第7回

   ***


 眼を見開いた瞬間、響紀は自身がどこにいるのか、まるで理解できなかった。天を仰ぐように倒れる自分。その先には真ん丸い月が浮かび、辺りは星一つ見えない真の暗闇に包まれている。


 ――いや、違う。あれは月じゃない。天に空いた丸い穴から差し込む、光だ。


 その光はどこから放たれているのか酷くぼんやりとしており、じっと観察すれば白い靄が揺蕩うように踊っているようだった。


 しばらくそんな天を望んでいると、不意にその穴から顔を覗かせる人の影が現れた。逆光になっていてその表情はまるで見えないが、その影はどこかで見覚えのあるものだった。目を凝らし、じっと見つめていると、その影はゆっくりと手を振り、次いですっと手を伸ばしてきた。


 だが、それはとても理解不能なことだった。


 天に空いた穴は遥か上方に見えるのに、差し出された手はすぐ目の前にあったからだ。まるで遠近感が完全に狂ったかのような感覚に、響紀は戸惑う。目にしているその光景を受け入れられず、差し出された手と穴の先に見える人影と交互に目をやる。


 やがて人影は痺れを切らしたかのように声を発した。


「――いつまでそこにいるつもり? 早く掴まれよ」


 それは遥か昔に、どこかで聞き覚えのある男の声だった。


 どこでだろうと思う間もなく、その手は響紀の腕を掴むとぐいっと引き上げようと力を込める。そして次の瞬間、響紀の体は地面の上に、叩きつけられるように投げ出されていた。


 その衝撃に、響紀は思わず目を瞬かせて歯を食いしばり、打ち付けた頭を押さえながら、ふらふらと上半身を起こして辺りを見回し――


「こんばんは、響紀さん」


 聞き覚えのある声に、響紀は戦慄した。


 声の先に目を向けた瞬間、響紀は総毛立つ。


 果たしてそこに立っていたのは、蠢く黒い影を背に佇む、黒衣の女の姿だった。


 女は響紀の恐れ戦く姿を見てにっこり微笑むと、こちらに右手を差し出しながら、ゆっくりと口を開いた。


「先程はごめんなさい。驚かれたでしょう?」


 響紀は地に尻をついたまま、わずかに体を仰け反らしながら女の怪しげな笑みを見上げ、

「どうして、俺を突き落とした?」

 睨めつけるように、低く問うた。


 響紀の傍らには、先程突き落とされた井戸がぽっかりと口を開けており、その脇には一体の黒い影が佇んでこちらを見ている。その姿こそ不鮮明で何者であるのかまるで判らなかったが、響紀を引き上げたのは恐らくコイツだろうと思われた。


「突き落とすしかなかったの。だって、痛いのは貴方も嫌でしょう?」


 言葉の意味をはかりかね、響紀は眉間に皺を寄せる。


 そんな響紀に、井戸の脇に立つ黒い影がすっと歩み出てきた。ぼんやりとした白靄に照らし出されるように、その顔が徐々に露わになる。


「……俺みたいに、腹をズタズタに切り裂かれるよりはマシだっただろう?」


 そう言いながら響紀の前に立つ男の顔に、響紀は覚えがあった。井戸に突き落とされた際に水底へと引きずり込んだ、あの男。その姿が行方不明になった時と寸分違わず、けれどその腹部の裂け目からは、引き千切られたような臓物がダラリと膝頭辺りまで垂れていて。


 その姿を目にした途端、響紀は吐き気を催した。おぇっと一気に吐き出したものは、けれど緑色の藻が混じったような水ばかりだった。響紀は何度もえずきながら喉を押さえ、もう一度二人に目を向ける。


