第56話



「…姉上、何か悲しいことでもありましたか?」

「どうして?」

「…泣いています。」

「…え、」



自身の頬に触れ、驚く。自分では気づかないうちに、頬が涙で濡れていた。



「…どうして…うぅ、」



自覚した涙は堰を切ったかのように、両目からポロポロとこぼれ落ちる。


こんなの、おかしい。止めなければ、と何度も何度も目元を拭うが、涙は一向に止まる気配がみられない。



「姉上、そんなに目元を擦っては傷が出来てしまいます。」



そう言う義弟はそっと私の手を取り、目元から離した。今まで手の甲を濡らしていた涙は、今度はポタポタと膝をを濡らしていく。



「やはり、殿下に何か酷いことをされましたか?」

「違う、違うの…。」



義弟の言葉に私は首を横に振る。

殿下に酷いことなんてされていない。寧ろ逆だ。私が殿下を傷つけてしまったのだ。

過去を話す、彼の辛そうな横顔が忘れられない。


過去を知ればアルベルト様を私の中で過去のものに出来ると、殿下に偉そうなことを言っていたくせに、結局は何も変わらず、ただただ彼に辛い過去を思い出させてしまった。



…あぁ、そうか。

自分が早く楽になりたいが為に、綺麗事を並べて優しい彼を利用していたんだ。

早く300年前の苦しみから解放されたくて…。


それに気付いた私は愕然とした。

私はこんなにも浅ましい人間だったのか。

そんな私が泣くだなんて、筋違いにも程がある。



「可哀想な姉上。こんなにも傷付いて…」



私以上に傷付いた表情を見せる義弟は、そのしなやかな指でそっと涙を拭った。義弟の指先に鈍く光る雫がつく。それを見て、より一層涙が溢れ出した。


可哀想なのは義弟の方だ。義弟は300年前と何も関係ないのに、いつも勝手に巻き込んで、心配させて…。

涙なんて見せずに「心配しないで、私は大丈夫よ。」と笑って弟を安心させるのが、本来の姉の姿だ。それが出来ない私はやっぱり出来損ないだ。



「ごめんなさい、ごめんなさい、ユーリ…」

「…姉上…。」



そっと椅子から立ち上がった義弟は、謝りながら泣きじゃくる私の足元に膝を付いた。

視線が低くなった義弟は、その切なげに揺れるシトリン瞳でこちらを見上げる。


あぁ、またこんな顔をさせてしまった。



「辛い思いをしてまで、過去を知ろうとしないで下さい。」

「どうして…」

「貴女は、300年前のこととなるといつも泣いている。それを見るのがとても辛いのです。」



義弟は私の両手を握り締め、縋るようにその手を自身の額に当ててきた。



「もう、いいじゃないですか。貴女は過去と向き合おうとして、十分に苦しんだ。この先過去を追い求めても、きっとまた姉上が苦しむだけです。」



義弟の言う通り、真実を知っても、また苦しむだけかもしれない。だったらこのまま知らなくてもいいのでは?



「過去というものは徐々に忘れていくものです。そんな忘れゆく過去なんて姉上が知る必要なんてない。」



そうだ。所詮、過去は過去。過ぎてしまったことはどうすることも出来ない。

だったら抗うことなく、過去を忘却してしまえばいい。

そうだ、そうだ、義弟の言う通りだ。



「過去を完全に忘れるまで…いえ、忘れた後も僕がずっと貴女を支えます。僕は姉上が居てくれるのなら、それでいいのですから。」



その優しい言葉に、微かに残っていた理性は完全に崩壊した。



「私も、ユーリが居てくれるのなら、それでいい…!」



椅子から崩れ落ちた私はそのまま、傍らで床に膝をついている義弟に抱きついた。

義弟の首に腕を回し、顔を肩に埋める。義弟は、よろけることもなく、しっかりと私を抱きとめてくれた。



「もう、苦しいのは嫌なの。はやく、楽になりたい、アルベルト様のことを忘れたい…!でも、出来ない、あの人が怖い、怖いの。助けて、辛いの、嫌なの。うぅっ…、」



300年前のとこ、テオドール殿下のこと、モニカのこと、…アルベルト様のこと…。全てが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、まともに頭が働かない。

支離滅裂な言葉を泣きながら口走る私の背中を義弟は優しく撫でる。



「大丈夫ですよ。少し時間はかかると思いますが、その悪夢は必ず姉上の中から消えます。だから、もう何も怖くないですよ。」

「ううぅ、ユーリ、ユーリ、」

「可哀想な姉上、今日は疲れたでしょう。ゆっくりと休んでください。」



その言葉に従うように、急に瞼が重くなってくる。

徐々に力が抜けてくる身体を義弟は抱き上げ、まるで割れ物を扱うかのように私の身体をベッドの上にそっとおろした。身体がリネンに沈み、ふんわりと安心する香りが鼻腔を擽った。あぁ、これは義弟の香りだ。



「姉上が寝るまでここに居ますから、安心して下さいね。」



義弟はベッドに腰掛け、私の頭を撫でた。それがあまりにも気持ち良くて私は早々に意識が途切れそうになる。



「…ユーリ、」

「はい。」

「できそこないの、おねーちゃんでごめんね…」



そう呟いた私の意識は完全に暗闇に沈んでいった。



※※※※※



気付けば、私はあのカモミール畑に立っていた。

そして、足元には花畑に横たわる、一人の少女がこちらを見上げていた。



「何をしているの?」



私は少女に語りかける。



「縛られているのよ。私はここから離れなれない。」

「…縛られているようには見えないわ。」



白いドレスを身にまとった少女の身体には、特に拘束されている様子が伺えなかった。



「貴女、この忌々しい鎖が見えないの?」



少女の言葉に私は頷いた。



「…可哀想に。貴女はこれを鎖だとは思っていないのね。」



少女の哀れみを含んだ視線に首を傾げる。この、少女は一体何を言っているのだろう。



「ねぇ、覚えている?この前にした質問。」



いつだったか、この少女に何か問われたような気がする。



「もう一度貴女に聞くわ。“用済みになった貴女はどうするの“?」



そうだ。そんな質問だった。ぼんやりとする頭で考える。



あの子が私を必要としなくなったら…



私は笑った。



「死んじゃうかもしれないわね。」



いつの間にか、カモミール畑は少女の首から滴り落ちる血で真っ赤に染っていた。










第3章「後退」完




















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