LV40「オークの兄弟」
――万事休すか。
敵兵は少なく見積もっても五百は超えていた。それに春の魔女を斃したシドという男は並々ならぬ遣い手である。これだけでも厄介な上に、アシュレイの仇である混沌の魔女自体が途方もない化け物なのだ。そしてアシュレイと因縁浅からぬ老いた羊型亜人の人質。いくらなんでも蔵人ひとりの手に余った。
さらにいえば、あの時点でアシュレイ自身から断固として戦い抜く気が失せていたのだ。二人が力を合わせれば、あの場から逃げ出してチャンスを窺うことはできなくはなかったが、両親に会えるという交換条件を持ち出されればアシュレイを引き留める策もない。
力づくでというのも考えなくなかったが、ふたりの意思統一ができていなければダメだ。こうして考えているうちにも時間と機は過ぎてゆく。蔵人は腹の底に冷たいものが走り、小さく身震いする。
「で、そろそろナタリヤさまのご指示通りあとかたづけを始めるとしようかね」
オークの片割れである色が黒いほうの豚が薄ら笑いを浮かべながら甲高い声で言った。
「ゲシャシャシャ、バークシャのアニキよう。た、たたた、たまにはおれっちにやらせてくれよう。いっつも独り占めはずるいぜ」
色白の豚が欠けた牙を剥き出しにしてどもりながらズイと前に出る。
「そいじゃあランドレス。いっせーのっせでやるとすっか。あとは川にでも放り込んでおけば魚が始末してくれるぜ」
バークシャとランドレスの周囲をズラリと帝国兵が並んで半包囲している。
全部で三十八人。
蔵人を瀕死の手負いと見れば仕留めるには多すぎる数だった。
「おいおい、アシュレイとの約束はどうなったんだよ」
「ンなもん端から守る気はねぇよ。だいたいが、おれたち誉れも高きポーキー兄弟の手にかかって死ねるなんざチンピラごときにゃ過ぎたことだってのよ」
「ま、こっちも家畜風情が約束を守るとは思っちゃいなかったがな」
「なにをぬかしやがる!」
ランドレスが色白な肌を真っ赤にして怒鳴った。
対照的に色黒のバークシャは巨大な戦斧を肩に担ぎながら蔵人の様子を窺っていた。
「兄さんよ。ウォーカー家のご令嬢に雇われたのが運の尽きよ。おまえさんも男伊達で世間をのしてきたんなら最後くれぇは潔くしたらどうなんだ。その傷は深かろう。もっとも万全であってもこの堅陣を普通の人間が破れるはずもない」
「あいにくと俺は生まれつき諦めの悪い男でね」
蔵人は立ち上がると脇腹に刺さっていた矢をひと息に引き抜いた。治りかけていた傷口から鮮やかな血がパッと舞うが、胸元に刻まれた不死の紋章が白く輝くとたちまちに傷口がふさがり血が止まった。帝国兵のどよめきがドッと湧き上がる。ランドレスが目を白黒させて腰から大刀を引き抜いた。
それが合図だった。
蔵人は背負っていたザックを目の前に放り投げると、なんら躊躇なくきびすを返すと後方へ逃げ出した。
「あ、あの野郎。逃げやがった! 追え、逃がすな!」
この場にアシュレイがいない以上まともに帝国兵とことを構えても無意味である。さらにいえば、指揮官であるオークふたりを含めた四十人に囲まれれば厄介極まりない状況に落ち込むことになる。当然の帰結として蔵人は包囲から逃れるために走り回る方法を選んだ。
そうでなくとも、いま居る場所は遮蔽物が一切ない草地である。なだらかな丘陵無数に連なっているが、多勢を相手にするには心もとなかった。背後から怒号と喚き声が追いすがってくる。
幾多の修羅場をくぐり抜けた蔵人にとっては駆けっこは得意中の得意といえた。
まず、速い。その上にスタミナがあり、三十分程度ならば常人のほぼ全力疾走をスピードを落とすことなく続けられるほど心肺能力は強化されていた。
敵は訓練された帝国兵といえど集団行動がメインであり速度は自ずと差が生まれる。蔵人は駆けに駆けて、まず右手に広がる森へと狙いを定めた。人の手が入らない森は枝葉が縦横に広がって茂り、視界は悪く昼間でも夜のような濃い暗さが望めるのだ。おまけに人家から遠いこともあってかまともな道らしい道もなく、天然の悪路を走ることになる。ダンジョンで長らく戦い続けた蔵人の足腰は野生の獣以上に鍛えられている。足場の悪い場所こそ柔軟な筋肉と優れたバランス感覚の本領が発揮されるのだ。
蔵人のすぐあとを追ってきたのはひとりだけだった。案の定にもっとも手強そうに見えるオークの兄弟の姿も気配もそばには感じられない。三十メートルほど遅れて五人ほどが続いている。重たげな甲冑を着込んでいるので、防御力は高くとも息が絶え絶えになっていることが呼吸音で理解できた。
蔵人は木立をぐるりと回って取って返すと長剣を抜き払いざま、迫ってきた男の首元に叩きつけた。無銘であるが名剣だ。刃は男の首をすばりと切断すると、赤黒い血を宙に舞わせた。
蔵人はまずひとりを斬って敵の気勢を削ぐと、そのまま迫っていた五人に飛び込んでゆく。右に左に剣を使うと、たちまちのうちに五人が首を斬られてその場に倒れ伏した。敵の甲冑に刃が触れることは一度としてなかった。蔵人の剣の技量が帝国兵たちよりもはるかに上回っている証拠であった。
「とーうっ」
蔵人は怒鳴り声と共に投げられた槍を跳躍してかわすと、さらに森の奥へと駆け入った。だが、いつの間にか前方に回っていた七人ほどの男が一斉に攻撃を仕掛けてきた。
「カマーン。まとめてかかってきなさい」
木立の多い森の中では長槍は振り回すことも容易ではない。
自然、メインウェポンは剣一択となる。
蔵人は泥と石で彩られた足場をこともなげに移動しながら長剣を巧みに操り、迫る七人をことごとく斬って捨てた。
喉や首や露出した腕を断ち割られた男たちが苦悶の表情で森の泥濘に塗れて唸っている。
ひと息つく暇もなく四方から男たちが飛びかかってきた。
蔵人は左手に鞘を持つと迫りくる刃を叩き落して攻撃を減じると、独楽のように回転しながら激しく両腕を振るった。
鉄製の鞘はそれだけで充分に鉄棒の役目を果たし、男たちの顔面を叩き潰した。右手に持つ長剣は男たちの顔面や首筋を鋭く裂いてあたりに血の霧を作り出した。
四人の男を屠ったのち、蔵人はもはやほとんど戦意のない五人組に襲いかかった。長剣は鋭い唸りを生じさせながら鉄兜ごと顔面を両断し、竦み上がって動けなくなった男たちにも容赦なく振るわれた。
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