 女はかつての友人を脇に従え、その背に蠢く黒い影を背負いながら、貼りついたような作り物めいた笑顔を響紀に近付け、小さく言った。


「……さぁ、ウケイを」


「う、うけい?」


「そう」と女は小さく頷き、「貴方が私を受け入れたなら、貴方は私のモノになる。私は貴方のモノになる」


「な、なんだよ、どういう意味――」


 響紀が全てを言い終わらぬうちに、女は響紀の唇を、その紅い唇で、すっと塞いだ。


 響紀は始めこそそれを拒んだが、けれど彼女の蠢く舌先に、いつのまにか彼女を受け入れていた。自らも彼女を求め、そして彼女も響紀に答えた。


 やがて無意識のうちに彼女の体を抱きしめた時だった。


「うぐぅっ!」


 突然何かぬるりとしたモノが口の中に押し込まれたような感覚があり、それが喉の奥を通過して、胃の腑へまるで泳ぐように入り込んでいく感覚に襲われたのだ。


 思わず彼女から唇を離そうとして、

「まだ途中だよ、相原」

 かつての友人に体を押さえつけられ、身動きのできないまま、次から次へと何かが喉の奥へと流し込まれていく。


 女の細く白い両の手が響紀の頰を優しく包み込み、けれどその口づけは荒々し過ぎる程に獰猛だった。喰らいつくように、喰らわせる。そう表現すればよいだろうか。


 胃の腑に落ちたぬるりとしたそれらは、しばらく胃の中を踊るように激しく蠢き、しかし徐々に徐々に溶け込むように、大人しくなっていった。


 どれ程の間、そうされていただろうか。


 おもむろに彼女は響紀から唇を離すと、口の端からよだれの如く垂れた赤黒い液体をその白い指で拭いながら、恍惚の瞳でふふっと小さく微笑んだ。その眼は蔑みを含んだような、けれどどこか温かみのある眼差しで。


 そうして彼女はスルスルと衣服を脱ぎ始めると、一糸纏わぬ裸体を晒し、響紀を優しく抱きしめながら、その耳元で小さく囁いた。


「……貴方の全てを、私に頂戴」


 その瞬間、響紀の中の何かが弾けたようだった。


 気付けば響紀は彼女を押し倒し、欲望の赴くままに、彼女を貪るように求めていた。


 彼女は響紀を受け入れ、悦び、その全てを受け止めた。


 何度も何度も唇を重ね、果て、けれどその欲望はおさまる事を知らなくて。


 いったい、どれ程長い間、彼女と絡み合っていたのだろうか。


 響紀は肩で息をしながら、ようやく我に返った。


「……これで貴方も、私のモノね」


 その言葉に、響紀は「えっ」と彼女の顔を見つめる。


 そこには不敵に微笑む彼女の裸体があって、響紀は目を見張る。


 俺は、今、何をしていたんだ?

 どうしてこんな事を?

 なんでこんな悍ましい女を抱いた?

 ――何故?


「貴方に、お願いがあるの」とそんな響紀をよそに、彼女は続ける。「貴方の家に、若い女の子が一人、居るわよね?」


 なんでそれを、と思いながら、響紀は「あ、あぁ……」と曖昧に返事する。


 そんな響紀に、女はほくそ笑むようにニヤリと口元を歪め、

「その娘を、連れてきてくれない?」

 女は響紀の胸に、そっと左手を添えた。


 しかしそこには温もりはなく、かと言って冷たいわけでもなく、ただ触れられているという感覚があるだけだった。その手は白く美しく滑らかな肌で……けれど間近に見てみれば、点々と赤黒いシミのようなものがぽつぽつ浮かんでいる。


「この体もそろそろ限界なのよ」


 彼女はそう寂しげに言うと、響紀の胸に添えた左手の甲の皮を右手の指で摘み、すっと手前に引っ張った。その様子を目の当たりにして、響紀は思わず言葉を失い、唖然とする。


 ズルリと剥かれた皮の下から覗く、ドス黒い何か。そこには何匹ものウジがウネウネと蠢き、漂う腐臭が鼻を突いて。


 その異様な様に、今し方抱いた女の顔に視線を向ける。


「ね? だから、新しい身体がどうしても必要なの」と彼女はにっこり笑みを浮かべた。「あの娘は私に似てる。あの綺麗な髪、滑らかな肌、整った目鼻立ち…… 私は、あの娘の身体が欲しいの。あの娘を私にする為に、私があの娘になる為に……」


