相田宗介編 #003
「なにが?」
「あたしを部屋にあげちゃって」
「どういう意味?」
「愛人を逃す時間が欲しいなら、少し待っててあげるよ。どっか、そのへんのコンビニでも行ってよっか」
「アホか」
「じゃあ、エロ本隠してきてもいいから」
「ねぇよ、そんなの」
優は何かを考え込むように指を顎に当てた。「じゃあ、宗介くん秘蔵の、引き出しの奥にあるヒミツのストレージとか」
「そんなもんまで把握してんじゃねぇよ!」
宗介はキーをドアノブに差し入れ、鍵を開ける。そして、そのとき、あることに気が付いた。
「そもそも、合鍵持ってるんだから、中に入って待ってればよかったのに」そう言うと、優は驚いたように目を見開いた。
「そんな! 殿方の不在中に勝手に自宅に侵入するなど!」
「殿方って」
「不法侵入で訴えられたら、勝てないし」
優はゴソゴソとズボンのポケットから財布を取り出すと、中から、宗介の部屋の鍵を取り出す。「だから、今日でこれ、返すね。ありがと、今まで」
宗介はその鍵を受け取る。そして、部屋の中へと入って行った。
「お邪魔しまーす」すぐ後から優が入ってくる。
玄関は狭く、入ってまっすぐのところに廊下が伸びている。廊下の脇に小さなキッチン、その脇にトイレ、そしてシャワー。そしてドアの向こうに部屋がひとつ。それだけの間取りだ。
「うわぁ、片付いてるねぇ。前と変わんないじゃん」
部屋に入るなり優は呟いた。それはそうだろう。優がここに来なくなってから、宗介は毎日、掃除機をかけ、埃を取り、洗濯をして、優がここにいたという痕跡を消していったのだ。部屋に置いていた芳香剤も変えたから、すべての匂いが変わっているはずだ。
優はまるではじめて来たかのように、珍しそうにキョロキョロとあたりを見回している。
「座りなよ」
ベッドを叩いて促すと、ベッドの脇のところにちょこんと腰掛けた。優は別れる直前、つまり一ヶ月前までこの部屋によく来ていた。週末は必ず泊まりにきていたし、平日だって、この家にいるときのほうが多かった。あたりをキョロキョロと見回す優は、まるでそのときの記憶までまるごとリセットされてしまった、アンドロイドのようだ。
ベッドに座った優は、それまでずっとかぶっていたパーカのフードを取った。髪型は、もともと短かったがショートボブになっていて、明るいピンク色になっていた。まさかフードの中がそんな状態になっているとは思わず、とっさに声が出なかったが、「なんだよ、その髪」とやっとのことでそれだけ言うと、「へへー、いいでしょ、これ?」と優は満面の笑みで、髪の毛を人差し指と親指でくねくねとねじった。
そのあとの言葉が続かない。黙ったまま、宗介も椅子に腰掛ける。部屋の中は間接照明が主体になっていて、あまり明るくはない。
見慣れたはずの自分の部屋が、そして見慣れたはずの優の姿が、優の髪がピンク色だという、たったそれだけのことで、妙に現実感を失い、フワフワした感覚になった。優の姿が遠い。一ヶ月前、別れを切り出されたのは、まさに晴天の霹靂といってよかった。ずっと続くと思っていた道が、突然途切れて、崖になっていた、そんな感じ。それまで歩んできた道が間違っていたような、いや、もっと根本的なところで、何かボタンの掛け違いが起きていたような、そんなほつれが、急に断絶となって訪れたのだ。
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