第2部 第1章 闇に犇く

第1回

   1


 ふと瞼を開いた時、彼は馴染みある我が家の門を前に、ずぶ濡れのまま佇んでいた。


 静まり返った辺りは深い闇の幕に覆われ、心許ない僅かな街路灯がぽつぽつと道を照らしている。


 じめっとした空気が身体の中にまで入り込み、内側から皮膚や肉を外へ外へと押し広げているかのような不快感の中、彼――相原響紀は、何故俺はこんな場所に突っ立って居るのだろうか、と眉を顰めた。


 額に手を当て曖昧な記憶を辿り、何とか思い出せたのは、何を思ったのか、同居人で親戚の娘である奈央を抱き寄せようとして拒まれ、勢い家を飛び出したところまでだった。


 果たしてあの後、俺はどうしたのだったか。

 どこへ行き、今まで何をしていたのか。

 そもそも、俺はどうして奈央を抱き寄せようとしたんだ――?


 しかし、どんなに思い出そうと試みても、まるで靄が掛かったかのように、それより後の記憶を思い出すことは出来なかった。或いは自分自身が無意識に思い出す事を拒んでいるかのように、駆けだしたあとの記憶が不鮮明で曖昧だった。


 ぼんやりと思い起こされるのは人の影。けれど、それが何者であるのかはまるで判らなくて。


 その影は奈央の姿と重なったが、けれど奈央から逃れて奈央のもとへ行くなど、どう考えても意味が解らない。


 何にせよ、俺は帰ってきてしまった、それは事実だ。

 こんな所で考え込んでいても、仕方がない。


 そう思いながら門に手をかけた時、不意に窓の灯りが揺らめいたような気がして、響紀はそちらに目をやって、

「……っ!」

 思わず息を飲んだ。


 閉じられたカーテンの隙間の先に、奈央の顔が見えたのだ。


 その瞬間、響紀は全身の毛が逆立つのを感じた。唐突に手足が震え出し、弾かれたように門から手を離し、あと退る。大きく眼を見開き、言い表しようのない恐怖を感じた響紀は、気付くと我が家に背を向け、まるで逃げるかのように駆け出していた。


 帰りたい、と思うのと同時に、奈央の姿を見た瞬間、俺はここに居てはいけない、帰ってはならない。そう自分の中の何かが囁いた。


 何より、響紀は奈央が恐ろしくて仕方がなかった。それが奈央の何に対する恐怖なのか、まるで見当もつかなかったけれど、奈央の姿に響紀は居ても立っても居られず、ただ必死に脚を動かし続けることしか出来なかった。


 しばらく走り続け、やがて響紀はやおら足を止めると、もう一度我が家の方に体を向けた。


 たかだか数十メートル先に見える我が家が、何故かとても遠くに感じられる。確かにそこに建っているのに、家そのものが自分という存在を拒んでいるかのようだ。ここにはもう、お前の居場所はない。そう言われているような気がして、響紀は焦燥感に苛まれながら我が家に背を向け、とぼとぼとあてもなく歩き始めるのだった。





 しばらく歩き続け、響紀は幼い頃に友人達と遊んだ近場の公園前に差し掛かった。


 ふらふらと公園に足を向け、隅に設けられたベンチにどかりと腰を下ろす。


 その途端、深い溜息が漏れた。


 これから先、俺はどうしたら良いんだろう、と頭を抱えこむ。


 帰りたいとは思う。しかし、奈央にあんな事をして、今更どんな顔をして帰れば良い?


 奈央のあの驚愕した表情を思い浮かべるだけで、俺は何て事をしてしまったんだ、何をしようとしていたんだ、と自分自身が恐ろしくてならなかった。


 もしあのまま奈央を抱き寄せていたら。もしそのまま奈央を押し倒し、欲望の赴くまま手篭めにしていたとしたら?


 例え今回は許されたとしても、またいつか同じような事をしてしまうかも知れない。


 そう思えばこそ、響紀は帰るわけには行かないと、感じざるを得なかった。


 しばらく一人になりたかった。


 頭を冷やして、普段の自分を取り戻さなければならないと思った。


 僅かばかりの街灯に照らされた公園はとても薄暗く、時折遠くで聞こえてくる車の走行音を除けば、ひっそりとして不気味なぐらい静かだった。


 いったい、今は何時なんだろう。そう思いながら癖のように右腕に目を向けたが、普段ならそこにあるはずの腕時計はどこにもなく、ならばスマホで、とズボンのポケットに手を伸ばしてみたが、あいにくスマホも携帯していなかった。


 ……当たり前だ、と響紀は自嘲する。そもそも出掛けようとして外に出たわけじゃない。自分の行動に驚き、動揺して逃げるように飛び出してきたんだ。そんなもの、家に投げたままだ。


