月読
霧乃有紗
其の一
『私の本は分厚くも薄くもない。私の人生みたいだ。』
『
この能力を得てから何年経っただろうか。生まれてすぐ物心がついた時はまだなかったと思う。しかし、小学生に上がる頃にはすでに発現していたと思う。
『この能力』とは、端的に言うと人が経験してきた記憶や思考を文章として読むことができるということだ。どこかで聞いたこと……どころか漫画でも読んだことがあるが、あそこまで便利なものではない。記憶の改竄なんてできないし、操ることなんてもっての外だ。
私ができることは、自分も含めた人間(動物は見たことがない)の、頭の上に浮いている本を手に取り、中身を読むことくらいだ。もちろん、手に取ろうがぶん投げようが、他人には認知が出来ず、それどころか壁や人間に投げたとしても、対象をすり抜けて地面へと落ちてしまう。
ちなみに手に取ってどこかに置いておいたとしても、勝手に持ち主の頭上へと戻っていく。いちいち片付ける心配もないから助かると言えば助かるが。
そんな能力を持っている私は今、公園のベンチの上で膝を抱えてうずくまっていた。何時間も何時間も泣き続けたせいか、鼻水は止まらないし、喉もカラカラに乾ききっていた。
外はもう暗く、月も空に浮かんでいるが、スマートフォンを持っていないため、今何時かも把握することができない。公園には大きな時計があるにはあるのだが……確かあの時計は時刻が狂っていたはずだし、そもそも移動するのが酷く億劫だ。
何故、私がここで泣いているのか? 理由は単純明快。両親のダブル不倫を知ってしまったからだ。
父親の様子がおかしかったため、目を盗んで父親の本……革張りでしっかりとした手帳風の本を開いて中身を読んだところ、母親より年下である女性との蜜月がそれはそれはもう……たくさんしたためられていたからだ。
自分の父親の逢瀬を目の当たりにしてしまい、軽い吐き気を催しながらも、なるべく表情に出さないように細心の注意を払いながら、その場から離れた。
これ、お母さんは知っているのかな?
そう気になった私は、母親の本……桃色の布張りのノートを開く。そこには、父親の兄……つまりは伯父との赤裸々な蜜月……あとはもういいだろう。思い出すだけで吐き気を催してしまう。
そんなことがあったため、私は泣きながら家を飛び出し、今現在、公園のベンチの上に体育座りをする女子高生と相成ったのだ。
本当に最悪だ。ほんっとうに最悪だ。
この能力を自覚してから何度『もしこの能力がなかったら』と考えたか覚えていないが、今この瞬間が一番『もしこの能力がなかったら』と考えている。
しかし、そんな終わりのない思考を続けるにも、限界が訪れつつあった。まだ秋とは言え、日が沈めばそこそこに寒く、しかも今の私は制服にカーディガンのみ、タイツなんか履いていなかったため、足元も寒くなってきた。
さらに、お腹もすいてきたし、先程も言ったが、泣きすぎたせいか、喉も乾ききっている。
でも、あの家に帰る勇気は今はまだない。
そんなこんなで途方に暮れていた。
その時、私の視界に何かが映った。予想外のその何かに私は弾かれたように顔を上げた。
子供……ランドセルを持ち、制服を着た女の子が公園を歩いていたのだ。
こんな時間に? 女の子が? 一人で?
