第16回

   5


 響紀は雨の降る中を、全速力で駆けていた。とにかくあの化け物たちから奈央を守るために、必死で、迷うことなく、自分の家へ向かって足を動かす。いや、もはや体全体が脚そのものになったような気さえした。今、自分の体は人の身体を為してはおらず、まるで川を流れる水のように、ただ勢いに乗って峠を下って行ったのだった。


 やがて自分の家を前にしたとき、響紀はそこに異様な空気を感じ取った。生臭い、何かが腐ったような嫌な臭いだ。たぶん、すでに奴らはここに辿り着いている。どこかの陰に潜んでいるのだ。


 それだけではなかった。ふと道路脇を見てみれば、一台の黒い車が停まっている。型からして、この辺りに住んでいる住人のものではない。その車に乗っているふたつの人影が、じっと響紀の家を睨んでいることに彼は気付いた。


 いったい、こいつらは誰なんだ?


 思いながら、人から見えないことを良いことに、響紀は堂々と車の中を覗き込む。


 運転席にはサングラスをかけた一人の男。無造作にセットされた黒髪に、白黒斑の無精ひげ。こちらには全く見覚えがなかったが、しかしその隣、助手席に座る女の姿に響紀は見覚えがあった。


 高そうなブランド物の衣服に身を包み、金一色に染められた長い髪を弄ぶ奈央によく似た顔には、これでもかというくらい派手な化粧が施されている。


 奈央の母親だ。これまでにも何度か現れたことはあったが、何故、今ここに。


 まさか家族が居ないのを良いことに、奈央を連れ去りに来たのだろうか。


 突如現れた別の敵に、響紀はぐっと拳を握り締めて歯噛みした。今すぐにでもこいつ等を殴り飛ばしてやりたい、そんな感情に駆られたけれど、しかしふたりが今すぐ動き出しそうな気配は全くなかった。いったい何が目的なのか解らないけれど、ただ家の様子を窺っているだけ、そんな感じだった。


 まぁいい、と響紀は再び自分の家の方に身体を向けた。とにかく、今は奈央たちを狙っている、あの喪服女の手下どもの方を先にどうにかしなくてはならないのだ。こいつらのことは、あとからどうにでもなるだろう。


 響紀は一歩、足を前に踏み出した。そこは確かに我が家なのに、まるで見たことのない、知らない家のように感じられてならなかった。再び襲い掛かってくる、この家にはもう俺の居場所はない、そんな感情に圧し潰されそうになりながらも、響紀は一歩、また一歩、我が家の方へ歩みを進める。そのたびに、あの腐った水のような臭いは増していった。


 いる。奴らは、もうすでに俺の家に上がり込んでいる。


 響紀は門を抜けて、そのまま玄関のドアを開けることなく家の中へと侵入した。どうやって、なんてことはもう思わなかった。肉体を失った今、物質というものが如何に無意味なものかというのを響紀は思わずにはいられなかった。


 耳をすませば、奥の方から人の声が聞こえてくる。それは奈央のか細い声と、もう一人、男の知らない声で。けれどどこから聞こえてくるのか、はっきりと何を話しているのかまでは解らなかった。


 一階の奥……? いや、違う、二階だ。二階の方から二人の声が聞こえてくるのだ。


 響紀はその話し声を頼りに、ゆっくりと二階へと続く階段へ向かった。そのたびに、ふたりの会話がはっきりと聞こえてくる。


「……落ち着いた?」


 若い男の声だ。


 響紀は階段の下で一度立ち止まり、覗き込むように二階を見た。


「……うん」


 これは、奈央の声か。泣いていたのか、わずかに声が掠れている。


 響紀はいったい何が起きているのだろうと、じっと耳をそばだてる。


「……どんなに嫌われたって、僕は相原さんのこと、大好きだよ」


 その言葉に、響紀は思わず目を見開いた。それと同時に、何か重いものが胸にずん、と落ちてくる。この気持ちはいったいなんだ。俺は何にショックを受けているんだ。奈央はただの遠い親戚の娘で、それだけの存在だったはずじゃないか。それなのに、なんでこんな感情を、俺は。


 若い男の声は、さらに優し気に語り掛ける。


「どんなことをしても、助けてあげたいって思ってる。迷惑をかけてるなんて、思わないでほしいな。僕も、そうしたいから、そうしてるんだ。相原さんの力になりたいから、何でもしてあげたいんだ」


 何を言っているんだ、この男は。響紀は眉間にしわを寄せる。沸き上がる何とも言えない感情に、戸惑わずにはいられなかった。これは――嫉妬? いや、違う。そんな感情じゃない。恋人を他の男に取られた時の、あの何とも度し難い感情とは似て非なるものだ。けれど、この感情を何と呼べばいいのか、響紀には全く分からなかった。何か大切なものを他人に奪われてしまったような、そんな感情。


「嫌いって言って、ごめんなさい……」


 どうやらふたりは喧嘩でもしているらしい。何があったのか解らないけれど、若い男に対する怒りがその瞬間、煮えたぎる鍋のごとく溢れてしまいそうになるのを、響紀は必死に抑えて様子をみる。


「いいよ」

 と男の笑う声。くそ生意気で偉そうな、なんとも気に入らない言い方だった。


 だが、それだけではなかった。


「あの……さ」

 男が、躊躇いがちに訊ねる。


「……なに?」

 と、奈央の聞いたことのない甘え声。


「今度は僕から、キスしていい?」


「嫌。絶対に嫌」


 その即答に、響紀は思わずニヤリと笑んだ。何だろう、拒絶された男に対して、心の底から「ざまぁ」と思ってしまう自分があった。


「――そ、そっか」

 残念そうな男に、奈央は言う。


「だって、こんな状態の顔、木村くんに見せられないよ」


 なるほど、この男の名前は木村というのか。響紀は小さく頷き、それと同時に「絶対に忘れないようにしておこう」と何故か小さく呟いていた。


「……どういうこと?」


「眼、腫れてるし。鼻水出てるし。見せたくない」


「あぁ、僕は気にしないけど」


「私が気にするの!」


 なんてデリカシーのない男だ。そんな男、さっさと別れた方がいいぞ、奈央。


 響紀はそう思いながらくつくつ笑んだ。


「そっか」

 恥ずかしそうに木村は笑い、

「……それで結局、響紀さんがどうしたの?」


 そこで響紀は再び眉間にしわを寄せた。


 なんでそこに俺の名前が出てくるんだ。俺がどうしたって? なんでふたりは俺の話をしていたんだ? なにがあったっていうんだ?


 さらに話の先を聞き取ろうと耳を澄ませた、その時だった。



 ――ぴちょんっ



 どこからともなく、水の滴る音が聞こえてきたのだ。

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