって殺された者たち。そんな彼らが今もなお、どこからともなく毎日のように登校してくるのだ。


 けれど、彼らが生者である生徒たちに害をなすことは極めて稀だ。


 彼らは学校に囚われてこそすれ、そこに悪意はない。


 永遠に続く学生生活を、いつまでもいつまでも、繰り返しているだけに過ぎない。


 繰り返し続けている彼らにとっては逃れることのできない苦痛だが、生者に害をなさない以上、玲奈も彼らをどうこうするつもりはなかった。というより、彼らに自我というものは最早ない。機械的に同じ毎日を繰り返していると言ってもいいだろう。たぶん、土曜も日曜も祝日も関係なく、彼らは毎日登校し続けているのだ。


 そんな死霊と化した生徒たちの中に混じって、明らかに学生ではない者たちの姿もちらほら玲奈には視えた。


 ボロボロの服を着た年齢も顔も判らない男女。何人もの魂が一つに固まったような、肉塊にしか見えないグロテスクな怪物。まるでゾンビのようにふらふらと彷徨うように歩く、引き裂かれた腹から零れ落ちた内臓を引きずり歩く性別すら解らない腐乱した――そこで玲奈は視線をそらす。


「何か視えたの? 玲奈」


 玲奈は思わず口元を覆いながら、

「いる。たくさん。いつもより、数が多い。でも、アイツは、いない」


 あまりの臭気に耐えかねて、玲奈は言葉を切れ切れに返事した。


 これでは恐らく、コトラの鼻も役には立たないだろう。それが証拠に、コトラは先程からくちゅん、くちゅんと鼻を鳴らし続けている。


「桜は、平気なの? この臭い」


 玲奈の言葉に、桜は鼻をすんすん鳴らすように辺りを嗅ぐが、

「……ちょっと生臭いような気はするけど、そこまでじゃないなぁ」

 それから桜は、すっと玲奈の手を握ってくると、玲奈が今しがた見ていた校門の方に顔を向けた。


「視える?」


 玲奈の問いに、桜は首を横に振って、

「――ごめん、今は視えない。バス乗ったときには視えたんだけどな。スーツ姿の男――たぶん、アイツが。アイツはいないわけ?」


「たぶん」玲奈は答えて、改めて辺りを見回す。「今のところ、いないみたいだけれど……」


 視えていないだけで、或いはやはり、どこかに潜んではいるのかもしれない。


 けど、これだけの霊が集まっていては、たぶん、どこにいるか判らない。


 でも、どうして? なんで今日に限って、こんなにたくさんの死霊たちが集まってきているの?


 玲奈は一瞬、死霊たちがあのスーツの男の仲間か何かではないかと疑ったが、玲奈に目もくれず校内に消えていくその姿に、ほっと胸を撫でおろした。


 何が何だかわからないけれど、とりあえず、目的は私ではない。


 でも、だとしたら、何が目的――?


「玲奈?」


 桜に声をかけらえれて、玲奈は「えっ」と我に返った。


 見れば、桜が心配そうな表情で玲奈の顔を覗き込んでくる。


「――大丈夫?」


 玲奈は「う、うん」と頷いて、

「行こう、桜」


「あぁ、うん」桜は眉間にしわを寄せながら、「でも、なんかあったらすぐに言いなよ?」


「わかってる。ありがとう、桜」


 玲奈は返事して、桜とふたり、教室へと階段を上ったのだった。

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