自分のことを棚に上げて、私は鼻をすすり、女の子元へと近づいた。……自分のこともままならないのに、どうしても、その子のことが心配になってしまったのだ。
「ねぇお嬢さん? こんな時間にどうしたの?」
私がそう訊ねると、女の子はキョトンとした顔をして、私のことを見ている。黒髪のおさげが軽く揺れる。全くと言ってもいいほど表情が読めない。
どうしたものかと、つい女の子の頭上を見てしまう。能力がなかったらと考えているくせに、どうしても能力に頼ってしまう。……本当に私は意志が弱い。
少女の本は大学ノート風のデザインだった……が、私は一つ違和感を感じた。
とてつもなく薄いのだ。本の厚さには個人差があり、六法全書より分厚い人間もいれば、漫画サイズほどの人間もいる。しかし、目の前の少女のノートはそれこそ全部で4ページほどしかないのだ。
小学生だということを加味したとしても、あまりにも薄い。私は疑問符を浮かばせながらも、女の子の本を手に取り、内容を読む。
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』
……読めない。
ノートの中身が真っ黒になってしまっていて、全く読めないのだ。普段であれば、日本人であれば、大体日本語が書かれており、読むことが可能なのだ。こんなに真っ黒になっているのは初めてのことだった。
しかし、よくよく目を凝らしてみると、どんどんどんどん黒が継ぎ足されている。
もしかして。
「急に声を掛けてごめんね? なにもしないから、落ち着いてほしい……かな?」
そう私が声を掛けると、ノートに黒が走らなくなった。
これは……この女の子は1ページに全ての言葉を詰め込んでいるようだ。
私は髪の毛をがしがしと掻き、次に出す言葉を探していた。なんて声を掛けようか……。
「あー、えっと、なんで一人なのかな?」
私がそう言うと、再びノートに黒が走る。しかし、目の前の少女はキョトンとしている。
思考と行動が一致していない……?
「なんて言えばいいのかな……うーん……今考えていることを日本語で、言葉にして。話してみてくれないかな?」
私がそう言うと。
「寒い」
女の子はそう言った。なるほど。寒いのか。
私はカーディガンを女の子に羽織らせてあげる。私はさらに寒くなってしまったが、この女の子に寒い思いをさせたくない。
「暖かい……」
「あー……、名前は?」
私がそう言うと、女の子が一つうなずき。
「サヨ」
「さよ……ちゃん?」
「サヨ」
サヨと名乗った女の子は得意げな顔をしている。……何故そこまでドヤ顔をしているのか全くわからないけど。
目の前のノートに目を落とすと、相変わらず黒が走り続けている。それと同時に目の前の女の子はしゃべり続けている。
この子、もしかして常に何か思考し続けている……? 記憶や思考の整理整頓が苦手なのか? 私は頭を少しだけ捻り……女の子……サヨにこう言った。
「五秒だけ、思考停止!!」
「!!」
私がそう言うと、サヨはピタッと止まる。その表情は、猫……だかなんだかのフレーメン現象みたいに見える。すごい間抜けな顔をしているのだ。
五秒後。再び、ノートに黒が走る……が、しかし今まで同じページに走っていた黒は、次のページに移っていた。
そこには。
『すっきり。頭が軽い。お姉さんの言葉を聞いたら、なんだか少しだけ楽になった』
と書かれている。……私はこの能力の詳しい仕様を知らないけれど、ずっと同じページに書かれていると、日常生活に支障をきたすのか……? そんなことを考えていると、サヨから声を掛けられる。
「お姉さんの名前は?」
「え?」
「名前」
どうやら、サヨに自己紹介しろと言われているらしい。そういえば、名乗ってなかったな……。
「湯川恵里衣。恵里衣でいいよ」
「えりい……?」
「そ、えりい」
すると、サヨはくるりと一回転すると、こう言った。
「覚えた」
「覚えたかー」
これが私と……鳴無小夜(オトナシサヨ)との出会いだった。
間違いなく、この女の子は私の人生を大きく変えてしまったのだ。
