第8話 夕焼けのエンプレス

1

 元日。とは言え外界からの情報に触れなければ、単にまた新たな一日が始まったに過ぎない。めくる紙が無くなったカレンダーを見て、あゆみはそう思った。

 トゥインクル学園学生寮に残っている生徒はほとんどおらず、かすかな物音ですら廊下に大きく響く。あゆみはベッドの上で、スウェットの上下を着替えようともせず天井を眺めていた。

 奏は、祖父である光一郎からのコールに根負けしてオオサカへ。たまおとたくみもカナガワ内の実家へ戻った。ルナは志乃ぶに誘われ、川崎邸に泊まって年越しをすると告げ、弾むような足取りで寮から出て行った。


「あたしも、行っとけばよかったかな」


 ひとりごちて、枕に顔を押し付ける。

でも、今はパパに会いたくない、いや、会えない、と心で言った。

グランプリ復帰初シーズンを期待はずれの成績で終えたヤムラは、ヨーロッパに構えた前線基地でパワーユニットが抱える問題の洗い出し、さらにはマケラレーンチームとのコミュニケーションを円滑にすべく連日、泊まり込みの開発作業を進めていた。パワーユニットの開発を統括している涼川みのるは、当然のことながら日本に帰ることもかなわず、現地で年を越すことになった。あゆみの母親はみのるを心配し、クリスマスの日にヨーロッパへ渡った。あゆみも同行を打診されたが、《ミニ四駆選手権》の準備を理由にして断ってしまった。

……サーキットのスタッフも、ワシらも最善は尽くしたが、瀬名は「いのち」を失ってしまった……

 光一郎の言葉が思い出される。父親がプロジェクトリーダーを務めて作り出されたハイパーカー《ライキリ》。その性能は人間

が操れる限界を超え、結果としてテストドライバーの「いのち」を奪った。


「それが……瀬名さんのお父さん……」


あゆみは頭を掻きむしった。レーシングカーのエンジニアとして目標としていた父親が、かつて、人の命にかかわる事故を起こし、それにも関わらずその仕事を続けているということ。その意味するところ、重みにあゆみは苦しんでいた。

そして、その場に自分と、アイリーンがいたという事実。記憶から抜け落ちたのか、受けた衝撃をかき消そうとしたからなのか、とにかく、事故の記憶はまったくない。

 《ミニ四駆選手権》が始まってから、アイリーンとは二度顔を合わせた。その二度とも、何か言いたそうな、だが言えない、といった雰囲気だったことを、あゆみは思い出す。おそらく、アイリーンは一連の出来事を知っているのだろう。自分の父親の「いのち」を奪った、忌まわしい計画を仕切っていた男の娘が目の前にいるという事を、確かに認識しているのだろう。

あゆみはベッドの上で足をバタバタと上下させる。


「だからって言ったって!」


 いま自分にできることが、何かあるわけでもない。思考はそこでずっとループしている。その先に、何か明確な答えがある訳ではないということはわかっている。だからと言って自分は関係ないと知らんぷりをすることもできなかった。

 窓から差し込んでくる日差しは仄かに暖かく、カーテンの隙間から部屋に入り込む。ほこりっぽい部屋の中に、光の帯が描かれる。その先にある時計の時針はすでに上向きの角度を取り始めていた。


「ちょっと、外の空気すってこよう」


 あゆみは、格闘技の受け身よろしく両手をベッドにたたきつけ、その反動で身体を起こした。部屋の中のほこりが一層舞い散って渦のような模様を描いた。


2


「あれっ、涼川さん」


 聞き覚えのある、ハスキーな声に呼び止められた。

初詣にも行く気にならず、かといって新年を祝うイベントに参加する気にもならず、フラフラと歩いていたあゆみは、「ホビーショップ《インジャン・ジョー》」の店頭にいた。ショーケースに飾られたフィギュアを見ていた時、その声は聞こえた。


「エンプレス!」


 見上げた先に、浅黒い肌の笑顔があった。


「もう、その呼び方はやめてよ」

「いやあ、あたしにとっては赤井さんっていうよりは、やっぱりエンプレスですよ」

「うーん、まあいいわ」


 浮かべた柔和な表情は、サーキットでは見たことがない。少女は《エリア最強チューナー》と呼ばれ、あゆみの前に立ちはだかり、「ミニ四駆部」の設立の時、そして《ミニ四駆選手権》の地区予選、それぞれで高い壁となった。女帝(エンプレス)の二つ名をもつ少女、赤井秀美。


「それにしても、元日からここにくるとは、やっぱり涼川さんも研究熱心ね」

「いえいえ、別に何というか、やることもなくて、でも閉じこもっててもなんだかもったいないって思ったら、ここに来ちゃいました」

「へえ、やっぱり」


 秀美は店内に向けて一歩進んでから振り返った。


「私も一緒よ」

「エンプレス……」


 二人は店内を物色し、店長がすすめてくる福袋は買わずに、店頭に残っていた限定品を買い足した。ミニ四駆のキットやパーツに囲まれて、秀美と話している間は、余計なことを考えないでいいと、あゆみは思った。そのままの流れで、二人は近くのファストフード店に腰を落ち着けた。


