第90話 永遠になったその日

 わんわんと音が鳴っている。

 ベンチから出た選手たちが、バシバシとその背中を叩いている。

 直史はゆっくりと息を吐き、被っているタオルを取った。

 ベンチの奥へやってきた、ポストシーズンからの相棒に、左の手のひらをかざす。

 バシン! と激しい音が生まれた。


 スコアボードに刻まれた、1の数字。

 やっぱり1は特別だなと、高校時代は一大会しか付けなかったナンバーのことを思い出す。

 あれ以来ずっと、直史のナンバーに1はない。

 レックスの場合はチームキャプテンの番号であるので、ピッチャーである直史には回ってこない。

 あまり気にしていなかったが、1とスコアボードに表示されて、なんとなくそんなことを思った。


 取らなくてはいけないアウトはあと15個。

 ここまでの球数は37球。

(15人を相手に四球ずつ使えば97球か)

 出来るかな、と考える直史は、フォアボールの数もヒットを打たれる数も考えていない。ちょっとどうかしているがいつものことである。


 今日の直史からは、一点は取れる。

 そう考えるジャガースベンチは、ここでピッチャーを交代。

 昨日の唯一の得点を叩き出した、西片から三振を奪い、変な空気を遮断しようとする。

 だがおそらく、それはもう遅い。


 五回の裏、直史はベンチの前で大きく伸びをすると、マウンドに向かって歩いていく。

 幾つもの言葉が背中からかけられるが、おおよそは無視していく。

 自分は機械だ。ただ点を取られず、アウトを取るためのマシーンになる。

 五回の裏の先頭打者への、初球は90km/hを切るスローカーブ。

 次にスプリットを投げれば、またピッチャーゴロが取れた。

 

 カーブとスライダーを使い、ファールを打たせてカウントを稼ぐ。

 自分は球速や球威で三振を取るような、パワーピッチャーではない。

 だがコンビネーションを使えば、110km/hのチェンジアップで三振も取れるのだ。




 一点差を守りきることを、レックスの応援団は期待している。

 だが同時に多くのピッチャーが、ブルペンで準備を始めていた。

 五回の裏まで0で封じていた直史は、もちろんすごい。

 だがレックスにはまだ、勝利の方程式を担っていたリリーフ陣が残っている。

 それに加えてサウスポーの吉村と金原。

 いざという時のために、どの選手も覚悟を決めている。


 たった一点のリードなのだ。

 ホームラン一本で取ったリードは、ホームラン一本で追いつかれる。

 それにエラーから直史の集中力が切れれば、それでおしまいだ。

 ここまで下手にランナーが出ていないことが、逆にプレッシャーとなるかもしれない。

(適当なところでエラーでもした方がいいのか?)