サヨと出会ったあの夜。サヨの本の中身を確認しながら、サヨの家を探した。どうやら、サヨの両親もこの子のことを探していたらしく、とても心配そうな表情を浮かべていた。サヨはと言うと、わかっているのかわかっていないのか、最初に出会った時と同じく、ぽけーっとした表情を浮かべていた。念のため、手に持ったままの本を覗いてみると、そこには……。
『お腹空いた』
と書かれていた。なんとも現金な。
何度かお礼を言われたあと、私は自分の家に戻る決意を決めた。本当は絶対に帰りたくなかったのだが、帰らざるを得ない。再び、あの公園を通り、家路につく。足取りは酷く重く、外で凍死なり餓死したほうがましなんじゃないか、そんな考えも浮かんできた。
しかし、そんなこと、現代日本でできるわけもなく、すぐに警察屋さんなり、最悪犯罪者さんの養分になり果てるだろう。そんな普段考えないような『嫌なこと』を考えながらも、見知った道を歩く。きっとこんなことを考えてしまうのは、両親の情事な部分をまざまざと見せつけられたせいだろう。覗いたのは、他でもない私なのだが。
いつもであれば徒歩十分もあれば到着する距離を私は三十分以上かけて歩く。喉が締まり、とても息苦しい。それに、酸欠だろうか、頭もくらくらする。本当は帰りたくない。帰りたくない。帰りたくないのだ。
だが、無情にも私は自分の家に行きついてしまう。二階建て一軒家であり、私が物心ついた時から住んでいる家である。昔、父親の本を覗き込んだ時、父親がどれだけ苦労してこの家を手に入れたのか知ってしまった。そんな自分の家。
なのに、今そんな自分の家がとてつもなく怖い。
だって、二人とも、この家をラブホテルにしていたんだもの。
吐き気を催しながらも、私は玄関のドアを開く。経年劣化のためか、蝶番がきぃと音が玄関に鳴り響く。玄関は真っ暗であり、近くで爛々と輝いている街灯の光が窓からほんの少しだけ入っているくらいだった。すると、直後に玄関が明るくなる。眩しくて、思わず目を瞑る。
「恵里衣!! お前、こんな時間まで何をしていたんだ!?」
そう声を張り上げたのは、父親だった。先程記憶を覗いてしまった時と全く同じ格好をしている。上下灰色のスウェットであり、秋口から春頃までは大体この格好である。
「お父さん心配したんだぞ!? もちろん、お母さんも!!」
そう言って、父親が身を退けるとそこには、ずっと泣いていたのだろう、瞼を腫らした母親の姿があった。しかし、そんな母親の姿を見ても、私は全くと言ってもいいほど感情が動かなかった。
むしろ、なんでお前が泣いているんだよ。
そんなことまで考えてしまっていた。
「ごめん。ちょっと、一人で整理したいことがあったから」
そう言って、二階にある自分の部屋へ避難しようとした。しかし、それを父親の腕によって防がれる。父親の顔は険しく、真剣そのものだ。
「恵里衣!! まだ話は終わっていないんだ!! ちゃんとした理由を説明してくれ!!」
父親は憤怒の表情を浮かべ私に向かってそう言う。その表情が、その姿が、とても醜くて。
「恵里衣、お前、何か隠し事しているんじゃないのか!? 最近は危ない事件だって……」
「隠し事をしているのは……」
歯を食いしばる。感情が溢れる。黒い想いが噴き出る。きっと私の本のページは殴り書きでインク染みだらけになってしまっているだろう。ただただ、怒りが溢れ、憎しみが漏れだす。
「隠し事してんのはあんたらじゃないかッッ!! ふざけんなよ!!」
そう言って、私は父親の腕を跳ねのける。父親は何事かを叫んでいたが、それ以上追ってくることはなかった。
私は自室に入り、ドアのカギを閉める。入ってこられたらたまったもんじゃない。そして、ベッドに入り、掛け布団をかぶる。部屋の中にスマートフォンがあるはずなのだが、とても覗く気にはならない。私は一人、ベッドの中で丸まっていた。
もう、誰も信用できない。
翌朝。私は一睡もできずに、朝の光に目を細めていた。曇天の空模様。それでも、外が明るく感じる。