 思わず大きな溜息を漏らし、真っ暗な空を見上げた、その時だった。


「あの、すみません……」


 唐突に横から声を掛けられ、響紀は目を大きく見開き、「わぁっ!」と思わず叫んで身体を仰け反らせた。


 見れば、いつの間に現れたのか、一人の女が響紀の座るベンチの横に突っ立っているではないか。


 響紀は胸に手を当てながら女の姿をまじまじと見つめる。


 薄暗くて女の顔ははっきりとは見えないが、やたら汚れ草臥れた服装に、響紀は妙な怖気を感じる。


「……何か?」


 響紀が答えると、女はか細い声で口を開いた。


「この近くに、病院はありますか……?」


「病院?」


 確かに、女の憔悴しきったような様子は、何かの病に罹っているかのようだ。


「……この先の道路を右に曲がって暫く行ったところにあるけど、夜間診療はやってないんじゃないか?」


 響紀の言葉に、しかし女は答えることはなく、ただ黙って頭を下げると、力無い様子でとぼとぼと公園を出ていった。


 やがてその先の闇に姿が消えるのを見届け、響紀は小さく溜息を吐き、

「何なんだよ、いったい……」

 そう、独り言ちた時だった。


「あの、すみません……」


 再び真横から声を掛けられ、響紀はびくりと身体を震わせながら顔を向け、そして驚愕した。


「この近くに、病院はありますか……?」


 先ほど見送ったばかりの女が、全く同じ佇まいで、すぐ目の前に立っていた。


「――えっ」


 響紀はその草臥れた姿の女に目を見張り、次いで先程この女が姿を消した闇に顔を向けた。


 そこには深い闇が穢れた水のように淀み、その先の道を見通すことなどまるでできなくて。


 いったい、この女は、どこから。


 女は黙りこくったまま俯き、ただ、佇んでいる。響紀の返答を待っているのか、気持ちが悪いくらい微動だにしない。


 生ぬるい風が二人の間を吹き抜け、響紀の頬を撫でていく。


 はらはらと風になびく女のその長い黒髪は酷く傷んでいるようでバサバサしており、影に隠れた顔は見えず、どんな表情をしているのかもうかがい知れなかった。


 そんな女に、響紀は訝しみながらも先程と同じように、けれど慎重に答えた。


「こ、この先の道路を、右に曲がって、暫く行ったところに……」


 女はその言葉に対して黙って頭を下げると、やはり先ほどと同じように公園から出て闇に身体を溶かして、そして――


「あの、すみません……」


 響紀は目を見張り、振り向いた。


 果たしてそこに立っていたのは、またしても、あの女だった。


 その途端、響紀は息を飲み、ベンチから立ち上がると女から僅かにあと退った。


 じっと女の姿を見つめたまま、女の変わらぬ佇まいに言い知れぬ恐怖を覚える。


 何だよ、何なんだよ、こいつは! あり得ないだろう! 確かにさっき、向こう側へ歩き去っていったばかりじゃないか! どこから湧いて出てきた? どうやってあそこから一瞬で! もしかして幽霊?


 ……いや、そんなはずはない。幽霊なんて、いるはずがない!


 響紀は動揺するのと同時に、だんだん怒りが込み上げてくるのを感じた。


 きっとよく似た数人の女が、俺をからかって遊んでいるのだ。


 あの影に隠れた顔が、驚愕する俺を見てほくそ笑んでいるのに違いない、そう考えた。


 そうだ、そうに決まってる。幽霊なんて、居るはずがないのだから。


「――おい! ふざけんなよ! 人をからかうのもいい加減にしろ!」


 響紀は怒りに任せて怒声を浴びせ、女の肩に両手を伸ばした。


 やけに細い、骨ばった肩を強く掴んで前後に揺らし、響紀は歯をむき出しにしながら、


「こんな夜中にそんなことして非常識だろうが! そんなに人を驚かせて楽しいか? あぁんっ? こら、何とか言えよ、このクソ女が!」


 そして次の瞬間、女はばっと顔を上げて――


「――っ!」


 響紀は思わず、声にならない悲鳴をあげていた。


 そこに、人の顔はなかった。


 いや、かつて人の顔だったものが、そこにはあった。


 ぎょろぎょろと飛び出した目玉はけれど片方が抜け落ち、鼻は潰れ原型を留めてはいなかった。耳はそぎ落とされたのか引き千切られたのか、その痕跡だけがそこにはあった。裂けた唇の奥にはあるはずの歯がまるでなく、血みどろの歯茎が覗くばかりで――


「うわあぁぁっ!」


 響紀は大きく叫び、女の体を突き飛ばしていた。


 女は地面の上に尻餅をつくように倒れ、「ううぅ、あぁっ」とうめき声を漏らし始めた。


 地面を這うようにして響紀の方に近づきながら、

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――!!」


 最後は絶叫と化していた。


 恐怖のあまり動けない響紀の足を両手で掴みながら只管に許しを請い、嗚咽を漏らして。


 響紀は首を左右に振り、「離せ、離せ……!」と声を振り絞る。


「やめてくれ……離せ、離せ―――――離せって言ってんだろうが!」


 響紀は拳を振り上げながら、渾身の叫び声を上げた。


 その途端、女は「ひっ!」と小さく悲鳴を上げ、響紀の足から手を離すと、自身を守るように顔を覆った。


 怯え、震えだす女の姿に響紀は思わず狼狽したが、けれど逃げ出すなら今しかないと、脱兎の如く駆け出した。

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