開校!学習塾くすのき



あれから準備を進めること1週間後。

ぴかぴかの塾は緊張と期待が入り交じった雰囲気でいっぱい。

比較的小さめな校舎。ひとつの部屋に10人、生徒が集められていた。


(先生、どんな人かな)


そんな中、誰とも話すことなく1番後ろの角の席で1人の生徒は不安げに瞳を震わせた。


周りの人達は何人か同じ中学校の人達ではあるものの、見たことがある程度でみんな話したことなんてない。


「やっぱり新しいね」

「そらそうでしょ。

出来たばっかりなんだから」


真ん中の方で女子2人が小声で話す声が、妙に大きく周囲の耳に届いた。

2人もちょっと気まずそうにそれ以上はおしゃべりしなかった。


これが塾では普通なのかもしれないが、やや重い空気がここは遊ぶための場所じゃないと。

勉強地獄の始まりを告げる場所だと、そう言っている気がしてなんだか落ち着かなかった。


それもそのはず、ここに集められたのは新中学三年生。


今まで塾なんて行ったことがない人が大半で、なんなら高校受験自体もそんなに明確なイメージを持っている人も少ないのかもしれない。

とにかく、みんな緊張していたのだ。


そんな中、閉まってるスライド式のドアがノックされ、失礼しますと女の人の声がした。



みんなじっと入り口を注視した。


入ってきたのは二人の先生で、1人は本当に大人なのか疑わしい位の身長の女の先生。


ちょっと遅れてひょろりとした眼鏡の男の先生。

ふたりが並ぶと身長差が凄い。


女の先生が軽く息を吐いて、吸った。



「は…」



女性らしい声。

が、沈黙。

口を小さく開けて固まった。




ーー念の為に説明しておくと、この時むぎは混乱していた。

心配性な麦は前日から何度も繰り返したシュミレーション通り、

「こんにちは!」から入るつもりであった。もちろん笑顔で。


しかしながら、当日の大切な一度きりの本番。

ノックをして入ったまではいいが、

思っていたよりも視線が集中。

貧弱な麦の緊張度数が90パーセント近くまで上がった。


すると彼女の口から出たのは、「は」の音であった。


麦も予想していない「は」。

そうすると彼女の頭は真っ白になった。

あれ?わたし、「は」から何を言おうとしてたんだっけ…

思考の限界を突破した麦の脳は、そのままの哀れな姿で硬直することを選んだ。

これ以上変なことをしゃべらせたら本体が危ない。

ある意味では正解であった。




「…塾長さん?」


固まった女の先生に困惑していると、後ろの男の先生がつんつんと肩をつついた。


「…はっ!こ、こんにちは!」


「こんにちはー」


するとスイッチが入った玩具おもちゃのように女の先生が挨拶。

遅れて生徒たちも挨拶を返した。



不思議な人だけど怖くなくなさそうでよかった…。

あの後ろの端っこの生徒はほっと息を吐いた。



「今日は新学期説明会に来てくれて、ありがとうございます。

じゃあ…、自己紹介からしますね」


ててて、女の先生が横歩きてホワイトボードの真ん中に移動した。

背伸び。「七瀬 麦」と書いた。

かなり上手な字だ。


「ええと、ななせ むぎと言います。

教科は国語と、あと英語がちょっと出来ますハイ。


一応塾長です。

呼び方はなんでも、、七瀬先生でも、麦先生でも…いいです」


よろしくお願いします。

ぺこりとお辞儀をした。

生徒たちの拍手が返ってくる。

ようやく緊張がほぐれてきたらしく、生徒たちには多少の笑顔も見える。


女の先生はひとつ息を吐いて、隣の男の先生と場所を入れ替えた。


ホワイトボードにペンが走る。

少し小さめに「浦 正人」と並ぶ。


「うら まさとです。

つい最近まで県内の高校で教師やってました。

数学です。理科も担当します。

わかんないとこはなんでも聞いてください」


同様、お辞儀をした。

眼鏡を通してこちらを覗く細い目がちょっと怖い。



「じゃあ資料をですね、回してください。

後ろに、うん」



女の先生がプリントを数えて後ろに回す。

説明会はまだまだ続く。


先生がつぎつぎに今後についての説明をしていくうちに、生徒たちの目に輝きが増す。


今年一年、期待しているのは先生たちだけではないようだった。









「ただいまぁ」


一軒家のドアを開け、家の鍵を玄関に吊るす。

もう何年もやってきた一連の動作。

鍵を無くさないようにと母から教わったルーティンのおかげか、鍵を無くすようなことはしたことがなかった。


「あら、おかえり。

どうだった?綺麗だったでしょう」


リビングへのドアを開けると、母がいつも通り、みんなの洗濯物をたたんでいた。


「うん。先生も優しそうだったよ」

当たり障りのないことを言っておく。


事実、この生徒。

あの一番後ろの端っこで一人不安そうな顔をしていた子は、

説明会をうけたあの塾、くすのきに好感を持ったようだった。


「じゃあこれから頑張ってね。和沙なぎさ

今年一年、勝負の年よ」


「うん…」


和沙なぎさと呼ばれた生徒は少し下を向いて、声だけで返事をした。


そのままリビングを通り抜け、自室への階段を上る。

上へ上へ上がっていく両の足を見ていると、なんだか自分が上がっているのか下がっているのか分からなくなるような錯覚を覚えた。


将来、大丈夫かな。

ちゃんと頑張れるかな。


両目が隠れるほどの長いの前髪。

和沙なぎさは無造作にわしゃわしゃと乱して、自室のドアを閉めた。



春の廊下はまだ少しだけ寒い。




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