今日は学校であるため、私は外に出なくてはならない。だが、昨晩は風呂にも入らずに、家に帰ってきてしまっていたため、どことなく汗臭い。喉もカラカラで今にも倒れてしまいそう……だが、今の家で食事も風呂も入りたくない。居間に入ることで家族と顔を合わせるのは本当に嫌だ。
そこで私は友人にスマートフォンの通話アプリでSOSを出すことにした。現在時刻は朝の五時。運動部の友人はもう起きている時間帯だった。
『緊急。風呂と水、求む』
『なになに? どうしたんだ?』
『親とこっぴどく喧嘩した。おかげで風呂も入れなかったし、水も飲めてない』
『あっちゃー……。水泳部のシャワー室借りる? 私の伝手でいけると思うけど』
『お願いしていい?』
『りょーかい。じゃあ、今日昼ごはん恵里衣のおごりね』
『うん。おごってあげる』
『よっしゃ』
私は起き上がり、スマートフォンの充電を始める。残り20%。今日一日持たせるにも限度がある。普段使っているモバイルバッテリーを確かめてみると、残量は最大。これなら、一日は余裕でもつか。
次に、制服を確認する。新しいワイシャツや靴下や下着などを用意し、ナップザックの中に詰め、さらに学生鞄に突っ込む。洗濯は最悪帰ってきてからコインランドリーに詰め込めば良い。
……ってそう言えば、カーディガン、小夜に渡しっぱなしだった。まいっか。新しいものを買えばいい。
軽く、デオドラントスプレーや汗拭きシートで全身を綺麗にして、私はゆっくりとドアを開き、廊下を見渡す。どうやら、そこには誰もいないらしい。音を立てないように抜き足差し足で移動を試みる。なんだか、泥棒になっているような気分だった。
そして、音もたてずに、階段を降りきり、自分用の自宅の鍵を引っ掴み、そのまま外へと駆け出す。何とか家族と出会うことなく、外に出ることができた。まさか家族がこんなに恐怖の対象になるなんて、思いもしなかった。
「で、家族と何があったのか聞いて良いか?」
昼休み。
教室でそう声を掛けてきたのは、私が助けを求めた友人。魚住由香だった。今日は彼女のおかげで乙女としての体裁を保つことができた。
「聞かないでほしい。かな、まだ踏ん切りがついてない」
「へー。りょーかい。ん~~~カレーパンうんめ」
そう言って、彼女はカレーパンを目一杯頬張る。そのカレーパンは私がお礼として奢ったものの一つである。
「でもびっくりしたよ。急に助けを求めてくるし」
「……まぁ、あんときは本当に慌てていたし」
「みたいだな。結構私ら長い付き合いだけど、あそこまで取り乱していたの初めてだったし。まぐっ」
そう言って、彼女はカレーパンをまた一口頬張る。こうして見てみると、何も悩みがないような人間に見える。……天真爛漫にふるまっていても、このクラスで一番闇が深い子だから、人間ってのはまた恐ろしい。
「んで、これからどうする? まさか毎日外でシャワーとかするわけにはいかないだろ。私の元部長パワーも限界はあるだろうし」
男の子のように短い髪の毛を掻きながら、由香はそんなことを言う。
確かに、対策しないと、どうにも立ち行けない……か。
「私もわかってんだ。両親とのわだかまりを解決するのが一番手っ取り早いんだよ」
「ほう? ほうほう?」
「でもそれができたら、多分私は今頃学生をしてない」
「まじか」
由香は適当に返事しているように見えるが、目線は私のことを観察しまくっている。どこかに異常がないか、とか、どこかに傷がないか、とかを探っているのだろう。
「残念ながら、傷はないよ。表にはね」
「あ、『本』読んだ?」
「読んでないよ。その素振りもなかったでしょ。でも目線が私ことを探ってた」
「えへ。まぁねぇ。バレバレだったか」
「うん。バレバレ」
そんな会話を交わしながらも、比較的平和な昼休みを過ごす。
こんなにも放課後が待ち遠しくない日が来るなんて思ってもいなかった。
帰り道。非常に重たい足を引きずりながら、私は帰路についていた。結局答えは出ず、ただただトボトボと歩く他なかった。やけくそ気味に、何度か自分の本を壁に向かって投げつけたりしていたが、すぐに奇異の目にさらされたのだ、やめた。