「まずは、決勝進出、おめでとう」

「ありがとうございます」

「ネットで見てたけど、ヒヤヒヤだったね……まあ、どのレースも見ていて正直、安心できなかったわ」

「それは……すみません」

「でも、レースは結果がすべてだからね。勝ったチームが強くて、勝てなかったチームは何かが足りなかった。私たちも……《スクーデリア・ミッレミリア》も、そうだったから」

「あ……」


 秀美の瞳に、僅かではあるが影が差す。あゆみは、かける言葉を失った。店内に響く有線放送の音楽が、思考の邪魔をしてくる。まとわりつくものを振り払おうと、テーブルに置かれた飲料のストローをくわえた。


「涼川さん、気にしないで。もう終わったことだから。何もかも、決着がついた。私にとって思い残すことは何もない」

「何もない……って」

「三年生だしね。部活は引退したし、卒業も近いわ。もうミニ四駆の事だけ考えているわけにはいかないってこと」


 卒業、という言葉を聞いて、あゆみは手にした紙コップを落としそうになった。今までまったく意識していなかった単語に、あゆみの思考はますます乱れる。


「卒業……そうですよね……」

「去年のジャパンカップ、それと《ミニ四駆選手権》。それが、私にとっての集大成で、ゴールだった。結果はもちろん、二つとも、納得できるものじゃなかったけど」

「それじゃあ、まだ」

「でも、もうジュニアクラスでは戦えない。オープンクラス。そう、オープンっていう場所でやってかないといけなくなるのよ」

「オープン……そっか、もう、大人と一緒ってことですね」

「実感はないけどね。でも、周りからはそう見られるっていうこと」

「なんか……あたしにはまだ、想像もできないです」


 あゆみは目を伏せた。知らずに漏れた溜息の音は、秀美の耳にも届いていた。


「悩んでるみたいね」

「えっ……、いや、別に、あたしは、そんな」


 跳び起きるように顔を上げ、顔の前で両手をぶんぶんと振る。秀美が、口元に手を置きながら笑った。


「涼川さんって、本当におもしろいわね」

「はぁ」

「大丈夫よ、あなたは十分に強いわ」

「それって、どういう意味ですか」

「そのままの意味よ。涼川さんは戦える。何も心配はいらないわ」



3

 三学期が始まった。

 元日から三日、五日、と数えて、気が付けば一週間が過ぎていた。 

始業式を終えて、教室に続く廊下を歩いていても、足元がふわふわするような感覚が抜けない。何かに悩んでいるはずだが、何に悩んでいるのかもよくわからない。あゆみの頭の中で、そんな状態がずっと続いている。


「涼川さん」

「わっ」


 不意に背中をたたかれて、あゆみはびくっ、と全身を震わせた。


「会長」

「大丈夫? お正月で緩み切っちゃった?」


 眼鏡の奥で、奏の瞳が鋭い光を帯びている。


「いや、別に……」

「ならいいけど。今日、初日だけど部活やるわよ。《財団》から重要な連絡が届いたから。みんなで話し合いたいの」

「重要な連絡? 何なんですか?」

「その時話すわ。私ひとりで決められない問題だから。じゃ、後でね」


 肩をポン、と叩いて奏は小走りに去っていった。その、やわらかさを帯びた後ろ姿を見て、あゆみは、奏も三年生なのだ、ということに気付いた。


 ミニ四駆部室、と称した生徒会室に、「すーぱーあゆみんミニ四チーム」の五人が集まった。冬休みを挟んで、このメンバーで顔を合わせるのは初めてだったが、私語もなく、重い静けさが室内を支配していた。


「急に呼び出して、ごめんなさい」


 全員の顔を見渡してから、奏が言った。


「いえ、お気になさらず」


 ルナが一礼する。


「もったいつけないで早く言ってくださいよ~。もう何言われるか怖くて…」

「たくみ、別に怒られるって決まったわけじゃないじゃない」

「そう言ったってさ、ちょっとさ……」

「はい、これから話すから」


 はしゃぐたくみを、奏が制した。あゆみは、ジャケットごと袖まくりして、ぐっと腕を組んでいる。

 奏が、クリアファイルに挟まれた紙を取り出し、咳払いしてから口を開いた。


「昨日、《ミニ四駆選手権》を主宰する《財団》から、決勝レースの進め方について連絡がありました。今日はその内容を話しておきたくて、急だけど集まってもらいました」

「なんだ……」


 たくみが大きくため息をつく。


「日付は、前に知らせた通り、今月末の土曜と日曜、二日間で行われます。会場は調整中となっていたけど、決まりました。トーキョー、アキバドームです」

「あの、野球とかやる」


 たまおが、つぶやくように言う。


「そう。で、大会の形式は二十四時間耐久レースって告知されてたけど、私たちの体調を考慮し、連続してではなく2ヒートに分けて行うことにしたとのことです」

「2ヒート制って、グランプリで赤旗中断になったときに取られる、タイムを合算して順位を決める方式ですか?」


 ルナが、実車のレースの知識を自然に披露する。奏はうなずいて、言葉を続ける。


「ただ、本物のクルマとちがって《バーサス》のレースはバーチャルで行われているから、後半のスタート時にはすべてのマシンのタイム差、位置関係はキープされるって書いてある。だから見た目と実際の順位は変わらない。要するに、二十四時間レースの途中で、休憩が入るって感じね」


