第2回

   2


 HRの間中、奈央は木村からの言葉を反芻して顔を上気させていたが、しかし一時限目が始まるや否や襲い来る眠気に抗えなかった。授業の内容もまるで頭に入ってこないまま、うつらうつらと船を漕ぎ始める。


 最早頭を上げている事すらままならず、奈央はそっと顔を伏せた。重たい瞼を一旦閉じると、二度と開けられないのではないかと思うほどに全身の力が抜けていく。


 教師の声がまるで子守唄のように耳に入り、奈央はすやすやと小さな寝息を立て始めた。安寧の暗闇は心地良く奈央を包み込み、その疲れを僅かながらに癒していく。いっその事、体調不良を理由に保健室に行き、しばらく寝させてもらった方が良いかも知れない。


 そもそも人の居る場所の方が安心できるという理由で無理して登校して来たのだ。こんな状態で真面目に授業など受けられるはずもない。奈央には一度、頭をすっきりさせる必要があった。


 そんな事を考えながら微睡んで居ると、不意にぴちょんっと水の滴る音が聞こえてきた。その音はどこか遠くから僅かな音量として耳に届いたが、けれど間を置いて再び聞こえて来たぴちょんっという音は、先程のそれよりも随分大きな音量となって耳に入った。




 ぴちょんっ、ぴちょんっ、ぴちょんっ……




 その音が次第に近づいてきていることに気づいた奈央の鼻を、やがて覚えのある臭いが刺激する。生臭い、腐ったようなその臭いは、昨夜のあの姿なき男の発していたそれと全く同一で。


 その途端、奈央の全身が総毛立った。まさか、こんな沢山の人が居る中に現れるだなんて。


 奈央は咄嗟に眼を開けようとしたが、鉛のように重くなった瞼はまるで貼り付けられたかのように開かない。せめて身体を起こそうと踏ん張ってみたけれど、1ミリたりとも奈央の身体は動かなかった。


 それが金縛りだということに気付いた奈央の身体から冷や汗が噴き出した。まるで石か何かのように言うことを聞かなくなった自分の身体に焦り、恐怖を膨らませていく。




 ――ぴちょんっ




 その水音は遂に真後ろに落ち、奈央は戦慄した。あの臭気が周囲に漂い、背後に荒い息遣いを感じた。ひひっという下卑た嗤いが響き、襟元から服の中へと、するすると手が伸びてくる。それが奈央の肌に直に触れ、嫌らしく蠢いた。まるで蛇が這い込んできたかのように、その手は奈央の乳房にまわされる。


 奈央は叫び声を上げたかった。立ち上がり、喚き散らしたかった。けれど身体はまるで動かず、瞼を開ける事すらままならない。


 その絶望の中、奈央はそれとは別に、もう一つの感触を足下に感じた。椅子の下を這うように蠢くそれは、奈央の太腿にその手を伸ばすとまるで朝顔の蔓が壁を伝い上がるかのように内股の中へと侵入してくる。荒々しい息遣いを股の間に感じ、奈央は声なき悲鳴を上げた。


 無遠慮に弄ばれる胸と内股に必死に耐えながら、しかし奈央の頭は恐怖と絶望と混乱に支配されていく。抗う術など何一つなく、うなじにかかる息が奈央の肌を腐らせていくような感覚にとらわれた。


 全身に力を込めようにも、その力の入れ方そのものを忘れ去ってしまったかのようだった。恐怖は頂点に達し、このままこの得体の知れない存在に身体を蹂躙されるのだと諦めかけた、その時だった。




『――ファオン!』




 突然、犬のような大きな鳴き声が辺りに響き渡った。


 その瞬間、それまで開ける事のできなかった瞼がパッと開く。奈央の身体を弄んでいた感触が、まるで潮が引くかの如く唐突に消え失せ、奈央は慌てて身体を起こした。全身の無事を確かめ、ほっと肩を撫で下ろす。


 今のはいったい、何だったの?


 奈央は早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら周囲を見回す。


 見れば、教室の中全体が騒然としており、突如聞こえた犬のような鳴き声に奈央と同じく戸惑っている様子だった。前の席に座る宮野首も、驚いたように硬直している。


「おい、誰だ! 犬の鳴き真似なんかしたのは!」


 教師が教壇の前で皆の顔を見渡すように叫んだ。


 クラスメイト達は互いに互いの顔を見合わせ、しかし誰一人名乗りあげる者はなかった。皆一様に首を傾げ、どこから聞こえてきたのだろう、とひそひそと会話している。


「――ったく」憤る教師は悪態を吐き、「真面目に授業受けろよ、いいな!」


 そう言って黒板に向かい、授業を再開した。


 クラスメイト達もそれに従い、再びクラス内に静寂が訪れる。けれど、一度乱れた場の空気はもう元のようには戻らなくて。


 何とも言えないその不穏な空気の中、奈央は先程の恐怖に怯えながら、それでも気丈に振る舞うように、必死にペンを握るのだった。

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