第3回

   3


 それから数日後のことだった。


 その日も空は重く人々の上にのしかかり、大粒の涙を世界にこぼし続けていた。ねっとりと肌に絡みついてくる湿気に辟易している玲奈が教室の窓からぼんやりと鈍色の雲を眺めていると、桜が少し離れた自分の席からこちらまでやってきて、

「おはよう、玲奈」

「あ、おはよう」

 玲奈も桜に顔を向けて返事した。


 梅雨入り後に担任の気まぐれ(原因自体はおしゃべりし過ぎるグループにあったのだが)によって行われた席替えで桜と席が引き離されてしまった玲奈だったが、セクハラまがいなことをされる回数が多少は減って内心ほっとしていた。けれど同時に、一番仲の良かった友達と離れたことに不安を感じていなくもなかった。同じクラスのはずなのに、どうしてこんな感情を抱いてしまうのだろう。桜にどこか依存しているのだろうか?


 そんなことを考えていると、桜はいつものように、他愛もない話を嬉々として玲奈に始めた。


 それは、こんな雨の日にはどこそこの山の廃屋でいつも同じ女性の惨殺死体が発見されているらしいだとか、深夜に現れるドライバーのいない幽霊タクシーの噂だとか、そんな真偽不明の怪談話ばかりだった。他に何か話題は無いのか、と言いたいところだけれど、それこそ桜は隙あらばセクハラ話を始めるので油断ならない。そこらのふざけた男子生徒か、それ以上に話題を振ってくるものだから、玲奈も桜の話に合わせるより仕方ない側面もあった。


 まあ、そのおかげで解決したできごとも、ここ数年の間に色々あったのだけれども。


 やがて桜の話は、ここからが本題なんだけれどといった感じに重みを帯び、「……これ、昨日の夜うちに遊びに来たお父さんの友達が言ってた話なんだけどさ」と話し始めた。


「その知り合いの人、うちの近くで造園屋さんの社長をやってるんだけどね。去年、そこの従業員さんがひとり、突然居なくなっちゃったんだってさ。社長さんは仕事が嫌になってその人は逃げたんだと思ってるみたいなんだけど、谷さんっていう古くから働いてるお爺さんが、あいつは逃げたんじゃない、連れていかれたんだって言い張ってるらしくて。でも、誰に、って聞いても絶対に言わないんだってさ」


「どうして?」

 と玲奈が訊ねると、桜は「さあね」とため息をひとつ吐いて、

「そこはよく解んない。ただ、その居なくなった人、居なくなる前に他の従業員さんたちに言ってたらしいの。物凄い美人がいる、あの人と付き合えるんなら何でもするって。それがどうやら、あの喪服の少女のことだったらしくてさ。あの峠の廃墟みたいな家に住んでるって噂の子。谷さんと一緒に仕事で行って、その時に会ったんだって。だけど、その谷さんは頑なに言うの。あそこには誰も住んで居ないって」


「……どういうこと?」


「それもよく解んないんだよね。だから社長さんも困ってるみたい。その居なくなった人の家族からは会社で何かあったんじゃないかって疑われるし、うまく説明も出来ないし。で、もしかしたらそのうち戻ってくるかもってことで、半年くらい小競り合いを挟みながら様子をみてたらしいんだけど、痺れを切らした親御さんが裁判を起こすって言い出して大変なんだって、お父さんに愚痴ってた」


「それは……大変だね。説明出来ないことを説明しろって言われても、困るよね」


「そうなんだよね。だから、うちのお父さんが良い弁護士紹介してやる、とか言ってたんだけど…… ああ、でもこの話、続きがあってね」


「続き?」


「うん」と桜は小さくため息を吐いて、「実はさ、その造園屋さんに出入りしてた業者さんが居たらしいんだけど。その人も居なくなった人と似たようなことを言ってたみたいでさ。喪服の女性がいたって。で、やっぱり暫くして来なくなっちゃったんだって」


 その途端、玲奈の後ろの席で机に突っ伏していたあの相原奈央が、おもむろに頭をもたげる気配があった。


 どうしたんだろう、と思いながらも、結局玲奈はそれ以上は気に留めることなく、桜に訊ねる。


「……その人も“連れていかれちゃった”ってこと?」


「いやいや」と桜はそれを両手を振りながら否定して、「来なくなっただけみたいだよ、詳しくは判らないけど。会社を辞めちゃっただけ、なんじゃないかとは思うんだけど、居なくなった従業員さんの件があるから心配してるんだって、その社長さんは言ってた。だけど、怪しいよね。あたしも、もしかしたら、とか思っちゃうもの」


「もしかしたらって、どういう意味……?」


 突然のその声に、玲奈と桜は驚いて相原の方に顔を向けた。しばらく視線が交わって、玲奈は桜と目配らせする。


 どうしよう、どう答えたら良いんだろう……


 そんな思いを込めた目で桜を見ていると、それを察した桜が口を開いた。


「どうしたのさ、相原さん。もしかして、怖い話に興味があるとか?」


 その問いに、相原は珍しく動揺したように「えっ、あっ……」と言葉を詰まらせた。


 いったいどうしたんだろう。どうしてこんなに慌てた様子なんだろう。玲奈は思いながら再び桜に視線を向けた。桜も首を小さく傾げながら玲奈と視線を合わせ、ふたりは再び相原に顔を向ける。


 相原は何か言いたそうに、ニ、三度口をパクパクさせてから、

「……ごめん、急に話しかけちゃって」

 その口から出てきたのは、謝罪の言葉だけだった。


 それに対して、桜は「あっ」と気不味そうな顔を浮かべると、慌てたように両手を振って、

「ち、違う違う、そういう意味じゃなくて! 本当に、ただ、純粋に、怖い話が好きなのかなぁって思っただけでさ! 人の会話に横から口出すなとか、そういう意味じゃ本当にないからね! 信じて!」


 そんな桜を、相原はポカンとした表情で見つめていた。あの均整の取れた美人な顔が、心底困ったように指先をモジモジさせていた。


 それを見て、玲奈はなるべく相原を安心させるように微笑みを浮かべながら、

「ごめんね、何か変な話ばかりしてて。気になっちゃうよね」


「あ、だから、違うの……」


 相原が何かを言いかけた時、スピーカーからHRの時間を知らせるチャイムが辺りに響き渡った。それが鳴り終わらないうちから、桜は「あっ」と口にし、

「席に戻らなきゃ! また後でね、玲奈、相原さん!」

 そう言い残して、桜は足早に自分の席へと戻って行った。


 玲奈も教室に入ってきた担任の方へ身体を向ける。


 その時、後ろの席から相原の、小さな溜息が聞こえたような気がした。

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