 奏は一度、紙から目を上げてメンバーを見渡す。全員が、続いて公表されるであろう言葉を待っている。


「……とまあ、この辺はわざわざ言うまでもないわね」


 とりつくろいながら、二枚目の紙を取り出す。


「そして、ここからが問題です。出場するのは先月までの予選ラウンドを勝ち上がった一〇チームですが、出走するマシンは、一チームあたり二台にして欲しいとのことです」

「へえっ……!」


 あゆみが驚きの声をあげる。


「じゃあ、会長、どうする? 誰のマシンを使う?」

「涼川さん、まだ焦るには早いわよ。まだもう一つ、特別ルールが発表されてるの」

「特別ルール?」

「ここまで地区大会、そして全国大会の予選ラウンドと、一チーム五人までっていうルールで行われてきました。ただ、今回一チーム二台ということになると、どうしても一台のマシンにとりかかる人数に偏りが出ます」

「奇数だからね」

「常識」


 たくみとたまおが間髪おかずに言う。奏は軽く笑いながら、言葉をつづけた。


「その通り。で、その偏りをなくすために、各地区の大会に出場した選手から一名を特別枠として選手に加えて一チーム六人にすることができる、とのことです」

「六人?」


 あゆみが怪訝な表情で聞き返す。


「じゃあ、学校内でミニ四駆やってる人さがします? ちょっとあたしの周りだとルナちゃん以外に心当たりないな……」

「涼川さん、そうじゃないの。私たちの学校からじゃなくて、《各地区の大会に出場した選手から》って書いてある」

「それって……」

「そう、カナガワエリア内ならどの学校でもいいってこと。どういう事だか、わかるわよね?」

「まさか」


 奏がやおら立ち上がり、こぶしを握り締めた。


「そう、ここは、あいつ一人しかいないでしょう!」




「それで、私ってわけ?」


 秀美は、ブラックコーヒーの入った紙コップに口を付けた。ファストフード店のテーブルにぎっしりと、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のメンバーが詰めかけている。


「選べる中で、やっぱりあなたが適任だと思って」


 正面に座った奏が、身を乗り出す。あゆみ、ルナ、たまお、たくみの四人は隣のテーブルから戦況を見つめている。


「適任? であればもっと適任の娘がいるだろう。たとえば……藤沢は、そっちの兄弟とは、うまくやってるみたいだし」

「兄弟じゃない! 姉妹です!」

「たくみ、突っ込むところ、そこじゃない」


 ふたりのやり取りを横目で見て、秀美は笑う。その姿に、奏は眉根を寄せる。


「ほかにも川崎さんや小田原さん、いいチューナーがたくさんいる。何も、地区予選でほとんどリタイヤした人間を引っ張り出してくることは、あるまい」

「でも!」


 あゆみが思わず声をあげる。一瞬、店内が静まり返る。あゆみが顔を赤くするのに反比例して、また何事もなかったかのように話し声が響きだす。あたりを見回し、小声で続ける。


「でも、エンプレスには経験っていう武器があるじゃないですか。瀬名さんや、去年の表彰台メンバー、それに羽根木さんも。みんな、あたしたちよりも、エンプレスを見てますよ」

「買いかぶりすぎだ」


 秀美は薄笑いを浮かべながら目を伏せる。自嘲めいたその表情を見て、あゆみは歯噛みする。暴発しそうな気配を察して、ルナが肩口に触れる。あゆみは一つ、息をついた。


「引き受けては、くれないのね」


 奏が力なく言う。


「すまないけど、その通りよ。これは、私のっていうよりも、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のためを考えての事。仮に私が加わったところで、お荷物にしかならないよ」


 秀美が席を立つ。


「あっ、まだ話は」

「終わっただろう? 何を言われても、私の考えが変わることはない。ここであなたたちが時間を無駄に費やすことはないわ」

「そんな、だって」

「たしか奏、おごってくれるって話だったわよね。ごちそうさま」

「秀美!」


 奏の声に振り向くことなく、秀美は立ち去っていく。奏は立ち上がるが、遠ざかる背中は、追いかけることを頑なに拒絶しているように見える。奏は、力なく腰を下ろした。


「くーっ、だめか……」

「決意は固い」


 緊張してちぢこまっていた、たくみとたまおが深いため息をつく。


「そうかしら?」


 ルナが平然と放った言葉に、奏が文字通り飛びついて、きゃしゃな両肩をぐわしとつかんだ。


「ど、どうしてそう思う?」

「あの、会長……」

「そう思った理由があるんでしょ?」

「ありますけど、ちょっと、落ち着きましょう……」

「わっ、ごめんね」


 手を放す。ルナの肩口に、奏の手汗がしみ込んだしわが出来た。苦笑しながらルナが言う。


「本当に引き受けたくなかったら、今日、この場には来ていないはずですよ。会長が呼び出した時点で、私たちがどういう話をするかは想像できていたはずです。それでも、エンプレスはやってきました。だから……」