 ここ数年のやらかしで、やたらと有名になってしまった、サード村岡は考える。

 確かにわざとエラーをして、変な緊張感をなくすという手段はある。

 だがここまできてしまえば、そのエラーで直史が潰れかねない。


 そんなことぐらいで潰れるタマかとも思うが、日本シリーズの最終戦。

 ここで勝てば日本一だし、それに直史のピッチングには、様々な記録がかかっている。

 何よりここまでパーフェクト。

 日本シリーズでパーフェクトが可能なのかどうか、ぜひ見てみたい。

 直史で無理ならば、他の誰でも無理だと思うのだ。


 六回の表はレックスの攻撃も、二番の小此木から。

 なんとか追加点はほしいのだが、日本シリーズに慣れたジャガースの投手陣から、高卒ルーキーが打つのは難しい。

 ファールで粘っても、わずかに球数を増やさせるのが精一杯。

 本来はやはり、まだ上位打線を打つような打力ではないのだ。


 三番の緒方も、四番の浅野も、凡退してしまう。

 特に浅野は外野の深いところまで飛んだため、追加点が入るかとも思った。

 しかしフェンスに背中をつけながらも、守備陣はジャンプしてキャッチ。

 もう一点もやらないと、両軍の守備が堅くなっている




 六回の裏、ジャガースもさすがに不気味になってくる。

 日本シリーズの最終戦で、直史はまだパーフェクトを続けている。

 満身創痍というものではないだろうが、かなりの消耗は間違いないのだ。

 だがそれでもランナーを出さない。

「まずは塁に出ないとな」

 パーフェクトの相手にセーフティバントという、MLBだったら報復が来るようなことをやってのける。

 だがサードが突進してくるよりも、直史がマウンドから降りるほうが早い。

 素手で捕ったままファーストに送りアウト。

 あっさりと片付けて、そのまままたマウンドに戻る。


 直史は何気に、今年は一つもエラーもしてない。

 そこそこピッチャーゴロも打たせるのに、全くミスのない動作をしているのだ。

 呼吸を整えながら、バッターの呼吸を見てボールをリリースする。

 セットポジションからの投げるタイミングが、焦らすように長くなっていく。

 だが実際にはジャガースの攻撃時間は長くない。

 球数が少ないため、あっさりとアウトが取れてしまうからだ。


 このイニングも、セーフティの失敗の後には内野フライが二つ。

 これまではゴロが多かったのに、この回には打ち上げている。

 打力の低い下位打線でも、パのチームはピッチャーが入っていない。

 なので一本ぐらいは、ヒットが出てもおかしくはない。


 だが打たれない。

 打たれてもヒットにならない。

(あと九人)

 試合はいよいよ終盤に入る。




 木山は直史にリリーフの準備はしてある。

 直史はベンチに戻ると帽子を脱いで、サプリだのなんだのを、水で流し込んでいる。

 口数が少ない。おそらくは周りを全く意識していない。


 パーフェクトピッチが続いている。

 ただのパーフェクトピッチではない。球数の極端に少ないパーフェクトだ。

 日本シリーズでこれまで、パーフェクトを達成した者は一人もいない。

 むしろノーヒットノーランでさえ一人しかいないのだ。


 直史はもう、投げるために全ての力を振り絞っている。

 途中で倒れそうではあるが、実際には倒れない。

 そしてパーフェクトを続けている。

 直史がセットポジションに入ると、応援の音が止む。

 そして投げたボールが、打たれてもミットに入っても、そこからまた音が甦ってくる。


 野球の応援じゃないな、と岸和田は感じる。

 とにかく注意するべきは、直史の邪魔をしないこと。

 マウンドに立つ細身のピッチャーは、既にもう目が死んでいる。

(あと九人)

 とにかく大切なのは、打撃妨害をしないことと、後逸をしないこと。

 あの一本のホームランで、来季の年俸の大幅アップを期待している。


 七回の裏の守備。

 先頭が一番の上位打線。おそらくここが最後の山場。

 140km/hをわずかに超えるストレートと、スライダーにカーブ。

 ムービング系のボールを打たせて、まずは一人を切る。

(あと八人)

 岸和田はこの感覚が何かを思い出す。

 甲子園に出場した時の、県大会決勝だ。


 大記録が迫っている。

 直史は帽子を少し深めにかぶって、表情が出来るだけ出ないようにしている。

 グラブを顔の前に上げて、カメラにも映らないように。

 まるで何かから隠れるように。


 そして二番の悟を追い込んで、最後に投げたストレート。

 高めに外れた球が、強最速の153km/hを叩き出した。

 ちなみに直史がこれまで、公式戦で出してきた最速は152km/hである。




 空振りした姿勢のまま、悟はがっくりと崩れ落ちる。

 だがいつまでもそんなままでいるわけにもいかないので、球速表示を見ながらベンチへと戻る。

(え? 速かったけど、計測の故障?)

