第3回
「……おい、兄ちゃん、大丈夫か?」
嗄れた声を耳にして、響紀はゆっくりと瞼を開いた。
見れば、ぼんやりとした視界の先に、眉を寄せて響紀の顔を覗き込む老爺の顔があった。
響紀は地面に手をつき、老爺に背中を支えられながら上半身を起こす。夜明け前の薄闇に見える老爺の顔を見て、何となく安堵しながら、「すみません、ありがとうございます」と立ち上がった。
「無理はせん事だ。もう少し休んでいたらどうだ?」
「いや、大丈夫」
響紀は答え、溜息をひとつ吐いた。
老爺は「そうか?」と心配そうに眉を顰めながら、
「しかし、何でまたこんな所に倒れてたんだ?」
「ああ、いや、その……」
どう説明すれば良いか解らず、言い淀む響紀。
それを見て、老爺は「もしかして」と口を開いた。
「子供の霊にでも追いかけられたか? 足と頭しかない子供に」
え、と響紀は目を見開き、老爺の顔を見つめた。
老爺は「やはりな」と口にすると、くつくつ笑いながら、
「あいつは悪戯好きだからな。驚かすのが好きなんだ」
「何で、それを…… あれは、いったい……」
「昔、ここいらで事故があったのさ。道路に飛び出した女の子を、たまたま通りかかった大きなトラックが轢き殺してな。いやぁ、あれは酷かった。タイヤか何かに身体が巻き込まれたらしくてな、辺り一面が血の海よ。形が残ってたのは、足と頭くらいだったか、それ以外は見事なまでにバラバラになっちまったそうだ」
老爺のその話に、響紀は顔面蒼白だった。
老爺はしかし、それを見ても可笑しそうに、
「それ以来だな、アレが悪戯をするようになったのは。まあ、特に害はない、安心しろ。アレは単に遊んでいるだけさ」
笑う老爺に、響紀はどんな反応をすればいいのか解らなかった。まるで霊の存在を肯定しているかのような物言いに違和感を覚えながら、けれど確かに目にしたあの足と血塗れの子供の顔を思い出すだけで、鳥肌がたった。
幽霊なんて居るはずがない、と思いながら、それと同時に、ならば俺が目にしたアレは何だったのか、と得体の知れない何かに対する疑念と恐怖に苛まれる。
「……納得いかんという顔をしているな」
老爺の言葉に、響紀は「あ、いや」と曖昧に口を濁した。
「まあ、最初はそんなものだ」と老爺は笑みを浮かべながら、「誰もが最初はそれを受け入れられない。まさか、そんなはずはない、何で、とそればかりだ。今まで自分が触れたことのない世界に足を踏み入れたんだからな、無理もない。だが、安心しろ。やがて慣れる。受け入れられるようになる。そんなもんだ。お前さんに何があってそうなったのかは知らんが、まあ、諦めろ。そして受け入れろ。儂には、それしか言えん」
いったい、このジジイは何の話をしているんだ? 何が言いたいんだ?
訝しみながら老爺の顔を見る響紀に、老爺は「そろそろ時間だな」と小さく言った。
「あとは、そうだな。お前さん自身が気付いとるんかどうかは知らんが、行くにしろ、留まるにしろ、それはお前さん次第だ。じゃあな」
そう言い残して背を向け去って行く老爺の後ろ姿に、響紀は驚愕した。
その後頭部は叩き潰されたかのように大きく抉れ、赤黒い肉を露わにしていたのである。あんな状態で生きているはずがない。まさか、あのジジイも……
響紀の動揺をよそに、後頭部の潰れた老爺は昇り始めた陽の光に照らされ、徐々にその姿を光に溶かして――やがて霧の如く、消えてしまった。
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