「もう一押しってこと?」


 言葉に詰まるルナに、あゆみが尋ねる。


「そうだと思うのですが、ここから先は、私たちでは、わからない部分です」

「わからない部分?」


 奏が頬に手を当てる。


「会長とエンプレスは、私たちがチームを結成するずっと前からのお付き合いと伺っています。お二方でないと通じないものがきっとあるんじゃないかと」

「私と、秀美ねぇ……」


 秀美はすでに店外に出た。雑沓の中、その姿を見つけることはもう出来ない。


「わかった。もう一度、話してみる」


 奏は頬から手をはなし、ぐっと握り締めた。


5

 夕陽が入り込むマラネロ女学院の教室に、秀美は一人たたずんでいた。

すでに代替わりした《スクーデリア・ミッレミリア》こと「ミニ四駆レーシング部」に顔を出し、いくつかコメントを残してから帰る。それが秀美のルーティンになっていた。セッティングや戦略について語り、ハイスピードで流れる《バーサス》の映像を見ていると、自身もマシンを取り出したい誘惑にかられるが、それは自身が禁じ手とした事だった。

 バッグに教科書やノートを詰めてしまえば、この場にとどまっている理由はない。秀美が教室を出ようとしたとき、勢いよくドアが開いた。


「こっちに、いたのね」

「奏……」


 明らかにデザインの異なる制服が、見慣れた教室の中で異質な存在感を出している。不意をつかれて秀美は目を見開いた。


「何で、この学校に奏がいる?」

「生徒会の、交流行事の一環としてね。きちんと学校を経由して話は通してあるから。勝手に入ったんじゃない。安心して」

「そこまでするとは大した覚悟ね。だとしても、別にもう、話すことはない」

「待って!」


 脇をすり抜けて立ち去ろうとする秀美を、奏は体で止めた。髪が揺れ、秀美の顔を撫でて広がる。秀美は足を止めた。


「何を」

「秀美、やっぱり、私考えたの」


 近づいた距離を適度に保とうと、奏は一歩後ろに下がる。


「今度の全国決勝レース、私たちの実力じゃ勝てない。絶対に勝てない。完走できればいい方かなって正直思ってる」


 伏し目がちに語る奏を、秀美は黙って見つめている。無言の時間に押されるように、奏は言葉をつづける。


「勝つことがすべてじゃない。それぞれが実力を発揮して、レースのすばらしさを分かち合う場なのはわかってる。でも、それでも、やっぱり出るからには勝ちたい。そう思うの。

 甘いかも知れない。身の程知らずかも知れない。決勝を経験してるあなたに比べれば、全然、何もかも足りないってことはとっくにわかってる」


 一気にまくし立てて、奏はむせる。秀美は無言で一歩踏み出す。秀美の端正な顔立ちが目の前に迫り、奏は慌てて距離を置く。


「どうした? 続けてよ」


秀美が穏やかに、しかし威圧感を持って言う。


「わかってるけど、やれることは全部やりたい。妥協なんてしたくない。私には、あなたみたいな技術も、閃きも、人を引き付けるものも、何にもないけど、でも、今回は絶対に逃がせないチャンスだから……」


 奏が言葉に詰まる。秀美の背後から夕陽は深く差し込んで、逆光の中、表情が読み取りづらくなってくる。


「変わったわね」

「え?」

「変わったわ。奏と最後にレースをやって、あなたが負けて、ミニ四駆をやめたあの日から比べると、本当に」

「それは……」

「あの娘が、奏を変えたのね。涼川あゆみが」

「えっ、いや」


 否定の言葉は、もう一歩踏み出した秀美の迫力に負けて口に出せなかった。奏は足を後ろに伸ばすが、廊下側の壁に阻まれる。背中が壁に着く。秀美は、奏の顔をかすめるように手を伸ばし、壁に着いた。鈍い音がして、掲示物が揺れた。


「やれることは全部やるって言ったわよね」

「くっ……」


 秀美の口元から漏れる息が、奏の前髪を揺らし、眼鏡のレンズを曇らせる。目を背けそうになるが、奏は正面を向く。


「やるわ。それで秀美が参加してくれるなら、何でもやるわよ」

「そう」


 秀美が自分に、友人とは違う感情を抱いていることは、理解していた。それが冗談でないことは、秀美がトゥインクル学園を訪れ、あゆみと《バーサス》でのレースをしたときに改めて思い知った。

受け入れるつもりは毛頭ない。奏はそう思いながらも、それ以外に方法がないという結論にたどり着いていた。

 秀美との距離が限りなくゼロに近づく。胸の鼓動が、早まる血流の音が聞こえてしまいそうだった。奏は目を閉じる。


「妬けるわね」


 その言葉と同時に、奏の額に熱い点ができた。そして、秀美の気配が遠ざかるのを感じて、瞳を開く。


「秀美……」

「そこまでされちゃ。……悔しいけどね」


 穏やかな微笑を浮かべた秀美は、無言でひとつ、うなずいた。


「いいよ、やるよ」

「えっ」


 予想していなかった言葉に、奏は言葉を失う。


「優勝したら、改めて、今の続きをやらせてもらうよ」

「なっ……」


 ただでさえ赤くなった奏の顔が、黒さを帯びるほどに赤くなる。


「ただ、《スクーデリア》の後輩たちに納得してもらわないと。部活のOGっていう私の立場があるから」

「どうすればいい? 私から、今の人たちに説明して、きちんとお願いする?」

「それじゃ、逆効果よ」


 今度こそ、秀美は奏の脇をすり抜け、教室のドアを開け放した。


「レースをやろう。それが一番の方法だ」



6

 奏がマラネロ女学院を訪れてから一週間後。体育館には、学年を問わず多くの生徒がぎっしりと詰めかけていた。あゆみは、その様子を舞台袖から覗き見て、あまりの熱気に慌てて顔を引っ込める。