そして、いつも通り公園に差し掛かった時、昨日長時間泣いていたベンチに誰かがベンチの上で立っている。姿形から見るに、小さい子なのは確かなのだが……。最近の親の教育はどうなっているんだ……と、らしくもないことを考えながら横をすり抜けようとした時。
「お姉さん」
そう呼ばれたのだ。
何事かと顔を上げると、そこには……。
「サヨ?」
昨日、送り届けたはずのサヨがベンチの上に立っていた。私を見つけるなり、ベンチから飛び降りると、「ふんっ」と鼻息を漏らしながら、何かを待っている。
……一体何を期待しているのか? 私は混乱したまま、咄嗟にサヨの本を手に取る。昨日に比べれば分厚くなった大学ノートを開き、中身を見てみる。すると……。
『昨日のお姉さんに会えた。とても嬉しい』
「ほっこりしちゃうじゃん……」
思わずそんな言葉が漏れる。すると、ノートに黒が走ると同時に。
『ほっこり?』
「ほっこり?」
とサヨは声を出す。思考とノートの動きが連動しているみたいだ。
「えっと。安心しただけ」
『安心?』
「安心?」
「そう、安心」
私がそう言うと、サヨはくるくる~っとその場で回転し、決めポーズ? をする。
『お姉さんの役に立てた』
「ぶい」
無表情ながらも、どこか得意げな表情をしている。本を読んでいるせいもあるのだろうが、この子、案外表情豊かなのでは?
しかし、それも束の間、サヨの表情が少しだけ曇る。どうしたものかと、本に目を落とすと、黒が走り、こんなことが書かれていた。
『でもお姉さん、昨日からずっと寂しそう。私の心の本を読んでいるから?』
その文章に私は心臓を鷲掴みされたような感覚を覚えた。私はこの子に、『本』のことについては一度も言及していない。それどころか、『心を読んでいる』のみならず、『心の本』とまで断定されてしまっている。
私は慌てふためき、困惑する。まずい、嫌われる。咄嗟にそんなことを考えてしまったが、さらに黒が走りこんなことが書かれていた。
『また困らせてしまった。パパもママも言っていたけど、やっぱり私は手間が掛かる悪い子なのかな』
「違う!!」
思わず私は叫んでしまっていた。目の前の女の子は確かに無表情だが、確かに傷ついていた。その事実がたまらなく嫌だった。
「サヨ……ちゃん? は悪くない。私の、私の問題だから」
そう言って、私は恐る恐るサヨの頭を撫でる。すると、心地よさそうに目を閉じ、サヨは受け入れてくれた。ノートに目を落とすと。
『良かった。でも良くない。お姉さんが苦しんでる。でも気持ちいい』
と書かれていた。そんな文章に私は笑みが零れた。
「嬉しかったら嬉しいって言っていいんだよ? 少なくとも私の前では」
私がそう言うと、サヨは無表情のままうなずき。
『わかった』
「わかった」
と文章と言葉で返した。
私はそんな彼女がとても眩しくて、照れ隠しで勢いよく頭を撫でてしまった。
『世界が回る。お姉さんが世界を回してる。こりゃ天動説も揺るぎない』
「おー」
なんていうか、この子……独特だな。
すると、再び、ノートに黒が走り、文章を紡ぐ。そこには……。
『お姉さんとお喋りしたい』
と書かれている。私は頭を撫でるのをやめ、サヨへと向き合った。
「そっか、うーん……何を話したい? なんでもいいよ?」
私がそう言うと、サヨは喜んでいるのか、ぴょこぴょこ飛びながら、こう言った。
「天気と気温について」
「理科のお勉強かな?」
ふと、気が付くと、時は夕方。
空は、橙色に染まり、スマートフォンを確認すると、もうすぐ十七時といったところだった。私の門限……というか怒られる時間まではまだまだ余裕があるものの、サヨ……もとい小夜の両親が心配してしまうかもしれない。私は、小夜の本を元に戻し、立ち上がる。
「そろそろ帰ろうか。おうちまで送ってく?」
私がそう尋ねると、大きく小夜は大きくうなずく。……相変わらず無表情だが。
「お姉さん」
そう小夜に呼ばれ、じーっと顔を見つめられる。ノートに目を落とそうとしたが……しまった、本を元に戻してしまったんだった。何を考えているのか、悟りづらい。
何とかして小夜の表情を読み解かなくては。えーっと何だ?
