第8回

   ***


 お前にこれをやろう、とタマモから手渡されたのは、小さな狐のぬいぐるみだった。


 お化け桜の一件から数日後の、日曜日の朝のことだった。


 玲奈の部屋で、ふたりは向かい合って座っていた。


 勉強机の椅子に座る玲奈に対して、タマモは深くベッドのへりに腰かけていた。


 玲奈はその狐のぬいぐるみを受け取ると、「かわいい」と小さく呟いた。


 その途端、ぞわりとぬいぐるみの毛が逆立ったような気がした。


 いや、気がしたのではない。事実、ぬいぐるみの毛は大きく膨らんでいるように見えた。


 えっ、と玲奈は口にしつつ、じっと狐のぬいぐるみを見つめてみる。


 その円らな瞳が玲奈の視線と交わり、ぱちりと瞬きして見せた。


 なるほど、と玲奈は自分でも思っていた以上にその事実を受け止めていた。


 このぬいぐるみは、ただのぬいぐるみなんかじゃない。


 タマモの正体は人に化けた狐だった。それも恐らく、ただの化け狐とは考えられない。お化け桜――あの学ランの少年と対峙したときのことを思い出せばこそ、玲奈にもそれくらいのことは容易に想像することができた。


 だとしたら、このぬいぐるみも……?


「ありがとう、タマちゃん」

 玲奈はお礼をいって、ぬいぐるみの頭をよしよし撫でる。


 ぬいぐるみは小さく身震いし、嬉しそうに瞼を閉じた。


 タマモも玲奈がその存在を受け入れたことに頷くと、

「これからは、常にそやつと共に居るように」


「常に? 学校も?」


「あぁ、もちろんだ。何かあったとき、そやつがお前を守ってくれるだろう。或いは、私に報せるように申し付けている」


「……守る?」


 首を傾げる玲奈に、タマモはため息を一つ吐いて、

「今回の件、私はお前に言っておいたはずだ。手を出すな、放っておけと。にもかかわらず、お前はあの件に首を突っ込んだ。自ら危険なことに手を伸ばした。あんなことが、今後また起こらないとは限らないだろう。そのとき、私はお前を絶対に止められるという自信がない。お前のことは、幼いころからよう知っている。大人しいわりに、止せということに何故か手を出す危なっかしい子だった。階段から転げ落ちそうになったとき、公園の遊具から落ちそうになったとき、包丁を手にして料理のまねごとをしようとしたとき――思い起こせばきりがない。冒険者、とまではいわないが、気になることがあるとどうしても手を出さずにはいられない性格なのだろう。もう、無理して止めるのはよそうと思った。だからこそ、私は代わりに、お前を守護するもの――いや、お目付け役というべきか。そのためにそやつを与えることにしたのだ」


「……お目付け役って」


「相違あるまい? お前は行動する前によく考える。だが、考えた末に何故かいつも危険な方に歩みを進める。根っからの性格を、今さら変えられるとは私も思わん。ゆえに、私はお前を助けるものとして、そやつを付けることにしたのだ」


「私、そんなに危険?」


 そんな自覚など、玲奈には全くなかった。考えに考えた末の行動ではあるのだけれど、タマモからすれば相当危険な選択を私はしていたようだ。幼い頃の記憶を手繰り寄せてみれば、確かにいつもいつもトラ――狐の姿をしていたタマモに助けられていた覚えがある。どこからともなく飛び出してきては、私を助けてくれていたタマモの姿。


 今もタマモは真剣な眼差しで玲奈を見つめているが、きっと内心、いつも冷や冷やしていたに違いない。


 私、思った以上にお転婆な性格だったんだなぁ。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、玲奈はもう一度狐のぬいぐるみに眼をやった。


 ぱっと見は、どこからどう見てもただの狐のぬいぐるみだ。


 どこにも変わったところはない。玩具屋さんや動物園の売店で売られていそうな、何の変哲もないただのぬいぐるみだ。


 ――うん。うまく化けている。


 だけど。


「……でも、学校に連れていくのに、このままじゃ難しいかも。キーホルダーとかだったら簡単なんだけどなぁ」


 その途端、狐のぬいぐるみがピクリと動いた。


「え、あっ……」

 と戸惑うような声を漏らし、ちらりとタマモの方に円らな瞳が向けられる。


 タマモはそんなぬいぐるみに、口元ににやりと笑みを浮かべて、

「だ、そうだ。やり直し」


「あ、は、はい!」


 あぁ、喋れるんだ。やっぱり、タマちゃんとおんなじ、化け狐なんだ。


 玲奈がそう再確認する間に、狐のぬいぐるみから、ぽんっとキーチェーンが現れる。


 ってことは、たぶん、このチェーンの部分もこの子の身体……?