 今日の試合はこれまで、速くても145km/h前後のストレートしかなかった。

 もちろんそれもこれまで、ずっと抑えられてきてしまったのだが。


 ジャガースベンチも動揺しているが、マウンドの直史は平静である。

 渾身の奪三振にもガッツポーズをすることはなく、何事もなかったかのように次の打者を迎える。

 そこで投げられたのは、また遅くなった変化球。

 チェンジアップを打たされて、スリーアウトチェンジである。


 守備に就くジャガースナインだが、悟はレックスのベンチをわずかに見た。

 誰も直史に近寄ろうとしない。

 まるでそうすることで、奇跡が起こるのを妨げてしまうと言うかのように。

 だが遠慮なく水を渡す者もいる。

 樋口から受け取った紙コップから、直史は水分を補給していた。


 まだあと二回、攻撃はある。

 そして点差はたったの一点だ。

 この八回の表も、レックスによる追加点はない。

 そして一発が狙える四番から、ジャガースの攻撃は始まる。




 逃げていくシンカーを使った。

 その後にまたそこそこスピードのあるツーシームを使い、ファールを打たせてストライクカウントを稼ぐ。

 追い込んだ直史は、遊び球を使わない。

 そう考えているバッターに対して、チェンジアップを外すコースに落とした。

 三振を奪ってあと五人。


 カットボールを強振されたが、セカンド真正面のゴロで、問題なくアウト。

 結果的には一球で終わってくれた。

 残りは四人。


 得意なコースと苦手なコース、そして状況を考える。

 高めを振らせて三振を取るところを見ている。

 インハイを攻めてから、今度はボールからゾーンへと変化する球を投げる。

 最後はアウトローにびたりと決まるストレートを投げた。

 151km/h。

 高めではなく、アウトローにコントロールされたストレートだ。

 スイングも出来ず、見逃しの三振。


 あと三人。

 異様な雰囲気の中で、直史の周りだけは静かだ。

 差し出されたコップを、そっと固辞する。

 樋口は何も言わずに、九回の表の攻撃を見つめる。

 あと三人だ。

 あと三人で勝てるし、日本一になるし、パーフェクトを達成するし、今シーズンが終わる。

 樋口は何も言わず、紙コップの中を空にして、直史と一緒に試合が進むのを見ていた。

 そして最終回、九回の裏が始まる。




 七番からの打順だが、ジャガースは代打を出さない。

 バットを余して持つそのバッターに、直史はスルーを投げた。

 初球から打った球は、センターに抜けることなく直史のグラブに収まった。

 ピッチャーライナーでまずワンナウト。

 これであと二人。


 レックスベンチでは、乾いた笑いを浮かべるものが多かった。

 単純に優勝が近付いているだけで、こんな表情にはならない。

 樋口は何度か、こういった顔をする人間を見ている。

 たとえば大学時代、早稲谷のベンチの中は、恍惚となる者たちで埋め尽くされることがあった。

 樋口は醒めた目でそれを見つつ、スコアを広げる。

(73球……)

 あと二人。


 八番には代打が出てきた。

 左打者に対し、直史はまず膝元へスライダーを投げ込む。

 空振りしてストライク。

 続いてアウトローにボールを外す。

 これには釣られることなく、しっかりと見極める。

 インハイの高く外れるストレート。

 ボールと途中で判断したが、スイングを審判に取られた。

 そして最後の球は、左打者の背中側から、右ピッチャーの投げたシンカー。

 内角に入ったボールは、ストライクとコールされた。


(惜しいな)

 樋口はそう思った。

 彼は直史がパーフェクトを達成してから、過去のパーフェクトの達成記録を調べたことがある。

 最少の球数は79球での達成だ。

 その記録を破るのは難しくなった。

 だがもし最後のバッターを三球三振で打ち取れば、80球でパーフェクトが出来たことになる。

(81球未満のパーフェクトか)

 直史も大学時代、一度だけ達成している。


 だがこれで、奪三振の数も二桁に達した。

 最後に送られてきた代打に、直史は何を投げるのか。

 おそらく何を投げても打ち取れる。

 二球で打たせて取れば、タイ記録にはなる。


 直史のこれは、投球術ではないな、と樋口は思った。

 これはまさに、投球芸術とでも呼ぶべきものだ。


 直史の投げるモチベーションが、やっと樋口には分かった気がする。

 大学時代や国際戦でも、確かにやる気は見せていた。

 高校時代は確かに頂点を目指していたのだろう。

 大学では成績を残すことが、経済的な援助と引き換えになっていた。

 だが単にそれを求めるだけなら、もっと楽な数字を残しても良かったのだ。


 画家はなぜ絵を描くのか。

 作家はなぜ文を書くのか。

 人はなぜ生きるのか。

 最後のは少し違うかもしれないが、そこに根源的な理由はない。

 やりたいことをやっている、ただそれだけだ。

 そして直史も、ただ投げたいように投げているだけなのだ。

(やっと理解できた)

