第2話「エリーゼのために」

 ミレ(♯)ミレ(♯)ミシレドラ~♪

 ピアノをやっていない人でも知っているだろう、『エリーゼのために』で最も有名な、哀愁を帯びた出だしの9音。

 その最後に、左手でベースとなる和音を合わせた。

 ラドミ、続けてソ(♯)レミ。

 右手は休むことなくメロディラインを刻み続ける──。


「おい、なんだこの曲……?」

「……聞いたことねえな。誰の作だ?」

「や、しかしこれは……」


 聞いているみんなが息を呑む気配が伝わってくる。


「すすり泣くような……物悲し気な……?」

「なんだ……? 心がざわつく……」 

「悩むような、惑うような……これはまるで恋……悲恋の曲なのか?」


 さすがは音楽の都といったところだろう。

 そこらの普通のお客さんですらも音楽を理解している。

 音の連なりや構成から、ある程度作曲家の思惑を想像出来る感性がある。


「おい、なんで目ぇ閉じて聞き入ってんだ。邪魔しろ邪魔」

「おまえこそちょっと顔赤いじゃねえか」

「いやこれは違くて酒のせいで……」


 わたしの妨害をするよう命じられていたのだろう、ゴロツキたちがこそこそとつつき合う。

 おまえやれよとかいや俺には出来ねえよとか、不毛な譲り合いを続けている。


 構わず演奏していると、みんな抵抗を諦めたかのように大人しくなった。

 身を正して、すっかりわたしの演奏に聞き入る体勢だ。


「……」


 わたしはそっと微笑んだ。


 そうだ、そんなにあまっちょろい演奏をしているつもりはない。

 人の胸を打つように、心のひだの奥底までも届くように。

 来る日も来る日も鍵盤に向かい、努力してきたのだ。

 悪党どもの姑息な思惑など、入り込む余地はない。


 ……などと調子に乗っていたのもつかの間。

 曲が中盤にさしかかると、一気に辛くなって来た。


 恋するベートーヴェンの前に垂れこめる暗雲と、絶望の未来。

 そこは曲中で最も盛り上がる部分であり、最も難しい部分でもある。

 テンポアップに装飾音符の登場。右手はもちろん左手の動きも、どうしてたって複雑にならざるを得ない。


「くっ……」


 いっそ装飾音符だけでも削るか?

 いや、それでは主題が削がれる──やるしかないっ。

 

「指が……重い……っ」


 左手だけでなく、右手の動きも悪くなって来た。

 当たり前だ、これはピアノなんて弾いたこともない素人の体。

 簡易版とはいえ、最後までノンストップで弾き続けるのは難しい。

 腕が上がらない、指がもつれる。


 だが──


「それが……どうしたっ」

  

 わたしはギリと奥歯を噛みしめた。


「子供の頃から何度弾いてきたと思ってるのっ、こちとら青春全部、音楽にかけてきたのよっ」


 外に遊びに行きたかった、友達を作りたかった。 

 だらだら過ごす休日が欲しかったし、恋人と過ごす青春だって欲しかった。


 それらをすべて飲み込んで頑張って、なんとか体得した技術なのだ。

 多少のブランクも、体の変わったハンデだって関係あるものか。


 音楽で競わされることを恐れ、泣いていたウィルのためにも。

 音楽が辛いだけのものじゃないと証明するためにも。


「これで……どうだっ!」


 全身の力を振りしぼり、両手を躍動。

 ついにかなうことのなかったベートーヴェンの悲恋を、鍵盤の上に表現し切った。

     