「こ、これで、どうでしょう……?」


 恐る恐る見上げてくるその可愛らしい瞳に、玲奈はこくりと頷いて、

「うん、大丈夫」

 笑顔でそう、返事した。


「あなた、名前は?」


「え? な、名前ですか? えっと……」


 いい淀む狐のぬいぐるみに、

「コトラだ」

 タマモが代わりにその名をいった。


 玲奈は狐のぬいぐるみ――コトラと視線を合わせながら、

「それじゃぁ、よろしくね、コトラ」


「あ、はいっ!」


 コトラは元気よく、返事した。




   ***



 そんなコトラが、今は遠く、部屋の隅っこから、申し訳なさそうにこちらを見ていた。


 どこか怯えるような、怒られることを恐れているような、そんな姿で。


 玲奈は自室のベッドに横たわったまま、軽く手招きして、

「コトラ、こっちにおいで」

 と呼びかけた。


「あ、はいっ!」


 コトラはびくりと身体を震わせ、恐る恐る玲奈にとことこ近づいてくる。


 あのあと――お風呂の浴槽の中に、あの男の顔を見て叫び声をあげた玲奈のもとに、慌てたように母親が駆け込んできた。


「なに? どうしたの? なにかあった?」


 顔を真っ青にして口をパクパクさせる玲奈は、しかし母親に対して何をどう説明すればよいのか全く判らなかった。


 玲奈の母親は、玲奈や結奈たちとは違い、麻奈と同じで死者を見ない側の人間だった。何度かそれとなく話をしたことはあったのだけれど、「霊なんて存在しない」「きっと何かの見間違いよ」というのが常だった。それは確かに当たり前の反応で、けれど実際その眼に死者をうつす瞳を持つ玲奈にとって、どうにも自分に起こったことを説明し辛いことこのうえなかった。


 だからこそ、玲奈はバクバクと早鐘をうつ心臓を、胸に手をあてて抑えながら、

「――あ、ごめん。ゴキブリが見えたような気がして、驚いちゃって」

 そう、その場を誤魔化すことしかできなかった。


 けれど、確かに玲奈は湯船の中で、あの変質者の生霊を目にしたのだ。あいつは玲奈の身体を湯船の底からにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべながら見上げており、どうかすれば舌を出して玲奈の身体を舐ろうとしているようで気持ち悪くて仕方がなかった。


 あの様子だと、きっとアイツはまた私の前に現れるだろう。今度は不特定多数の中のひとりの少女としてではなくて、私の身体という目的を持って。


 そう思うだけで、全身鳥肌が立って震えが止まらない。


 死者の臭いには敏感なコトラだが、こと生霊となるとその鼻はまったく以て使い物にならなくなる。タマモによれば、もともとタマモもコトラも”あちら側“に近しい存在らしく、それゆえに”こちら側“の臭いにはどうしても疎くなってしまうのだそうだ。


 だからこそ、コトラが気にすることはない。それは仕方のないことで、コトラが気にやむようなことではないのだ。


 玲奈は怯えるようにベッドに飛び乗ってきたコトラの頭を優しく撫でると、「大丈夫、大丈夫だから、気にしないで」と声を掛けた。


 けれどコトラは、「すみません、すみません」と何度も謝る。


「仕方がないでしょ? コトラにアイツの臭いは判らないんだから」


「けど、けど…… 僕は、タカトラ様から玲奈さんを守るように申し付かっているのに、全然お力になれなくて」


 そんなコトラに、玲奈は小さくため息を吐く。


 やれやれ。コトラはいつもこうだ。自分の非力さを嘆いて、卑下して、一度落ち込んだらなかなか元気を取り戻さない。その姿はまるで小さな子供のようだ。いや、事実コトラはまだまだ子供に過ぎなかった。狐の形はしているけれど、この狐は玲奈のよく知る、山や動物園にいるようなただの動物とはわけが違うのだ。彼らには彼らの理があって、歳の取り方もまるで違う。


 詳しくは玲奈もタマモからあまり聞かされていないのだけれど、それだけはコトラを見る限り、何となくでも解っていた。


 玲奈はコトラの身体を抱きしめて、

「――それじゃぁ、明日からは、一緒にお風呂に入ろっか」


「……えっ?」


「だってほら、その方が安心でしょう? コトラは私のお目付け役で、私を守るのが役目なんだから」


「えっ、あ、でも――」


 どこか焦るようなコトラのおでこに、玲奈はちゅっとキスしてから、


「ね?」


 その途端、コトラの毛がぼわっと逆立ち、しゅるしゅると小さく変化しながら、

「――はい」


 さらに小さな声で、コトラはいった。

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