第52話「アカシアの香る庭で」

 その時わたしは、裏庭を走っていた。

 メインの教室とは別棟となる演奏室に楽譜を忘れたことを思い出して取りに行った、その帰りだった。

 次の授業までの時間が残りわずかとなり焦った結果、近道である裏庭を選択したのだ。


 そういう成り行きなのでいつも一緒にいるリリゼットは傍におらず、クロードはまだ仕事中で、学年が遥かに離れたウィルもアンナもおらず、わたしは完全にひとりだった。


 アカシアの香る通路を急いでいると、やがて遠くから声が聞こえてきた。

 十代の男の子が、1……2……3人?


「………………は?」


 状況はすぐに見て取れた。

 地面にうずくまっているハンネスを、ミゼルとアルゴがよってたかっていじめている。

 口汚く罵り、何度も何度も蹴り飛ばしている。

 ハンネスはただ亀のように身を丸め、ひたすらそれに耐えている。


「──やめなさい!」


 冷静に考えてみるならば、誰か人を呼ぶのがベストだった。

 用務員か、衛士か、先生か。他の施設の従業員だっていい。

 とにかく助けを呼ぶべきだった。

 だけどわたしはそうしなかった。


「あなたたち、なんてことするの! よってたかってハンネスをいじめて! 恥を知りなさい!」

 

 完全に頭に血が上っていて、とにかくハンネスを助けなければとそれだけを考えた結果、気づいた時には双子を突き飛ばしていた。

 ハンネスを後ろにかばうような格好で立ちはだかっていた。


「……なんやおまえ、まさかひとりで来たんか?」


「あの用務員も、リリゼットもなし? マジかいや」


 わたしが来たことに驚いた双子は、しかしすぐにいつものペースを取り戻した。

 ひゅうと口笛を吹いたかと思うと、いやらしい笑みを浮かべながらじりじり近づいて来る。


「な、なによあんたたち……?」


 そこに至って、わたしはようやく自らの置かれている状況を悟った。

 頼りのクロードやリリゼットがいない。

 ここにいるのはいじめっ子ふたりに、ハンネスとわたしだけ。

 しかもわたしは女で、中身はともかく見た目は絶世の美少女テレーゼときてる。


 こ、これはいかん。ダメなやつだ。

 具体的には薄い本みたいにされちゃう展開だ。

 ぐぬぬぬぬ、なんてことだ。

 前世のわたしなら絶対こんな目には遭わないはずなのに(襲う価値すらないという意味で)……見た目が良くなった結果まさかこんな窮地に……っ。 


「ちょっと……近づいて来ないでよっ」


 さすがに余裕のなくなったわたしは、顔を青ざめさせながら後退した。 

 出来ることなら脱兎の如く走り去りたかったが、あいにく後ろにはハンネスがいる。

 まさかこのコを置いて逃げ出すわけにもいかないし……。

 わーん、これどうしたらいいの?


「来ないでっ、来ないでってばっ」


 混乱しながらも、わたしは必死に抵抗した。


「まあまあええやんけ、仲良くしようや」 


「せやせや、日頃のあれこれは忘れてなあ、こうしてくっついてなあ」


「や、やめなさいよ、ほら、近づくとわたしの必殺拳法が火を噴くわよ」


 内心はともかく外見だけは取り繕おうと、ボクシングのファイティングポーズをとった。

 ついでにシュッシュッとワンツーパンチの真似事などしてみるが、それは双子の失笑を誘っただけに終わった。


「あっはっは、ほんまおもろい女やなあ、こうゆーのはなかなかおらんで」


「抱いたらどう変わるか見ものやな。意外と好き者で、どっぷりハマったりな」


 ゆっくりと左右から、猫がネズミを弄ぶが如く距離を縮めて来る双子。


 ちくしょう、誰が好き者か。言いたい放題言いやがって。

 あんたらみたいなゴミ男どもに、死んだって抱かれてなんかやるもんか。

 わたしは歯を食い縛ると、戦う意志を固めた。


「ほら、こっち来いや」


「やめて! 触らないで!」


 胸元に向かって伸びて来たミゼルの手をバチバチと必死で叩く。

  

「……クソが。このアマ、調子に乗りおってからにぃ~……」


 叩かれたのが痛かったのか、あるいは単純に思い通りにならないことで苛ついたのか。

 ミゼルはわたしの攻撃を無視して強引に近づいて来た。

 片手をわたしの髪に伸ばすと……。


「痛ったああああーいっ!」


 髪をぐいと引っ張られた痛みで、わたしは涙目になった。

 