「ひゃー……やっぱりエンプレスの人気ってすっごいですね」


 となりにいる奏に声をかけた、つもりだったが答えはない。


「会長?」


 振り向くと、奏の視線は定まらず、どこから見ても緊張しているのが伝わってくる。


「会長!」

「わっ、何?」


 軽く肩をたたくと、飛び上がらんばかりに体を震わせ、声をあげる。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないわよ、見ればわかるでしょ?」

「そりゃテンパってるのはわかりますけど、もうすぐ勝負は始まるんですから」

「ねえ、そういう、人を追いつめるようなことは言わないでよ」


 奏がじたばたしているのをよそに、司会進行役であろう、マイクを持った生徒がステージに上がる。進んでいく先には、すでに二台の《バーサス》がスタンバイされ、正面のスクリーンには待機状態を示すロゴが躍っている。


「みなさん、大変長らくお待たせしました! これより、『赤井秀美十五歳、レースに負けたら全国大会に出ちゃうぞスペシャル』を開催いたします!」


 司会役の生徒の宣言に、体育館が揺れんばかりの歓声が沸き立つ。あゆみはあきれながら腕を組んだ。


「それでは早速、トゥインクル学園からいらっしゃった挑戦者、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のメンバーであり、同学園中等部の生徒会長でもある、この方をお呼びしましょう!

 恩田、奏さん!」

「ひっ!」


 奏が身を縮める。


「ほーら! 呼ばれましたよ」

「うー、うん、行ってきます……」


 奏はエアロアバンテを握って、ステージ中央へと歩いていく。ぎこちない動きに、あゆみは苦笑する他ない。


「今回は、恩田会長からエンプレスに、全国大会の特別枠での参加をもちかけたということですが、このレース、自信のほどはいかがでしょうか?」

「むっ、自信?」


 奏にマイクが向けられる。ざわついていた会場が、次の一言に備えて静まり返る。瞬間的に音が消えていく様子を目の当たりにして、奏の思考は完全に停止した。


「恩田さん?」

「がんばります!」


 笑い声に続いて、大きな拍手が起こる。もう一言言おうとする奏に目を向けることなく、司会の生徒はマイクを戻した。


「ありがとうございました!

 それでは迎え撃つ、われらがエンプレス、赤井秀美の入場です!」


 体育館のガラスが震え、亀裂を生じそうなほどの歓声が一気に巻き起こる。

 秀美は穏やかな笑顔を浮かべながら、軽く手を振って、ゆっくりとステージ中央にたどりついた。


「さあエンプレス、《ミニ四駆選手権》特別枠での参加をかけたレースということですが、エンプレスが勝った場合には一体どうなるんでしょうか?」


 頬に突き刺さらんばかりに、マイクが付きだされる。


「さあ……。まあ、好きにさせてもらいます」


 そっけない言葉に、体育館中からため息が漏れる。奏は顔を真っ赤にして完全に固まってしまった。


「あーあ。心理戦じゃエンプレスが五万枚くらい上だな」


 あゆみが頭をかきむしる。


「それでは、それぞれのマシンをセットして、《バーサス》にログインしてもらいましょう!」


 奏が、手から滑り落ちそうになるエアロアバンテをどうにか《バーサス》の筐体にセットする。秀美の方を見やると、真っ赤なカラーリングではあるが、見たことのないシルエットのボディが見えた。


「あれは……ニューマシン?」


 はっきり確かめる前に、ログインシークエンスが始まった。いそいそとバイザーを身に着けると、そこには決戦の舞台となるサーキットが広がっていた。


7

 赤井選手が選択したサーキットは、ポルトガルのクラシックコースである《エストリルサーキット》だった。

 全長千メートルに迫るホームストレート、大小さまざまなコーナーがバランスよく配されたレイアウトはマシンの総合力が問われる。一方で近代的なグランプリコースに比べるとランオフエリアが小さく、狭い。そのためコースアウトしてしまうと即タイヤバリアの餌食となり、レースへの復帰は難しい。限界を超えず、いかにして最大限のスピードを保つことができるか、が勝負の分かれ目となる。

 レース距離はグランプリレースの半分にあたる百五十キロ、三十七周に設定された。

 赤井選手と恩田選手はNPC(ノンプレイヤーキャラクター)二十二台を含む二十四台が出走するグリッドの最後列からスタート。相手より上位のポジションでゴールした側が勝者ということになった。



