第2回
病院に着くと二人は小母の病室に向かった。小母は昨日と同じような体勢で、ベッドに横になっていた。ぱっと見は普段とあまり変わりない様子だけれど、心なし表情に影が見えるような気がしてならず、それを意識すると奈央の心臓は締め付けられるような感覚に陥った。
依然として判らない響紀の行方。様子のおかしかった数週間を含め、実の母である小母は一体どんな気持ちで今ここにいるのだろうか。
「あら、奈央ちゃん。本当に来てくれたの? ごめんなさいね。あらあらあら木村君も一緒なのね。ありがとう、ふたりとも」
そう言って笑顔で迎えてくれた小母に、奈央は自身の気持ちを気取られないよう、なるべく笑顔で「おはよう。あたりまえでしょう? 着替えも持ってきたよ」と手にした鞄を示すのだった。
奈央はその鞄から新しい着替えを取り出すと、ベッド横の棚に収められた小母の衣類と入れ替えていく。
と、その時だった。唐突にスマホの鳴る音が病室内に鳴り響いたのだ。それは自分のすぐ背後に立つ大樹のポケットから聞こえており、当の大樹は慌てたように電話に出ると、「あ、ごめん、ちょっと外に出てくる!」と言って病室を飛び出して行った。
奈央は「誰からだろ」と訝しみながら、そんな大樹の背をちらりと見送る。
それから再び小母の方に顔を向けると、
「ありがとね、奈央ちゃん」
言って小母は微笑んだ。
しかし、その表情にはやはりどこか影が差して見えて、奈央は堪えきれず、眉を顰めながら静かに問うた。
「……ねぇ、何かあったの?」
「――えっ」と目を見開く小母に、奈央は続けた。
「やっぱり響紀が帰ってこなくて心配だよね。ごめんなさい、私が――」
言いかけて奈央は口籠る。
私は今、何に対して謝っているのだろう。響紀に話しかけたこと? あの不安定な状態の響紀に何も考えず話しかけたこと? それとも、去っていく響紀をちゃんと追いかけて、捕まえるべきだった――?
そんな奈央に対して小母は困ったように曖昧な微笑みを浮かべながら両手を振り、
「ど、どうして奈央ちゃんが謝るの? 違うわ。気にしちゃダメよ、奈央ちゃんの所為なんかじゃない。あの子は、自分の意思で出て行ったんだから。出ていく数週間前から様子がおかしかったでしょう? 何だか何かに取り憑かれたみたいな表情で、仕事にも行かないで――きっと仕事で何かあったのよ。きっとそうよ」
だけど、と口を濁らせる奈央に、小母はすっと顔を伏せ、小さく溜息を一つ吐いた。それからすっと顔を上げながら窓の外に虚ろな瞳を向けながら、重たそうに口を開いた。
「……骨折しちゃった時のことなんだけど、あの時、階段の下に響紀の姿が見えた気がしたの。それで私、慌てちゃって。思わず響紀って呼びながら、足下も見ないで駆け出しちゃったの。それで階段を踏み外して、そのまま下まで落ちちゃった」
情けないわね、と言って小母は悲しそうに小さく笑った。その姿が余りに痛々しくて、奈央は「そんなことないよ」と取り繕う。
そんな奈央に、小母は首を横に振りながら、より一層その表情に影を落とす。
「……実はね、もうダメなんじゃないかって思ってるの」
「なにが……?」
「もう、帰ってこないんじゃないかって……」
その言葉に一瞬、昨夜見た響紀の姿が思い浮かんだ。確かにあれは響紀だった。彼は奈央の見ている前で二階へ上がり、けれどそれを追うように上がった先には響紀の姿はどこにもなくて。見間違いだったのだ、と自分に言い聞かせながら、まさか、と思う自分も居て。
「一昨日の夜、夢を見たの。響紀がベッドの傍らに居て、私に言うのよ。ごめん、もう、帰れないって。どうしてって聞いても、響紀はただじっと悲しそうに私を見て、消えちゃったの。目が覚めたとき、私は泣いてたわ。たぶん、響紀は、もう……」
目に涙を浮かべる小母に、奈央はそっとその手を掴んだ。ぎゅっと握りしめながら、駄目だよ、と口を開く。
「そんな事、考えちゃ駄目だよ。心配し過ぎるから、きっとそんな夢を見ちゃうんじゃないかな。大丈夫、帰ってくる。だってあの響紀だもん。そんなに気に病まないでよ」
そうね、と答えた小母の目にはしかし、いく筋もの涙の川が流れていた。奈央にはかつてそうされたように、小母の頭を撫でることしかできなかった。
しばらくして、小母は涙を拭きながら小さく笑った。
「……ごめんなさいね。あんな夢を見て、弱気になっちゃったみたい。そうね、あの響紀だもん。大丈夫よね」
うん、と奈央は笑顔で頷く。なるべく小母には笑っていて欲しかった。暗い顔で塞ぎ込む小母の姿を見ていたくはない。
小母も同じようなことを思っているのだろう、にこりと微笑むと、「そんなことより」と口を開いた。
「奈央ちゃん、いつから木村くんと?」
え、と奈央は一瞬硬直する。
いつから、と言うのは、まあ、付き合い始めてどれくらいが経つのかって意味なんだろうけど、まさかまだ一日しか経ってない、なんて言える筈もなかった。付き合い始めて、その日のうちに家に泊まらせたり、一緒にお風呂に入ったりだなんて、常識的に考えて有り得ない。小父との大喧嘩の件もあるし、小母にはこれ以上、変な心配をさせたくなかった。
「ええっと……一年くらい前、かな?」
委員会で知り合ってそれくらいだから、それ以来の『付き合い』であることには変わりない。だから、嘘じゃない、と奈央は小母と一緒に自分を誤魔化す。
「あら、もうそんなに?」と小母は首を傾げ、「何だか初々しい感じがしたから、まだ最近かと思ってたわ」
奈央はドキリとしつつ、曖昧に笑ってみせる。
「大樹くん、恥ずかしがり屋だから……」
ふぅん、とからかうように笑う小母はしかし、全てを見透かしているかのようで。
「まあ、そういうことにしておきましょうか?」
「え、あ、うん……」
何を? とは、恐ろしくて訊けなかった。もしかして、すでに小父から昨夜の事を聞いてるんじゃないか、と思うと何となく居たたまれなくなり、
「だ、大樹くん、遅いね。どこまで行ったのかな? もしかしたら迷ってるかも知れないから、迎えに行って来る!」
そう言い残して、奈央は逃げるように病室を出る。
その後ろで、小母は「あらあら」と笑うのだった。
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