それぞれの決意 5

 啼義ナギは部屋の前に着くと、イルギネスが眠っていたのを思い出し、努めて静かに扉を開けた。

 ──が。

「おかえり」

 目の前の椅子には、ちゃんと起きて、半ばほどけていた髪を結き直したイルギネスが腰掛けていた。鞘に入ったままの愛剣を手にして、様子を確認している。

「起きてたのか」

 イルギネスはにっこりと微笑んだ。「あんまり寝すぎると、夜に眠れなくなるからな」

 それにしても、ぐっすり眠っていたようだったのに──啼義は思い当たった。まさか。

「いつ、起きたんだ?」

「ん?」

 イルギネスの青い瞳に悪戯っぽい感情が走ったのを、啼義は見逃さなかった。聞かない方がいいと思った時には、もう遅かった。

「誰かさんが、大きな音で扉を閉めて出て行ったからな」

「……」

 ということは──それこそ、あまり考えたくはないが──啼義は尋ねてしまった。

「見てたのか?」

 イルギネスが、手にしていた剣を壁に立て掛け、身体を啼義の方へ向ける。

「リナとちゃんと話ができて、よかったじゃないか」

「う、うん」

 顔が火照るのを感じながら、啼義は答えた。けれど、自分の気持ちに気づいたとて、どうにも出来ないことも同時に思い出し、次の瞬間、急に胸の奥の熱が引いていく。

「安心しろ。ここからじゃ、会話までは聞こえん」

 イルギネスは笑ったが、啼義の表情を見て笑顔を引っ込めた。照れていたかと思えば、一気に浮かぬ顔になっている。

「どうした?」

 答えられるはずもない。啼義はイルギネスを見返し、半ば無理やり笑顔を作った。

「なんでもない」

 しかし、そんな付け焼き刃な笑顔を、イルギネスが見抜かぬわけがない。

「説得力がないな」彼は言うと、その眼差しに力を込めた。優しいが、射抜くようなまっすぐな視線に、啼義は観念した。しかし、言葉にするのはとんでもなく恥ずかしいことのように思えて、どうにか直接的な表現は避けようと、頭の中の語彙を必死にかき集めた。

「ここに、いつまでもいられないんだと思ったら、寂しくなってさ」

 苦し紛れに言葉を捻出すると、イルギネスは少し意地悪そうに微笑んだ。

「ほう? 昨日は自分で出て行ったくせに」

 啼義の頬がわずかに紅潮する。

「あっ、あれは……」しかし反論もできずにわなわなしている啼義を見て、イルギネスは声に出して笑った。

「いや、すまん。でも、そう思うなら安心だ。勝手に出ていく心配もなくなったわけだ」

 この野郎、と心で悪態をつきつつも、ひとまずリナのことを追求されずにすんで、啼義は安堵した。ふうと息を吐き、自分も剣や装備品の手入れをしようと、荷物の前に腰を下ろす。ザックの中からあれこれ出していると、その言葉は唐突に、背後から投げられた。


「リナに、惚れたか」

 

 突然、しかも直球を食らって、啼義は心臓が飛び出るかというような衝撃を受けた。振り返ると、イルギネスはその目に嬉々とした光を走らせ、やんわりと追い打ちをかける。

「というか、やっと気づいたってとこか」

「え」

 啼義はひどく狼狽うろたえてどう返していいか分らず、なんとか立ち上がって、イルギネスに向き直った。

「どうして……」

 やっと、とは?

「お前ときたら、もうけっこう前から、リナを目で追ってたからな。俺が気づかないとでも思ったか」

 啼義は眩暈めまいがした。言われれば確かに、自分が彼女の姿を追っている自覚はあったのだ。経験豊富な相棒には、すっかり見抜かれていたということか。

「でも」

 啼義は、再び顔に熱が上がるのを感じながらも、やっと反論した。

「だからなんだって言うんだ。どうしようもねえじゃん。俺は、ここにいられないんだぜ」

 するとイルギネスは、穏やかな眼差しのまま啼義を見返した。

「そんなのは簡単だ。ダリュスカインのことがどうなるか分からんが、しっかりカタがついたら、イリユスへ一緒に来てくれと言ってみればいい」

 あまりになんでもないような物言いに、啼義は唖然とした。

「簡単じゃ、ねえよ」

 渋面になった啼義に、イルギネスは、時に見せる好戦的な笑みを浮かべる。

「それこそ自分次第だ。やってやると覚悟を決めて、やり遂げるのさ」

 啼義は黙って、イルギネスの海のような目を見つめた。その青は、悠然と凪いでいる。虚勢でもなんでもなく、この男は本気でそう思っているのだ。

<そうか>

 どんな心持ちであっても、打破しなければならない現実は同じだ。だったら、やり切れると信じて、その先にある未来を描いて挑むほうが、自分自身が心強い。

 啼義の心の動きを捉えたかのように、イルギネスは足を組み、「ひとつ、教えてやろう」と再び口を開いた。

「リナは昨日、俺たちと一緒にお前を探しに行くと言って聞かず、諦めさせるのにかなり手こずったんだ。お前に何かあったら、間違いなく泣かれる。だから絶対に乗り切って──ちゃんと安心させてやれ」

 それは、啼義の心を揺さぶるには充分な情報だった。思えばリナは、いつも自分のことを気にかけてくれていた。さっきだって、あんなに心配して。

<泣かせたくない>

 リナを、悲しませたくはない。ならば、自分はこの難局になんとか良い方向へ決着をつけ、もう大丈夫だと示してやらなければ。

「うん」

 短く頷く。でもそれでは弱い気がして、もう一度、しっかりとイルギネスを見つめ、今度は力強く頷いた。「うん」

 啼義の覚悟の思いを受けたイルギネスの眼差しは温かく、それはほのかな希望の光となって、啼義の心の奥を照らした。彼の瞳は不思議だ。軽く考えてそうでいて、その目には揺るぎない強さがある。なのに、とても柔らかい。

 そのイルギネスの目元が、ふと和んだ。

「なあに、心配するな。女のことなら、経験には事欠かない。いくらでも相談に乗れるぞ」

 褒められた発言とは言えなさそうな内容に、啼義が眉根を寄せる。

「なに言ってんだ。むしろ失敗談じゃねえのか?」

 はははは! と、言われた方は愉快そうに笑った。

「俺みたいに迷走せず、しっかりモノにしろよ、青年」

 啼義が呆れ顔になる。「なんだそれ。どんな迷走してきたんだよ」

「それはいつか、酒の席でたんまり話してやるさ」イルギネスはむしろ、得意げに返した。

「得意顔で言うことかよ」

 啼義の突っ込みに、イルギネスがまたケラケラと笑う。啼義も心の強張りが溶けて、いつしか一緒に笑っていた。声に出して笑うのは、久しぶりだった。イルギネスは、初めて見た啼義の屈託のない笑顔に、目を細める。

<こんな明るい笑い方も、できる奴だったんだな>

 この笑顔を、もっと普段から目にしたい。そうできるよう導いてやるのが、俺の役目だ。

 イルギネスは、海色の瞳に相応しい悠然とした光を浮かべ、優しくも力強い口調で言った。 

「大丈夫だ。強く信じるんだよ。いつだって思いの強さが、困難を打ち破るんだからな」

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