第13回
「今日は助かったよ。ありがとう、相原さん」
木村はにっこりと笑いながらそう言った。
時刻は午後六時をとうに過ぎ、時計の針はもう間もなく午後七時を指し示そうとしていた。曇り空の合間から僅かに差す橙色の光が世界を点々と照らす中、奈央と木村は二人並んで脱靴場をあとにして駐輪場へ向かう。思えば高校に入学して以来、誰かと並んで歩くのは初めての事ではないだろうか。
「ううん」と奈央は首を横に振り、「私もずっとカウンターで小説を読み続けてるよりは、何かやってる方が良かったから」
特に小林と二人並んで何の会話もなくだらだらやっているよりはずっと良い。けれど奈央はそんなことを口に出そうなんてまるで思わなかった。そういったことは胸の内に秘めるべきものであって、敢えて口にするようなものじゃない。壁に耳あり障子に目あり。どこで誰が見聞きしているのか判らないのだから。特に先ほど図書室を出るときには三人一緒だったのだ。小林は自転車通学ではないらしく一人でスタスタ校門へ歩いて行ったが、もし何か伝えるべき事があって戻ってきたりしたらばつが悪い。
「そう? ならよかったよ」言って木村は奈央に顔を向け、「でも、ちょっと安心した」
「え?」奈央は目を瞬かせ、「何が?」
「だって相原さん、今まであんまり喋ってるの見たことなかったから。ほら、小林君と同じタイプの寡黙な人だったらどうしようって思ってたんだ。ちょっと苦手なんだよね、小林君」
敢えて奈央が口にしようとしなかったことをすんなり口にした木村に、奈央は思わず視線だけを辺りに向けて小林の姿を探してしまった。けれど二人の周囲には他に誰の姿も見当たらず、奈央はほっと安堵しながら、
「……あんまり自分から話しかけようと思わないだけだよ」
そうなんだ、と木村は頷きながら顔を前へ戻し、しばらく間を開けた後再び口を開いた。
「もしかして、人と話すの苦手だったりする?」
「う~ん、どうだろう」奈央は曇り空を仰ぎながら、「苦手って言えば苦手かも。私が口にした言葉で相手が何を思うのか、何を感じるのか、それを想像すると何となくこっちから話しかけるのが気が引けちゃう感じ」
「それって、相手の反応が怖いってこと?」
「――えっ」
その言葉に、奈央は思わず口をつぐむ。虚を突かれたような気持ちだった。思わず足を止めて立ち止まり、木村の方に顔を向ける。
「あぁ、ごめん」木村は失言だったとばかりに慌てた様子で両手を振った。「気を悪くしたなら、謝るよ」
そんな木村の様子に奈央は首を横に振り、
「ううん、大丈夫。でも……そうだね、確かに……怖い。私が臆病過ぎるだけなのかもしれないけれど」父親に対しても、響紀に対しても、私はコミュニケーションをとるのが怖い。どういった反応が返ってくるのか想像するだけで、怖い。「人との会話って、私にはすごい勇気がいることなんだと思うの。元々転校してばかりで親しい友達も作れなかったから、人とどう接していいか分からなくて、怖いんだと思う」
奈央は言って、ほうっと小さくため息を吐いた。
「でもさ、今こうして僕と普通にお喋りしてるでしょ? 今も怖い? 僕が相原さんの言葉で何をどう思っているのか考えたら、不安?」
「それは――」と言いかけて奈央は再び口を閉じた。
不思議と木村と話をしても不安を感じていない自分に気づき、困惑する。どうしてだろう。木村と話をする分には、まるで怖いと思わない。さっきから普通に受け答えができている気がする。そればかりか、まるで小母と話をしている時と似た安堵感すらあった。木村の柔和な笑みのためか、それとも――?
「ちょっとずつ慣れていけばいいんじゃないかなぁ」
木村の言葉に、奈央は「えっ」と小さく声を漏らした。
「無理して話をすることはないと思う。その代わり、ちょっとずつ慣らしていくんだよ。対人恐怖症とか緘黙症とかってわけじゃないんでしょ? なら、慣らしていけばそのうち自分から自然に会話ができるようになるんじゃないかな」
まぁ、口から出まかせだけど、と言って木村はにっと笑ってみせた。
それを見て、奈央もつられて微笑みを浮かべる。
「……そうかもね」
それから二人並んで自転車を引きながら校門を抜けたところで、不意に木村が口を開いた。
「そういえば相原さん、どっち?」
「え?」と奈央は首を傾げる。「なにが?」
「帰る方向。駅の方? それとも西区方面?」
「駅の方だよ」と奈央は特に疑う気もなく正直に答える。「駅前を抜けた先、峠を超えた向こう側」
その言葉に、木村は「あぁ……」と口にして眉を寄せた。
「――えっ、なに? どうかしたの?」
その態度に奈央も思わず眉を寄せる。
木村は先ほどまでの柔和な微笑みの消えた真剣な眼差しで、こう言った。
「……気を付けてね。最近あの辺、不審者が多いから」
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