 思わず苦笑が洩れる樋口だが、二球で追い込んだ直史は、三球目を投げる。


 バットはボールにちゃんと当たった。

 そしてその打球はそこそこ伸びて、センターの西片が追う。

 だがその走り方は、急いだものではない。

 振り向いてかざしたそのグラブの中に、スリーアウトになるボールは収まった。


 終わった。

 最後のボールを捕った西片が、両手を上げてマウンドに駆け寄る。

 途中で転んで、そしてすぐに起き上がって、恥ずかしそうに駆け寄ってくる。

 そしてベンチからも全員が駆け出す。

 樋口は一人、とことこと出て行ったが。


 監督を胴上げする前に、直史のスパイクを脱がせて、胴上げが始まった。

 音が戻ってきたスタジアムは、ジャガースファンさえもが大歓声を上げている。

 それは原始的な叫びであった。

 原始的な熱狂が、その場を支配していた。

 その熱狂は電波に乗って、どこまでも伝わっていっただろう。

 日本に列島において、多くの電力が消費された。

 色々な奇跡が各地で起きたが、その全てを記録する者はいない。


 9回27人80球0安打0四球0失策10奪三振。

 81球以内のパーフェクトピッチング。

 誰がそんなことを出来ると思っていたか。

 あるいは誰もがそれを期待していたのか。

 とりあえず言えることは、彼はその期待に応えたということである。




 ヒーローインタビューが始まる。

 この試合のバッテリーを組んだ二人だ。

 当然ながら、このシリーズのMVPは直史だ。

 4試合に先発し、34イニング108人384球10被安打3四球29奪三振。

 4勝0敗である。


『おめでとうございます!』

『はい』

『最後に投げたのはストレートでしたか!?』

『はい』

『途中苦しかったところもあったでしょうか?』

『はい』

『最終回に向けて、何か思うところはあったのでしょうか?』

『はい』

『その、何か言いたいことは……』

『はい、ああ……はい』

 そこまでを言った直史は、隣の岸和田に寄りかかるように倒れこんだ。

 慌てて支える岸和田であるが、直史は既に気絶していた。

 体力ではなく、脳の処理能力を飽和して、電源がダウンした。

 チームメイトが集まって、その体を下ろしていく。


 ホームランを打った岸和田に、監督へのインタビューなど、諸々のことがあった。

 だが誰もそんなことはどうでもよく、気にするのは直史のことだ。

 マスコミは追いかけていくが、レックスの球団職員がそれを食い止める。

 ロッカールームに運ばれた直史は、長いすのソファに乗せられた。

「大丈夫……ですよね?」

「まあ医者に診てもらわないと詳しいことは言えないが、前にも同じようなことはあったしな」

 一人付き添いで来た樋口は、あの高校三年の夏を思い出す。

 考えればあの時も、そして今日も、直史は連投で投げていた。

 脳の電池切れ。

 集中力の切るボタンを押すと、それが意識を絶つボタンにもつながっていたという感じか。


 樋口はとりあえず、電話をかけた。

 そして球団職員に案内されて、瑞希がやってくる。

 目を赤くしたのは、やはり泣いていたのだろうか。

 人はとても、人がなしえたものとは思えないものを見てしまうと泣けてくることがある。

 樋口は泣かないが。


 もう一度グラウンドに戻るかと思って通路に出れば、そこにはセイバーがいた。

 彼女に向けて樋口は肩をすくめ、完全にお手上げだという動作もした。

 そしてまたセイバーも困ったような表情をしていた。

 彼女にとってもこれは、予想のしようのない事態であった。

 だが、心の奥のどこかでは、期待していたかもしれない。

 笑わない両者が、思わず笑みをこぼしてしまった。


 かくして舞台は終わった。

 しかしその残響は、まだしばらく重く野球界を動かしていくのである。

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