「秀美のマシン……FM?」


 ダミーグリッドについた深紅のマシン。ボディの中央部に細長いキャノピーが走り、それを核としたフレームがFMAシャーシを背骨のように支えている。その上に、空力効果を考慮したカウルが重なり合うように配置され、猛禽類を思わせる鋭いフォルムを形成している。


「そう、これが私のニューマシン、マッハフレームよ」

「秀美……」


 声が上ずるが、奏の呼びかけを断ち切るように秀美が言う。


「勘違いしないで。これは、このレースで勝つために、用意したのよ」


 奏に応える間を与えず、フォーメーションラップのスタートを告げるサイレンが響く。ノンプレーヤーの車両からグリッドを離れ、最後にマッハフレーム、そしてエアロアバンテがゆっくりと隊列に続いていく。

 終盤までは自由にレースを進め、残り三周で秀美が故意にスピン、奏と順位を入れ替えてゴールするというのが事前の取り決めだった。直接のバトルは避ける。あくまでエキシビジョンマッチだと。

 本当にうまくいくのだろうか。不安を捨てられない奏をよそに、フォーメーションラップは終わり、レッドシグナルが点灯した。

『シグナル、オールレッド! そして、ブラックアウト!』

 アナウンスととともに、すべてのマシンが走りだす。マッハフレームはFMマシンらしいスムーズな出足。一方でエアロアバンテのリヤホイールは空転し、白煙が上がる。一コーナーまでのストレート、ノンプレーヤーのマシン同士が接触してストレートをふさぐ。マッハフレームとエアロアバンテは左右に散ってクラッシュを回避、一コーナーをターンしていった。

 秀美はオープニングラップを十七位で終えると、ホームストレート、バックストレートで次々ノンプレーヤーをかわしていく。フロントに重心が偏るFMAシャーシは、急激なブレーキング時の安定性に優れる。他車よりも深いブレーキングポイントでイン側を奪い、絶妙なテールスライドで進路をふさぐ。絵にかいたようなオーバーテイクショーに、マラネロ女学院の生徒は沸き立つ。

 奏のエアロアバンテもそのペースに追いすがるが、タイム差はじりじりと開いていく。


「食いついていかないと……」


 奏は歯を食いしばるが、局面を打開する方法は見いだせない。余りにも秀美との差が開いてしまっては、シナリオの不自然さが際立つばかりだ。奏はタイヤに負担をかけないことに注意しながら、一台一台と丁寧にオーバーテイクしていく。

 五周を消化したところで、秀美は十二位、奏は十五位。その後方、最後尾を走っていたノンプレーヤーのマシンがピットに滑り込む。


「ん……どういうことだ」


 百五十キロのレース、タイヤは無理に交換する必要ないというのがセオリーである。人間が戦略に携わっていないマシンが、それから外れた動きをすることは現実的にあり得ない。秀美と奏は、自身のレースを進めながらも、ピットロードを進むマシンに注目していた。


「うわっと!」


 誰の者とも知れない声が、《バーサス》のシステムを通じて体育館に響き渡る。


「誰?」

「なんだ? 誰かが乱入したのか?」


 二人の呼びかけに答える声はない。一方でピットインしたマシンは、急ブレーキをかけてその場に止まった。舞い上がる白煙を押しのけるようにして、マシンはバックしてピットに収まる。


「何なんだ、一体……」


 ピットでマシンを後退させることは、重大な事故につながるため、実車でも《バーサス》でも禁止されている。その禁忌をおかす挙動に、あゆみは思わずステージに飛び出してスクリーンを見上げた。


「しゅーみー、なんだかお楽しみみたいだねぇ?」


 得体の知れぬ声と共に、ピットに収まったマシンはまるで脱皮するかのように変化し、マッスルカーのようなメタリックブルーのボディをまとっていた。


8


「ラウディーブル……万代尚子!」


 秀美が声を荒げる。


「その通り、ご名答! うれしいね、わたしのこと覚えててくれてさ」

「何を言う! 今は我々の大事なレースの途中だ、引っ込んでいろ!」

「あらー、連れないわね。でもガチでレースやるんだったら、外から入ってくれないように、設定とかちゃーんとしといてほしいわけよ」

「くっ、お前が勝手に入ってきたんだろう!」

「ん? よくわかんないけど、いっくよー」


 ピットボックスからラウディーブルが、派手なタイヤスモークを上げて発進する。ボンネット上のターボバルジが示す通り、ターボチャージャーを思わせる爆発的な加速で本コースに合流してきた。


「秀美! あれ、いったい何?」


 シナリオにない出来事に、奏は慌てる。マッハフレームとエアロアバンテはすでにトップテン圏内に入っている。一方レースに突然加わったラウディーブルは、最後尾から圧倒的なセクタータイムをたたき出しながら、先行するマシンに次々接近し、並ぶ間もなくオーバーテイクしていく。


「ノンプレーヤーのマシンが、あいつ……万代尚子に乗っ取られたらしい」

「ええっ? そんなことできるの?」

「乱入対戦を無効にしてはいたんだが、万代はその辺……よくはわからないが、突破するスキルを持っている。まさか、ここでのレースが目をつけられるとは思っていなかった……」

