第15回

 あの人は私に気が付いたのだろうか。あの薄暗がりの中、道路を挟んだ向かい側の私を目にして、正確に私であると認識しただろうか。それに、私とあの人との間には何台もの車が引っ切り無しに行き来していたのだ。あの状況で、果たして……


 奈央は自転車を漕ぎながら、全身から冷や汗が噴き出すような思いだった。どうしてあの場で立ち止まってしまったのかと自分で自分を呪い、胸の中のざわざわとした気持ちを必死に抑えつけながら、途中歩道が途切れた道を一気に駆けあがる。すぐ脇を徐行しながら通過していく自動車の後ろ姿を追いかけながら、奈央はぐっと歯を食いしばった。


 こんなことなら、遠回りして帰ればよかった。あの人と出くわさないようにと敢えて反対側の道を進んでいたのに、わざわざ立ち止まって様子を窺うなんてことをするだなんて、自分自身思ってもいなかった。あのまま駆け抜けていれば、あの男の家に目を向けさえしなければ。


 だが何を考えようと後悔しようと、あの男と目が合ったであろうことは否定のしようがなかった。少なくとも、こちらからはあちらが見えていたし、奈央自身あの男をはっきりと本人であると認識できたのだ。ならば当然、あの男も奈央の姿を認識していたはずだ。その上であのネバつくような笑みを浮かべたのだとしたら――奈央は激しく頭を振り、その考えを払い退ける。


 いずれにせよ、明日からはこの道を使いたくはない、そう思いながら。




  10



 翌朝。奈央は自宅を出ると、峠とは反対の方向へ自転車のハンドルを切った。出勤ラッシュの車や人たちとは逆走する形で隣町へ向かい、そこから道なりに大きい通りを抜けてUターンするように峠のある山を迂回して駅前を通過する。そこからはいつも通りの道程だったが、その時点ですでにいつもの倍は自転車を漕いでいるので全身から汗がにじみ出ていた。ただでさえ梅雨時とあってじめじめして気持ちが悪いというのに、そのうえ汗まで掻いてしまってはたまったものじゃない。念のためタオルと汗拭きシートを携帯しているので、学校に着いたらトイレにでも行って、まずは汗を拭かなければ。


 思いながら、奈央は遅刻しないよう必死にペダルを漕いだ。


 やがて息も切れ切れに学校に到着した奈央は、深い溜息とともに自転車から降りて駐輪場へ向かう。


 その時だった。


「相原さん!」


 すぐ後ろから声がして振り向くと、そこには木村大樹の姿があった。木村は満面の笑みを浮かべながら、自転車を引きつつ小走りで奈央の横に並ぶ。


「おはよう」


「あ、うん、おはよう……」


 奈央は返事をしつつ、木村から僅かに距離を取るように離れて歩いた。これだけ汗を掻いているのだ。今はあまり近づいてほしくはなかった。


 けれどそんなこととは露知らず、木村は気にするふうもなく、その僅かに開けた間を詰めてくる。奈央は思わず眉根を寄せ、もう一度僅かに――先ほどよりもう少し広く距離を取った。


「どうしたの? なんか難しい顔してるけど」


 木村のその言葉に、奈央はどう答えたものか一瞬迷い、


「……なんでもない」


 その気はなかったけれど、つっけんどんな言い方で返事した。


 その瞬間、奈央は自身の発した言葉と言い方に、あぁ、これだ。これがいけないのだ、と内心で溜息を吐いた。この言い方が他者との距離を作る。聞いた者を不快にさせる。誰ともつるみたくはないのだと勘違いさせる。本当にそういうつもりで言っているわけではないのに、ただ返事をしただけのつもりなのに、言い方ひとつで人は離れていく。


 せっかく話しかけてきてくれたのに、木村くんにまで不快な思いをさせてしまったかもしれない……


 何とも言えない不安にかられ、奈央は一言謝ろうと木村に顔を向けて――


「――本当に?」


 心配そうな表情で顔を覗き込んでくる木村の真剣な眼差しに、思わず息を飲んだ。

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