うん、驚くほど無表情!! 前後の文脈なんてあってないようなものだし……ええいままよ。
「さ、小夜と一緒で、た、たのしかった、よ?」
「…………大体、合ってる」
そう言って、再び決めポーズ? を取る小夜。その姿は確かに可愛らしいんだけど、なんで決めポーズ?
「お姉さん。また明日も」
お話しても良いかな? 何となく、小夜がそう言っているように聞こえてた。私は迷わず頷き。
「うん、約束」
そう言って、指切りをした。
小夜の家に小夜を送り届け、私は再び帰路についていた。十九時までには家につけることだろう。しかし……小夜の母親は私に向かってまたお礼を言っていたのだが、なーんか違和感を感じるのだ。何て言うのか……体裁ばかりを気にしている? そんな気がする。
私は歩きながら、溜息をつく。たくさんの人間の本を読んでしまった弊害として、何となくだが、その人間の『違和感』について、敏感になってしまった。感覚的な問題にはなるのだが、行動と表情と感情に齟齬があり、違和感を感じるのだ。
だからと言って、本を読まない限り、断定はできないし、他人の本を読もうだなんて、とても思えない。……自分の両親ですら、あんな有様なのだ。
とは言っているものの、小夜の本はバンバン読んでしまっているが。
「小夜は、ほら、読まないと、わからないから」
私は私に向かってそう言い訳をする。言い訳をせざるを得なかった。
小夜の家から歩いて十分ほど、昨日よりかは早く帰った自宅。玄関の電気はついていなかった。良かったと小さくため息をついて、私は家の中に入る。今日は両親に止められることなく、自室に帰ることができた。
自室戻り、バッグをぶん投げ、ベッドに腰を掛けると、学習机の上にメモが乗っかっているのを見つける。
『
恵里衣へ。
恵里衣が何について怒っているのか、お父さんもお母さんも見当もつきません。
仲直り……は難しいかもしれませんが、どうか、食事だけはしてほしいです。
私たちは朝の七時と、夜八時に食事を取ります。
気が向いたら、一緒に食事ができたらなと考えています。
お父さんとお母さんより
』
私はその紙を引きちぎりそうになった。『何について怒っているのか、お父さんもお母さんも見当もつきません』だ?
「ふざけんな……っ」
私は小さく小さくそう零し、メモを投げ捨てる。メモはひらひらと舞い、地面へと落ちる。拾う気にもなれなかった。
最悪っ最悪っ最悪っ!!
私は、最悪な気分のまま、自室の鍵を閉め、ベッドにもぐりこむ。目覚まし時計を朝の四時にセットして、瞼を閉じる。
何も食べたくないし、両親と顔を合わせる確率をできるだけ低くしたい。寝転がってしばらくはイライラが勝っていたが、そのうちにイライラが霧散したのか、ウトウトしはじめる。
そういえば、昨日も寝てなかったんだっけ。
心は疲弊しきっても、睡眠を取ろうとする健康体な体に少しだけ驚く。そして、意識が途切れる直前。黒髪の幼女の姿が頭の中に浮かぶ。
……小夜に会いたいな。
そう考えているうちに、眠りについた。
つづく
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