本物の親愛なる隣人でもあるまいし……

 事件は昼前に起こった。

 今日は朝から両親の部屋を掃除する予定だった。

 うちの親は両方共、仕事の都合で家を留守にすることが多く、普段ほとんど部屋が使われることはない。

 なので定期的に俺が掃除することになっているのだが、ずいぶん前からしようと思っていて中々その機会がなく先延ばしになっていた。

 長い間、放置していたせいで、だいぶ埃が溜まっており、これは一日中かかりそうだなと思っていると、十時過ぎ頃に麻由香さんが訪ねてきた。

 掃除のことを話すと、麻由香さんは自分も手伝いたいと申し出てきた。

 もちろん初めは丁重に断ったのだが、俺一人でやると下手すると夜までかかる可能性があるので、手伝ってもらうことにした。

 もちろん後でお礼になにかお礼をすることを条件に。


 そんなこんなで、まずは二人で高い所の埃を落とすところから始めることにして、二分ほど経ったその時――


「きゃああああぁぁ!?」


 突如、耳をつんざくような悲鳴が背後から聞こえた。

 何事かと思って慌てて振り向くと、状況を確認するより先に、麻由香さんが凄い勢いで俺の胸に飛び込んできた。


「ど、どどどうしたの麻由香さん?」

「くくく……」

「く?」


 普段の麻由香さんからは想像もつかないほど怯えてる。一体なにがあったのか。


「蜘蛛が……出たの……」

「え」


 そういえば麻由香さんは昔から蜘蛛が苦手だった。以前、自宅に蜘蛛が出た時は、血相を変えて俺の家まで助けを求めてきたのをよく覚えている。

 俺がスパイ○ーマンのコスプレした時は喜んでくれてたけど。


「ど、どこに?」

「そ、そこの電気スタンドの横……」


 震える指でベッド脇のテーブルを指し示す。

 よく見ると、電気スタンドの周りを八本足の小さな物体が蠢いているのが見えた。


「お、お願い……早く追い払って……」


 涙目になりながら俺の腕にぎゅうっとしがみつく麻由香さん。やばい、柔らかい感触がダイレクトに伝わってくる……。


「わ、わかった……わかったからとにかく落ち着いて。このままだと身動きが取りにくいから一旦手を放してもらってもいいかな?」


 とりあえず麻由香さんをなだめて、一旦離れてから蜘蛛への対処法を考えることにする。

 幸い害は無さそうだし、ティッシュにでも包んで窓から放り投げてやればいいか。

 そう思ってティッシュ箱から一枚抜き取り、逃げ出さないようにゆっくりと近づく。

 ところが危険を察知したのか、捕まえようとした瞬間、蜘蛛が驚くほど素早い動きで、スッとテーブルの裏側に入り込んで姿をくらましてしまった。


「あーマズいことになった……」

「ど、どうしたの?」


 恐る恐る麻由香さんが訊ねてくる。ここで本当のことを話せばパニックに陥りそうだけど……。


「いやぁ、別に大したことじゃないんだけどね。ちょっと蜘蛛がどっかいっちゃったみたいで……」

「ああなんだそっかぁー……って……は?」


 麻由香さんの顔が見る見るうちに蒼白に染まっていく。そこには恐怖の色がありありと浮かんでいた。


「どどどどどどうするの!? 今にもどこからともなく襲ってくるかもしれないよ!?」

「そんなバカな……本物の親愛なる隣人でもあるまいし……」


 麻由香さんが恐れるようなことは100%起こらないと思うのだが、今それを彼女に説明しても聞く耳を持ってくれそうにない。

案の定、蜘蛛に対する恐怖から、激しく取り乱してただ意味もなく部屋のあちこちを一心不乱に行ったり来たりしているからだ。

 完全に冷静さを失っている。

 ――と、そんなことをしていると、ふとした拍子に麻由香さんが部屋の隅にある衣装戸棚に身体をぶつけて、上にあった裁縫箱から小さなボタンが落ちてきた。

 そしてそのボタンが偶然にも麻由香さんの襟元から服の中へと入り込んだ。


「ひっ!? ひゃあああああぁぁぁ!? く、蜘蛛が服の中にぃ!」


 まあそうなるよね。

 この状況で得体の知れない物体が服の中に入り込んだら勘違いするのも無理はない。

 ところが余程気が動転していたのか、この場に俺がいるにも拘らず、蜘蛛を追い出す為にいきなり服を脱ぎ始めたのには面食らった。


「ちょっ!? 待って麻由香さん! 今のはただのボタンだから!」

「お願いあっくん、取って取ってぇ!」


 錯乱する麻由香さんを必死になだめるには、実に数分を要した。

 その後、蜘蛛を追い払って部屋の掃除を再開したのは更に三十分以上経ってからのことだった。

 予定よりだいぶ時間がかかってしまった。その理由は主に掃除とはあまり関係のない出来事のせいなのだが。

 終わった後もしばらくは麻由香さんの下着姿が頭から離れなかった。

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