「どうする? 仕切りなおす?」


 不安げそうな奏の声を聞いて、秀美は口角をわずかに緩めた。久しく味わっていなかった、全身をつつくような感触が足元から這い上がってくる。


「大丈夫だ、このまま続けよう」

「そんな、だってラウディーブル、すごい勢いで来てるわよ?」

「平気さ。私なら……いや、私たちなら、あんな暴れ牛、返り討ちにしてやるさ」

「私、たち……うん、わかった」


 奏が一つ、大きくうなずいた。


「いいね、いいよー! そういう女の友情! 早くわたしも混ぜてほしいわ!」


 ノイズ交じりの尚子の声が、奏のインカムで不快に響いた。


 ラウディーブルは、前輪に荷重がかかるFMAシャーシの特性を活かして各コーナーをドリフト気味にこなしていく。大きく右に旋回する最終コーナー《パラボリカ》。セオリー通りならば、最短コースであるインを進み、ホームストレートで一気に加速するラインをとるところ、尚子はあえて大外を選び、激しくホイールスピンさせながらも前へとマシンを押し出していく。タイヤとマシンに負担の大きい走り方だが、短距離のレースであれば帳尻は合う。


「強引に見えて、意外と考えてやっているんだな……」


 三つに分割された画面の一つ、ラウディーブルを追うウインドウを見ながら、あゆみは独りごちた。

 そう評価したのもつかの間、青い車体が縁石をまたいでアウト側に振られる。舗装されたコースを飛び出し、敷き詰められた砂利を巻き上げる。明らかにタイムロスしているが、絶妙なマシンバランスで止まることなく走り続け、次のコーナーまでに本コースへ合流する。


「うーん、やっぱりただ強引なだけか?」


 あゆみは首をひねった。


 周回は進み、残りは五周となった。すでに秀美のマッハフレームはトップに立っている。その五秒後方、ノンプレーヤーのマシン一台を挟んで奏のエアロアバンテが三位を走行中。一方、最後尾からレースに割り込んだ尚子のラウディーブルは、中団のマシンをまとめてかわして四位にまで浮上していた。エアロアバンテまでのタイム差は三秒を切っている。

 予定していた順位交代のタイミングが近づいてくるが、後方から迫るラウディーブルの勢いは衰えない。秀美がどのようにして順位を交代してレースを終えるのか、追い上げてくるマシンをどのように処理すればいいのか、奏は状況を把握しきれていなかった。だが後ろから追い上げてくるマシンが誰のものであろうと、奏はすんなり通すつもりはなかった。


「ようやく追いついたよー。初めまして、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》の可愛いコちゃん!」

「ひっ!」


 悪寒が走る。得体の知れない恐怖に全身が震える。奏のコンディションにかかわらずエアロアバンテは走り続けているが、コントロールライン上での差は約一秒にまで縮まっている。


「ねえねえ、わたしがやりたいのはしゅーみーなんだよ、キミとやりあっても意味ないから、さっさとどいてくれる?」


 ホームストレートでラウディーブルが進路を鋭く内側に向ける。不意を突いた動きに、エアロアバンテのリアクションが一瞬、遅れる。


「ふ、ふざけないでよね!」


 奏の気合に応えるように、エアロアバンテがラウディーブルの前をふさぐ。リヤタイヤが、ラウディーブルのバンパーをかすめて火花が散る。ピットウォールに接さんばかりの大きなモーションに、ラウディーブルのペースが緩む。


「なんだよ、邪魔すんなよ!」

「邪魔してるのはどっちよ!」


 残り四周、エアロアバンテとラウディーブルの二台はコーナーごとにインとアウトを入れ替えながらコースを進んでいく。

 奏は、コース中間のバックストレートで二位を進んでいたノンプレーヤーをパス。ラウディーブルも同時のオーバーテイクを狙うが、ホイールスピンでタイムを失う。最終の高速コーナー《パラボリカ》で再び差は一秒以上に広がった。


「このまま逃げ切るわ! エアロアバンテ、ストラトモード6!」


《Copy.》


9

 残り三周。シナリオ通りであれば、この周回で秀美はスピンする。奏はその脇を通って先行、ゴール。タイミングは秀美に任せてある。後ろから迫るマシンがどうだろうと、秀美との取り決めを果たせれば問題ない。

 でも、本当にそれでいいのだろうか? ホームストレートの先に、マッハフレームの姿は見えない。今の時点での、秀美との実力差はこれほどまでにはっきりしている。それを、すでに合意が取れているとはいえ、故意に覆すということがあっていいのだろうか?