「ほれ、こうなったらもうおしまいやろ。女の力で男に勝てるわけない。諦めて大人しくしいや」


 ミゼルは勝ち誇った笑みを顔に浮かべる。


「何がおしまいよっ。こんなのまだまだ……っ」


 そうは言いつつ、実際にはかなりのピンチだった。

 男子と力勝負で勝てるわけがない上に、髪まで掴まれてしまった。

 

 しかしわたしは諦めなかった。

 そうだ、逃げられないのなら逆に向かって行けばいいのだ。


「あんたたちなんかにぃ~……」


 痛みに耐えつつ頭を後ろに反らせ、その反動で一気に前に突き出した。

 完全に油断したミゼルの鼻っ柱に、思い切り頭突きを叩き込んだ。


「おっ……ごっ……?」


 もろに頭突きをくらったミゼルは、たまらずその場にしゃがみ込んだ。 

 見ると、顔を押さえた手の隙間からはぽたぽたと派手に鼻血がこぼれ落ちている。


 熊に襲われてどうにもならなくなった時は鼻を狙え。

 満員電車の中で暇つぶしに読んでいたネット記事情報が役に立った。


「なんてことするんやこの女あっ!」


 ミゼルがやられたことで怒ったアルゴが、拳を振り上げ向かって来る。

 顔を真っ赤にして唾を飛ばし、たいそうな勢いだ。


 だが、勢いならわたしも負けない。

 ひとり倒した高揚感で、むしろ無敵モードに入っている。


「先にやったのはあんたらでしょ!」


 これまたネット記事にあった暴漢に襲われた時の対処法通りに股間を狙って蹴り上げたが、運動神経のいいアルゴは難なくこれを回避。


「アホが、そんな見え見えの蹴りが当たるかい!」


 お返しとばかりに拳を飛ばして来る。


「ひゃっ……?」 


 ビビったわたしは思わず目を閉じたが、なかなか衝撃はやって来ない。

 いったいどうしたんだろうと思っておそるおそる目を開けると、ハンネスがアルゴの腰に後ろからしがみついている。


「な、なんやこのデブ、離さんかい!」


 アルゴはハンネスを振りほどこうともがくが、ハンネスも必死だ。全体重をかけて押しとどめている。

 

「今だ! テレーゼ!」


「ありがとハンネス!」


 隙の出来たアルゴの股間を、わたしは今度こそ思い切り蹴り上げた。

 

「ぐお……っ?」


 女子にはわからない男子特有の急所への一撃。

 これにはたまらず、アルゴはその場に倒れ込んだ。

 口の端から泡を噴き白目を剥き、どうやら失神したようだ。


「ハアー……ッ、ハアー……ッ、ハアー……ッ」


 高揚が止まらない。

 心臓はどこまでも激しく脈を打つ。

 頭が痺れたようで、考えがまとまならい。


「ハアー……ッ、ハアー……ッ、ハアー……ッ」


 敵を打倒する。

 一歩間違えば人生終了のギリギリを、すんでのところで切り抜ける。

 そんな経験は初めてだった。


「ハアー……ッ、ハアー……ッ、ハアー……ッ」


 呼吸はなかなか元に戻らない。

 思考も、手足もどこか、ふわふわ浮いたところにいる。


「ハアー……ッ、ハアー……ッ、ハアー……ッ」


 でも、これだけはわかっていた。

 わたしは今、人生最大の危機を乗り越えたのだ。

 クロードやリリゼットの力を借りることなくハンネスと。

 弱い者同士のタッグマッチで、勝利を収めたのだ。


「やった……やったのよね……?」


 自分の声すら、遠くに感じる。


「すごい……テレーゼ……ホントに勝っちゃった……」


 ハンネスが、呆然としながらその場にへたり込んだ。

 その動作を見て、わたしの緊張の糸もまた切れた。

 崩れるようにその場に座り込んだ。


「へ、へへへへへっ。だよね? わたしの勝ちだよね? ヴィクトリーよね? はあ~……良かった。怖かったあ~……」


 やがて、遠くからわたしを呼ぶ声が聞こえて来た。

 首を巡らすと、声の主はクロードとリリゼットだ。

 なかなか教室に顔を出さないわたしを探しに来てくれたのだろう、ふたりとも心配顔をしている。


「あっはっは、あのふたり、今起こった事を話したらどんな顔するかな? ねえハンネス?」


 まだ放心しているハンネスに笑いかけると、わたしは脱力感と共にその場に寝転んだ。

 目いっぱい戦ったせいで体中が痛かったが、勝利の余韻が薄れさせてくれた。

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