第11回
7
翌日、朝一で登校した奈央は職員室に直行し、ハンカチの落し物がないか教員に確認してもらった。けれど残念なことにハンカチの届け出はなく、「もし見つかったら連絡するよ」という教師の言葉に奈央は「ありがとうございました」と気のない返事をして、項垂れるようにして教室へ向かうのだった。
深い深い溜息を一つ吐いて、奈央は机の上に顔を伏せる。はらりと溢れる長い黒髪が細い川のようにいくつもの流れを形成し、それは御簾の如く奈央の顔を覆い隠した。
父親から貰ったハンカチを失くしてしまったという罪悪感が、奈央の胸をチクチク突き刺す。喧嘩別れのようにして小父小母のもとで暮らすようになってしまい、いまだにまともに連絡を取り合っていない、そのことだけでも何だか気が重かったというのに、このうえハンカチまで失くしてしまっては本当にどうしていいか解らなかった。
気にし過ぎなのかも知れない。もっと気軽に父親と連絡を取り合うべきなのかも知れない。あの女――家族を捨てて出て行った身勝手な母親――が居なくなってから、男手一つで自分を育ててくれた父に対して、私はいったいなんて酷いことをしているんだろう、という思いもあった。今更のように、やはり父の希望通りにするべきだったんじゃないか、そうすれば今頃はこんな中途半端な関係と申し訳ない気持ちにはならなかったんじゃないか。そんなふうに後悔してしまうこともしばしばだった。
だからこそ、奈央は入学してからのこの数か月間、父から貰ったそのハンカチを大事に使ってきたつもりだった。父親と連絡を取り合っていない引け目を埋めるために、せめて父親から貰ったこのハンカチだけは肌身離さずにおこう、そう思っていたのに。
――ごめんね、お父さん。私、ハンカチなくしちゃったよ――
奈央は何度目かの深い溜息を漏らし、ぐっと体に力を籠めるのだった。
こんなことで涙が出るだなんて思いもよらなかった。本当は自分の父親が恋しくて堪らないのに、それを素直に表せない自分の性格に奈央は苛立ちを覚えつつあった。それと同時に、自分と同じように自ら連絡を寄越してくるのではなく、小母を介して遠回しに奈央の様子を知ろうとするその父親の性格にも苛立ちを覚えた。恐らくこの性格は遺伝子レベルで刻み込まれているのだろう、結局は似た者親子なのだ。なかなか素直になれない。どこかしら後ろめたさを感じてしまい、自分から相手に近寄れない、そういう性格なのだ。プライドが高いのとは少し違う。ただただ自分から行動した時の、相手の反応を考えると怖くてたまらないのだ。人に対して臆病なのだ、と考えた方がしっくりくる。
しかしそれは響紀に対しても同じだった。どうコミュニケーションをとればいいのか解らない。どうかすると、その名前すらまともに呼んだ覚えがなかった。こちらの方も、どうして引け目を感じているのか解っている。私が響紀の立ち位置を奪ってしまったから、奈央はそう思っていた。一人息子である所の響紀。けれど幼いころから我が子のように自分を可愛がってくれている小父と小母。奈央に注がれるその愛情は、本来響紀に向かうべきはずだったものだ。それを横取りしてしまったという意識が奈央の中には昔からあったのだ。そしてそれは今も変わらず、むしろ居候するようになって日に日に大きくなっていった。別段響紀からそのことで嫌味を言われたということはただの一度もない。それでも奈央は、自分が可愛がられている間、部屋の隅で一人テレビを眺めている響紀を見るたびに胸が苦しかった。本来ここにいるべきは響紀であって私じゃない。響紀はずっと我慢してきたはずだ、とそう思えてならなかった。にも関わらず、父親に対してと同じように、やはりどう接したら良いのか解らなかった。
そんな他人(石上麻衣の言葉を借りるなら、家族とて自分以外は他人だという)との接し方は身内にとどまらず、日常の学校生活においても同じだった。『おひとり様』は苦ではない(もうすでに慣れてしまっている)にしても、小父や小母から見れば恐らくこれもまた心配の種になっていることだろう。今まで『友達』はおろか、『クラスメイト』の話題すらあげたことはないのだから。
或いは石上となら友達になれるかもしれない。
そう思いながら、しかし奈央は自ら石上の教室を訪ねるほどの勇気も理由もなく、ただ再び石上が自分のもとを訪ねてきてはくれないだろうか、と期待してしまうことしかできなかった。
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