 奏の口から嗚咽が漏れる。実際にスピンを演じるのは秀美のはずだが、タブーを犯すことへの恐怖心が今更ながらにわいてくる。コントロールラインを過ぎて、一コーナーが近づいてくる。ひょっとしたら、もう秀美は仕掛けを始めているのだろうか? その時、私は……


「邪魔だぁっ!」

「えっ!」


 一コーナーを緩やかにターンしようとするエアロアバンテのインサイドを、ラウディーブルが突く。奏は、そのアクションを全く意識していなかった。リヤエンドにラウディーブルのバンパーが激突する。衝撃音が《バーサス》内、そして体育館中に響き渡る。

 二台の青いマシンが、もつれるようにコースを外れ、グラベルを横切っていく。


「おーい! お前、何すんだよ! ブル、ほら、しゅーみーを追いかけるぞ!」


《Negative.》

尚子の叱咤にも応えず、ラウディーブルはタイヤバリアに正面から突っ込み、動けない。その傍らには、リヤの部品を大きく破損したエアロアバンテが、うっすら白煙を上げながらスタックしていた。


「くっ……」


奏は顔を伏せた。本来このコースにいるはずのない、このレースにいてはならないマシンに接触し、リタイヤしてしまった。秀美が、自分と、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のために作った舞台は、漫然としたコーナリングのために台無しになってしまった。その後悔と情けなさが、奏の全身を包んでいた。

その間に秀美は、予定していたスピンをすることなく周回を続け、先頭でチェッカーを受けた。体育館にかけつたマラネロ女学院の生徒たちは大歓声を上げ、あゆみは緞帳をつかみながら唖然とするしかなかった。


「赤井さん、おめでとうございます!」


 司会の生徒が、打ちひしがれる奏などお構いなしに、マイクをもって秀美のもとへ駆け寄る。秀美は、ひったくるようにそのマイクを奪い、声を上げた。


「万代尚子! まだログインしているんだろう! 答えろ!」


 鬼気迫る秀美の声に、体育館中が静まり返る。奏もただならぬものを感じて顔を上げた。


「なーにー?」


 もう興味をうしなった、と言わんばかりの甘い声が響く。神経を逆なでされて、マイクを握る秀美の手に力が入る。


「よくも、私と奏の神聖な戦いをぶちこわしてくれたな! 万代、自分が何をしたのかわかってるんだろうな!」

「えー? 全然わかんないー。ていうか、そっちのエアロアバンテ遅すぎー、つまんないー」

「万代!」


 一喝。あゆみは、その迫力に押され、思わず一歩あとずさった。


「万代、お前のその態度が続くのも全国決勝のスタートまでだぞ! 私が、お前のそのひねくれた根性、サーキットで矯正してやるぞ! よく、覚えておけ!」

「ふっふーん、そうなんだー。じゃあ、楽しみにしてるねー。バイバーイ」


 尚子のログアウトを告げる効果音が響く。


「えーと、赤井さん、改めて……」


 予備のマイクを持ってきた司会の生徒が恐る恐る尋ねる。秀美は集まった生徒に向き直り、一歩踏み出して口を開いた。


「皆さん、応援して下さってありがとうございます。このレース、私が勝ったら、好きなようにさせてもらうって言った通り、《ミニ四駆選手権》には参加せず、まあ、何か考えさせてもらうつもりでした。」


 秀美が、マイクを一度口元から離す。


「秀美……」


 奏が、胸の前に手を置く。振り向いた秀美と目が合う。少し目を細めて、秀美は再びマイクを口に近づけた。


「ただ、今見ていただいた通り、本来このレースにいるはずのない、いてはならないチューナーによって、踏みにじられた想い、それを目にして、逃げるわけにはいきません」


 秀美の言葉に、館内がざわつく。舞台袖のあゆみが落ち着いていられず、ステージ上の奏のそばへ駆け寄った。奏は、すっと伸びた秀美の背中を見続けていた。


「私は、《ミニ四駆選手権》に、彼女たち《すーぱーあゆみんミニ四チーム》の、六人目のメンバーとして参加します。そして、レースの尊さ、チューナーの誇りを取り戻すために戦ってきます」


 歓声が上がった。

マイクを司会に戻してから、秀美は奏に向かい合う。


「そういうわけで、よろしく頼む」


 奏の肩に手を置いてから、秀美は舞台袖へと歩いていく。


「秀美!」


 奏は秀美を追う。


「エンプレスの参加表明が出たところで、今日のゲストとしてお越しいただいていた、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のキャプテンである涼川あゆみさんにもお話を伺いましょう!」

「え?」


 あゆみの前にマイクが突きだされる。全く予想していない展開に、あゆみの眼前が真っ白になる。その間に、秀美と奏はステージ上から姿を消していた。



「待って! 秀美!」


 舞台袖の暗がりの中、奏は呼んだ。秀美は立ち止まる。だが振り返ることはしない。


「あの……」


 奏は呼び止めたものの、何を話していいのかわからない。感謝、恥じらい、情けなさ、いくつもの感情が自分の中でわいては消えて、またわいてくる。うまく言葉にすることができず、奏はいら立つ。


「今度また、もう一度だ」


 秀美が、ささやくように言う。


「それって」


 奏が、秀美の肩へと手を伸ばした時、すりぬけるようにして秀美は歩き始めた。暗がりに背中が溶けていく。奏は追いかけていくことができず、しばらくその場に立ち続けていた。

 夕刻、《ミニ四駆選手権》のエントリーリスト上、《すーぱーあゆみんミニ四チーム》のメンバーに、追加メンバーとして赤井秀美の名前が刻まれた。そのニュースは「女帝ふたたび」というタイトルで参加チーム、ファンの間へと瞬く間に広まっていった。

すでに決勝レース開催まで三週間を切っていた。

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