第3回

 きょとんとした結奈の表情は、薄暗がりの中でもはっきりと解るほど輝いて見える。それが何によるものなのかは判らないが、あまりの神々しさに響紀は目を奪われてしまった。白い肌を幾筋もの水が伝い、その大きく膨らんだ乳房を経由してぽたりぽたりと地面に滴り落ちていく。太っているわけでも痩せているわけでもなく、程よい肉付きの身体が如何にも健康的だった。響紀を蹴り飛ばした太ももから足首にかけては幾度となく目にしていたが、その白さが闇の中でより際立って見えた。


 地面に両膝をつき、恥ずかしげもなく裸体を晒すそんな結奈に、響紀はどう声をかければ良いものか解らなかった。これほど魅力的な身体の女性を響紀はこれまでに見たことがない。たまに雑誌で見るグラビアアイドルのような均整の取れた――いや、一部際立って大きな身体的特徴を除いては――その身体に、響紀は欲情を超えた本能的な感情を抱いてしまう。畏敬、驚嘆、渇望、そして信仰。他にもいろいろな感情が響紀の中をせめぎあい、その結奈の美しさに飲み込まれ、完全に彼の意識は奥深く、これまで至ったことのない領域まで吹き飛ばされてしまったようだった。


「なに? また弱音でも吐きに来たの?」


 言いながら、結奈はゆっくりと立ち上がった。濡れた身体をそのままに、胸も恥部も隠すことなく、口元に笑みを浮かべながら、響紀の方へと足を踏み出す。


 歩くたびに揺れる結奈の乳房に目を奪われながら、響紀は「あ、あぁっ」と声にならない呻き声を小さく漏らしただけだった。


 すぐ目の前、わずか数センチとのところまで近づいてきた結奈は、響紀の顔を見上げながら、

「何か言ったらどう?」

 その射貫くような強い視線を響紀に投げた。


 響紀は結奈の身体から目を逸らすこともできず、たじろぎながらパクパクと鯉のように口を動かして、ようやく発することができた言葉は、

「――ごめん」

 ただそれだけだった。


 俺はいったい、どうしてしまったんだ。こんな女の身体を眼にしただけで、何も喋れなくなってしまうような男だっただろうか。いや、そんなはずはない。俺にだって、これまで何人もの付き合っていた彼女がいたのだ。当然のように、彼女らとは何度も身体を重ね合わせた。欲情の赴くままに求めあい、絡まりあい、尽き果てるまで何度も、何度も、何度も。


 それだというのに、どうして俺は何も言えない。何も言えないくらい、結奈の裸体を魅入ってしまう。目を奪われる、なんてものじゃない。心を、魂そのものを鷲掴みにされ、その身体から目を逸らすことも、逃げ出すこともできないほどの――そう、これは畏怖だ。いつか喪服の女に感じた感情と、今この時、結奈に抱いている感情は全く同じで。


「まぁ、いいわ」


 結奈は小さく溜息を吐くと、御神井のすぐ脇、小さな祠に足を向けた。無造作にかけられたタオルを手にすると、まるでお風呂から上がったばかりであるかのように、わしゃわしゃと髪や身体を拭いていく。その様子を、響紀はただ黙って見ていることしかできなかった。無造作に、無遠慮に、結奈は響紀に見られていても気にする様子もなく。


 響紀は今一度口を開き、心を落ち着かせながら、

「……恥ずかしく、ないのか?」

 と結奈に訊ねる。


 結奈は眉間にしわを寄せながら振り向き、どこか小馬鹿にするような視線を響紀に寄こし、

「何が?」


「いや、だから、そんなところで、素っ裸で」


「別に良いんじゃない? 減るもんじゃなし」


「あ、いや、だけど」


「なに? 何か不満でもあるの? あんただって、こんな若い女の裸見られて嬉しいでしょ? だったらそれで良いじゃない。あんたが私に悪意を向けて何かしてくるってんなら隠すけど、そうじゃないんならどうでも良い」


 はっきりと言い放って、結奈は再び身体を拭き始めた。


 響紀は少し困り果て、けれどやはり視線を逸らすことすらできなくて、結奈が身体を拭き終わり、その身体にサラシを巻き始めるまで何も言い返すことができなかった。


「お前、なにやってたんだ」


「禊ぎ。これからあの女を相手にしようってんだから、ちゃんと祓い清めておかないといけないでしょ?」


 さも当然であるかのように結奈は言って、続けて襦袢に腕を通した。その上から小袖を纏い、緋袴を身に着ける。その一連の所作は如何にも慣れた手つきで、だてにこの神社でバイト巫女をしているわけではないことを示していた。さらにそこから千早を羽織り、胸の間で紐を結ぶ。


「本気でアイツとやりあうつもりなのか?」


「悪い? あんたがやらないってんなら、私がアイツを止めて見せる」


 そこにははっきりとした決意があって、結奈はその髪をまとめながら、じっと響紀を睨みつけた。その瞳の奥にはこれまで見たこともない不思議な力が感じられて、確かに結奈はただの女の子というわけではないらしいということを響紀は改めて感じたのだった。


 それでも響紀は、さらに言った。


「解ってんのか? アイツはお前の婆さんを――香澄さんを死に追いやるような奴なんだぞ? そんな危険な奴なのに、ひとりでなんて」


「だからこそよ」

 響紀が言い終わらないうちに、結奈はぴしゃりと即答した。

「アイツは私にとって、おばあちゃんの仇なの。例えおばあちゃんが今も霊となってあっちこっち動き回っているとしても、それでもおばあちゃんを死に追いやったことに変わりはない。それに、今も無関係の人を次々に手に掛けている。そんな奴を、私は絶対に許さない」


「けどお前、最初は面倒だったんじゃないのか? ほら、言ってたじゃないか。なるべく霊と関わらないようにしてきたとか何とか……」


「だから何?」


 その強い口調に、響紀は「えっ」と言葉を失う。結奈は強く響紀を睨みつけており、どんな言葉も彼女には届きそうな気がしなかった。


 結奈は「ちっ」と舌打ちし、そして響紀に背を向ける。


「私は決めたの。あんたのその頼りなさに嫌気がさした。おばあちゃんはあんたにアイツをやっつける希望を見出したんだろうけど、私はもう、あんたには期待しない。あんなに弱音を吐いて、私を絶望させておいて。今さら何のつもり? それともまさか、あの女に言われてきたの? 私を手籠めにしろって、犯して殺せって」


「ち、違う! 俺は、そんなつもりなんか毛頭ない! 確かにあの時は弱気になってた。全部を投げ出してやりたかった! だけど、今は違うんだ! 俺は家族を守りたい! それに、それだけじゃないんだ、俺はあの女を、ユキを――」


「黙りなさい!」


 その一喝に、響紀は全身がピリピリと痺れるのを感じた。


 あまりの気迫に圧されてしまい、それ以上言葉を紡ぐことすらできなかった。


 結奈は顔だけをこちらに向けると、大きく目を見張り、

「さっさと失せろ」

 そう言い残して、拝殿の方へと姿を消した。


 響紀はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

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