第2部 第2章 常闇の水
第1回
1
響紀の居るべき場所などどこにもなかった。
かつての友人や闇に潜む影どもから逃れるべく、転がり落ちるように坂道を駆け下った響紀だったが、後ろを振り向いても彼らが追いかけてくる様子はまるでなく、けれどそのままの勢いに任せて、大通りまで走り続けた。
駅へと続くその道は、帰宅の途にある多くの歩行者や車にごった返していたが、その誰の目にも響紀の姿は映し出されてはいなかった。すれ違いざまに肩が触れる事があっても気にも留めないか、或いは振り向きはすれど、誰の姿もそこにはなく、首を傾げて再び歩き出す生者たち。そんな彼らの姿を見るたび、響紀は深いため息を漏らすのだった。
当て所なく駅周辺を彷徨い続けた響紀だったが、やがて歩く気力も失せ、駅北口に立つ大きな病院の裏手に位置する、遊歩道のベンチに腰を下ろした。
そのベンチは新たに設けられた明るめの街灯に照らし出され、悍ましい夜の闇を僅かながら遠ざけてくれた。耳を澄ませば闇の中から騒めきが聞こえ、目を凝らせば犇めく何かがそこに見える。しかし彼らはいっこうに響紀に近づいてはこなかった。遠くから嘲るように、じっと見つめてくるだけだ。
響紀はその視線に恐れと同時に苛立ちを覚えた。ベンチに座ったまま、視線で闇と対峙する。
相変わらず闇は闇であり、その姿を現しこそしないものの、ニヤニヤと嘲笑を浮かべ続けていた。一瞬でも目を離せば襲いかかられそうな気がして、響紀はその闇から眼を逸らすことができないまま、無益な時間が刻々と流れていった。
やがて東の空が白み始め、その闇は徐々に徐々にその姿を光の中に溶かしていった。一晩中闇と睨み合い続け、疲弊しきった響紀だったが、不思議なことに、眠気を全く感じなかった。
或いは眠る必要など最早無いのかも知れない。
辺りが日の光に包まれ完全に闇が消え去り、けれど響紀は憂鬱だった。当たり前だ。これから先、自分がどうするべきかまるで解らないのだから。どこへ行けば良いのか、何をすれば良いのか。天国なんてものが本当にあるのだとしたら、誰かそこまで連れて行ってくれとさえ思った。
その時だった。
ふと視線を向けた歩道の真ん中に、いつの間にか白い毛並みの大きな犬が、響紀の方に体を向けて、ちょこんと座っていたのである。
犬、というには鼻筋が細く、一見すれば犬ではなく狐のようだ。いや、むしろ狐そのものだった。しかし、なんでこんな所に。
疑問に思い、首を傾げる響紀の前で、その白い狐はすっと腰を上げると、左の方へ歩道を歩き始めた。数メートル先まで歩いたところで不意に足を止め、響紀に振り向く。視線が交わり、どうやらついて来いと言っているらしいことに気付くまで、さほど時間はかからなかった。
「なんだなんだ? 俺をあの世まで案内してくれるのか?」
それはそれで構わなかった。闇に犇めく何かと一緒に延々この世を彷徨うくらいなら、さっさと天国なり地獄なり連れて行って欲しかった。
響紀が立ち上がりついてくるのを確認すると、白狐は再び歩き始める。
その後ろを、響紀は黙ってついて歩いた。
いくらも歩かないうちに、白狐はふとその歩みを止めた。ぷいっと右側に顔を向ける白狐につられ、響紀もそちらに顔を向ける。
道路を挟んだ向かい側に見えたのは、これまでに何度か訪れたことのある大きな神社だった。
参道の脇には数台分の駐車スペースが並び、その参道の途中には、石造りの鳥居が立っている。石鳥居の先は急な角度の石段、その石段を登りきると、左右に翼廊ののびる朱塗りの唐門が待ち構えている。唐門を抜けるとすぐ目の前には同じく朱に塗られた拝殿が佇んでおり、確か本殿裏手の階段を登ると、その先にはお稲荷さんの社殿もあったはずだ。
もしかして、この白狐はお稲荷さんの使いか何かだろうか?
響紀は思い、白狐の方に顔を戻したが、すでにそこに狐の姿などどこにもなかった。
――やれやれ、と響紀はため息を一つ吐く。案内はここまでってか? 仕方がない、と響紀は道路を渡ると、神社の参道に足を踏みいれようとして――
「……?」
ふと、その足を止めた。
止めた、というより、止まった、というのが正しいかもしれない。なぜだか解らないが、上げた足がそこから先へ行くのを拒むのである。まるで神域に立ち入ることを畏れているかのように、足がガクガクと震えている。とは言え、わざわざここまで白狐に案内されてきたのだ。このまま引き下がるわけにもいかないし、何より他に行くあてがあるわけでもない。
響紀は大きく息を吸い、ゆっくり吐き出すと、意を決したように、一歩足を踏み出した。
バチンッという静電気が跳ねるような音と刺すような痛みが僅かばかり響紀の全身を走り抜けていったが、そのまま歩みを進め、完全に敷地に入り込んだ時にはすでにその痛みは完全に消えさっていた。
石鳥居をくぐり抜け、角度の急な石段を一歩、また一歩慎重に登る。その先に感じる威圧感に気圧されながら、それでもその先に何らかの救いが待っているに違いないと、期待に胸を膨らませながら。
やがて石段を登りきり、唐門をくぐると、響紀は白い砂利の敷かれた境内に出た。その先の拝殿から発せられる威圧感は尋常ではないほど響紀を畏怖させる。今の自分にはここに居る資格がない、何故かそんなふうに感じられた。
もし神様が本当に居て、あの白狐を使いに寄越したのであれば、今から俺は神によって天国に召されるということか。
あれ? 天国だっけ? 高……なんとかいう場所じゃなかったか? 違ったか?
これまで神道というものにまるで興味を示したことの無い響紀にはその違いはおろか、名称や意味合いすらよく解ってはいなかった。そもそも、この神社にどんな神様が祀られていて、どんなご利益があるのかすら響紀は知らなかった。年始に初詣に訪れる、ただそれだけの場所に、響紀は何の価値も見出せなかったのだ。
そう言えば大学3年次の時、ただ巫女さんを見たいが為に、ゼミ仲間と神社巡りの旅をした事があったっけ。
響紀はふとそんな事を思い出した。
神様なんてものを信じているわけじゃないし、その神聖なんて以ての外だったけれども、白衣に緋袴の巫女装束に身を包んだ若い女の子には、得も言われぬ神秘性を感じずには居られなかった。心がざわざわして、普段はなんて事のないただのバイト巫女にすら劣情を抱いてしまうのは何故だろう。そんなフェチズムが自身の中にあるのを再認識させられたその旅は、もうすでに遥か昔の事のように感じられて、非常に懐かしかった。
どれ、こんな時ではあるが、冥途の土産に巫女さんでも拝んでいくか。
そんな不謹慎なことを考えている時だった。
「――おはようございます。御祈願ですか?」
女の柔らかい声に、響紀は思わず身を震わせて驚き、声の聞こえたほうに顔を向けた。
果たしてそこには、巫女装束に身を包んだ一人の若い女が、微笑みを湛えながら立っていたのである。
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