第4話 赤座美紗(34・主婦)―その4―

 帰り道が同じ方向だったので、美紗と下田は一緒に帰っていた。美紗は改めて今日のお礼を言った。


「うちはいつでも大歓迎だから、ぜひ来てくださいね。ご主人が何かおっしゃるなら、またわたしから説得するから」


「……」


「あら、どうかしたの?」


 美紗は康夫が下田のことをよく思っていないことを伝えた。しかし下田は特に意に介している様子はない。


「ふーん、疫病神ねえ」


「ごめんなさい。せっかく仲良くしていただいてるのに、こんなことを伝えてしまって。でも、そういうことを言ってるような人ですから、説得に応じるかどうか」


「大丈夫よ、いくらでも方法はあるから」


「あの、一つお伺いしてもいいですか?」


「何?」


「どうしてわたしにここまで親切にしてくださるんですか?」


 下田はフフッと笑うと、質問に答えた。


「あなた、ご主人からモラハラを受けてるんじゃないの?」


 美紗の歩く足が止まった。返事もできない。


「図星かしら?」


「どうしてそう思うんですか?」


「保護者説明会の時、あなたすぐに帰ろうとしてたでしょ? しかもわたしが料理教室に誘ったら、主人が家庭をおろそかにするなって言うからって断って。その時に思ったのよ、もしかして赤座さんのご主人、かなり束縛をなさってるんじゃないかって」


「そうだったんですか」


「もちろんその時はまだ予測でしかなかったから、それを確認したかったの。ご主人にお会いしに行ったのはそういう理由よ。そしたら案の定だったわ。ご本人は気づいてないんでしょうけど、言葉の節々からモラハラ夫のにおいがしたわ」


 美紗は黙ってしまった。自分がモラハラを受けていた――そのことにはとっくに気づいていたはずなのに、いざ他人から指摘されると、戸惑いで何も言えなくなる。


「余計なこと言っちゃったわね、ごめんなさい。本当は料理教室の皆さんと一緒にあなたの相談に乗りたかったんだけど、全く関係ない話になっちゃったわね」


 二人はまた歩き始めた。美紗はまだ何も言えない。

 下田は思い出したように先程の殺し屋の話をしだした。


「さっきの殺し屋の話、憶えてる?」


「どうしたんですか、急に」


「あれね、他にも色々言われてる噂があるの」


「他にも?」


「殺し屋は単独犯じゃないって言ったでしょ? 実は殺し屋達はチームを組んでるんじゃないかって言われてるの。そのチームが依頼を受けて、日本中を回ってるんですって」


「そんなことあるんですか?」


「あくまで噂だから。でね、これには大事なことがあって」


 下田はそこで足を止めて、美紗の方へ体ごと向き直った。


「『#259』これがその殺し屋へ依頼するための番号なんですって」





 時刻は午後4時を過ぎていた。家に着いた美紗は中に入ろうとドアの鍵を開けようとした。ところが逆に鍵はかかってしまった。今日は京太も遊びに行っていて誰も家にいないはずだ。美紗は鍵を開け直して中に入った。

 リビングに足を踏み入れた彼女は驚愕した。まだ仕事のはずの康夫がソファに座っていたのだ。


「帰ってたの?」


 だが康夫は質問には返さずに、美紗に質問し返した。


「やっぱり遅く帰ってくるつもりだったのか?」


「何言ってるの? 今から夕飯作るんだから、ちょっと待ってて」


「じゃあなんで買い物してきた様子がないんだ」


「それは……」


 答えられない美紗を尻目に、康夫はキッチンに入っていった。家事は女の仕事と考える彼が、普段キッチンに足を踏み入れることはない。

 康夫は冷蔵庫を開けた。中には昨日美紗が買いためておいた食品が入っている。


「あなた、冷蔵庫開けたの?」


「言ったはずだぞ。前の日に買い物を済ませておくのは手抜きだって。ちゃんと仕事は全うしろ」


「あなたおかしいんじゃないの!? そんなことのためにわざわざ仕事早退きしたってこと? 仕事を全うしてないのはあなたじゃない!」


 思わず美紗は声を荒げた。だが康夫は表情を変えない。


「俺の仕事に文句を言う権利があるのか? 大体お前らがいい暮らしできてるのも、俺が早くに出世できてるからだろ。誰の金で飯が食えてるのか考えろ」


 今の言葉で、美紗の何かが弾けたのだろう。彼女の目から、涙が一筋流れた。


「……わたし、やっぱり教室に行く」


「何だと!?」


「もうあなたの言いなりになんてなりたくない、わたしはやりたいことをやるの」


「本気で言ってるのか!」


「もちろん。嫌だって言うなら別れてやるわ!」


 瞬間、美紗の頬がはたかれた。康夫の平手だった。とうとう彼は愛すべき妻の顔を殴ったのである。


「他に男も知らない、仕事もろくにしたことないお前が俺から離れられるのか? 甘えたこと言いやがって」


 叩かれて思わず倒れた美紗は、悲しみに負けて立ち上がることができない。


「昨日から置いてあったもんなんか食べれるわけない。今日は京太を連れて外食してくる。お前ひとりで食ってろ」


 ただいま、という元気な声とともに、二人のが帰ってきた。

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