 女が何を言っているのか、響紀にはまるで理解することが出来なかった。女が何を企んでいるのか、頭の中で彼女の言葉を整理しようと試みるも、今し方抱いたこの女の身体と、その女の手の甲の皮の下に見えるウジ虫、そしてその意味不明な言葉がぐちゃぐちゃになって、考えが全く纏まらない。ただ目を見張り、女の様を見つめることしか出来なかった。


「貴方も、あの娘を抱きたくて仕方がないんでしょう? 知ってるのよ、私。私の子達がずっとあの娘と貴方を見ていたから。貴方はあの娘を犯したいと思ってる。あの娘の身体を欲望の赴くままに弄びたいと願ってる。私があの娘の身体を手に入れたなら、貴方はその願いを叶える事ができるのよ? 好きなだけ愛する事ができるのよ? ねぇ? 素敵でしょう?」


 だから、その為に、と女は再び響紀の耳元に口を寄せる。


 響紀はびくりと身を震わせながら、しかしそれから逃れることも出来なくて。


「貴方が、あの娘を、連れてきて?」


 ふふっと女は嗤い、すっと響紀から手を離した。


 何事もなかったかのように左手甲の皮を戻し、次いで二人の情事を傍らでじっと見ていたかつての友人に身体を向ける。


「ごめんなさい、貴方達もよく我慢できたわね。さあ、おいでなさい。次は貴方達の番よ」


 その言葉を待ち侘びていたかのように、かつての友人は獣の如く女の身体に覆いかぶさった。


 それに続くように、蠢く黒い影が二人を包み込むように動く。


 激しい喘ぎ声や唸り声、果ては叫び声や呻き声が辺りに大きく響き渡り、薄ぼんやりとした視界の先に響紀が目にした光景は、しかしこの世のモノとは到底思えないありさまだった。


 そこには複数の頭や手足が飛び出した赤黒い肉の塊が転がっており、その異形に穴という穴を塞がれた女の身体を貪るかつての友人は、最早人の形とはかけ離れた鬼のようだった。グチョグチョとまるで肉を捏ねるような音がこだまし、それらが彼らの嬌声と相まって奇怪な音楽を奏でる。それは原始的であり、本能的であり、煩悩的であり、蠱惑的であり……


 けれど響紀はその肉同士の交わりを見ているうちに、どうしようもない怖気を感じ、吐き気を催した。胃の腑から込み上げてくるそれに抗う事なく、響紀は辺り一帯に盛大に吐瀉物をぶちまける。それらは一つ一つが赤黒いナメクジのような物体であり、先程女によって胃の腑に流し込まれた異物であることは疑いようがなかった。


 響紀は目を見開き、吐き出したそれらを見つめる。肩で息をし、汚れた口元を手の甲で拭い――気づいた。


 女と、かつての友人と、赤黒い肉の塊から生えるいくつもの頭がその動きを止め、響紀を凝視していたのである。


 響紀は思わず「ひっ」と叫ぶように息を飲み込んだ。


 反射的に立ち上がると、響紀は彼女らに背を向け、全速力で駆け出す。


 とにかくここから逃げ出したかった。


 今、目にした事全てを忘れ去り、無かったことにしたかった。


 全速力で駆けながら、響紀は後ろを振り向く。


「――っ!」


 はるか後方に、響紀を追いかけてくる肉塊どもの姿が目に入った。かつての友人共々、逃げる響紀を連れ戻そうというのか、怒号を発しながらベチャベチャ地を這うように迫り来る。


 響紀は目を見張り前を向くと、捕まる事への恐怖から、必死に駆け続けることしかできなかった。

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