 □ ■ □ ■ □ □ ■ □ ■ □ ■ □




 曲が終わると同時に、みんなが総立ちになった。

 拍手に口笛、声援が辺りにこだました。


「すげえぞ嬢ちゃん! あんたの勝ちだ!」

「本物だ! ドミニクじゃあんたの相手にならねえや!」


 手放しの賛辞が、そこかしこから送られる。

 音楽決闘の勝敗は聴衆の反応によって決められるので、これは当然わたしの大勝利。


「お嬢様、いったいいつの間にこんな素晴らしい技術を……?」


 クロードはわたしの変貌に目を見開いて驚き。


「……お姉ちゃん、すごい……っ」


 ウィルもまた、呆気にとられたようにわたしを見ている。


「ハア……ッ、ハア……ッ」


 荒い息を吐きながら、わたしはしばらくぶりに受けたその賞賛・ ・ ・ ・に感動していた。

 頬を伝う汗を拭うことすら忘れ、その高揚感・ ・ ・ ・ ・に浸っていた。


「ええいてめえら! なにやってんだ! よりによってそいつに拍手を送るやつがあるか!」


 感動の余韻をぶち壊すかのように大声を上げた者がいる。

 後ろに控えていたハゲの巨漢だ。

 おそらく金貸しアルノーなのだろうそいつの指示で、ゴロツキたちが辺りの椅子やテーブルを蹴飛ばし、騒ぎ始めた。


「そ、そうだ! こんなのはインチキだ!」とか「女のくせに!」とか、挙句の果てには「そもそも俺たちは代理人を認めてねえし!」とか言い出す始末。


「なによそれ……男のくせに往生際の悪い。ああ、もしかして踏み倒す気ね? 借金を帳消しにするの嫌だから、暴力でごまかそうってわけね? 最低、人間のクズ、死ねばいいのに……あっ」


 思わず本音をこぼしてしまってから、わたしは失敗に気づいた。

 

「さ、すがにちょっと言い過ぎたかも~……ですかね?」


 恐る恐るゴロツキたちの様子を窺うと、明らかに激おこのご様子。

 拳を握り、顔を真っ赤にしてこちらをにらみつけている。


「なんだとこのアマ!」

「その生意気な口を縫い付けてやろうか!?」

「ああもうかまわねえからやっちまえ!」


 どっとばかりに押し寄せるゴロツキたち。


「ひゃ……っ?」


 これは終わった、さすがに終わった。

 第二の人生早くもしゅうりょー……と思いきや、神はまだわたしを見捨てていなかった。


 頭を抱えてその場にしゃがみ込んだわたしと迫り来るゴロツキたちの間に、クロードが颯爽と立ちはだかってくれたのだ。

 ちょっと長めのスーツの裾を翻して、拳をぽきぽき鳴らしながら。


「……ほう、貴様ら。お嬢様を傷つけようというのか?」


 もの凄い眼光ですごむクロードに、ゴロツキたちは慌てて立ち止まった。

 

「な、なんだこいつ急に……?」

「ガキの出す迫力じゃねえぞ……いったい何者だ?」

「おいおい、ビビんなよおまえら」


 いやおまえだってビビってるだろとか、俺の足の方が一歩前に出てるだろとか、不毛極まりないやり取りをするゴロツキたち。


 しかしまあ、気持ちはわかる。

 クロードの全身から漂う殺気は、わずか18歳の青年が出していいものじゃない。

 格闘マンガにありがちなほら、間合いに踏み込んだ瞬間ぶっ飛ばされるとか、そういうタイプのあれを感じる。


「てめえら何してんだ! そんなガキひとり、とっととやっちまえ!」


 アルノーが、巨体に似合わぬ甲高い声を張り上げて叱咤した。


「くっ……しょうがねえ、やるか」

「アルノーさん怒るとしつけえからな……」

「じゃあいっせーので、な?」


 渋々といったようにゴロツキたちは顔を見合わせると、タイミングを合わせてクロードに殴りかかった──と思った次の瞬間。

 

 スパーン、と小気味いい音を立ててゴロツキたちのひとりの体が後ろへ飛んだ。

 音はスパンスパンと連続した。そのたびゴロツキたちがひとりまたひとりと後ろへ飛んでいく。

 

 クロードの蹴り技だ。

 長いリーチを生かした鋭い蹴りがゴロツキたちをとらえ、次々にぶっ飛ばしていく。


「わあぁー……すっごい……」


 バルの天井に頭から突き刺さっている者、床にくの字になって突っ伏している者、店内から店外まで蹴り出された者もいる。

 

「人ってホントに宙を跳ぶのねえー……」


 格ゲーのキャラみたいなクロードの活躍を、半ば呆れ気味に眺めていると……。


「くっ……くそっ、覚えてやがれっ」


 突然の形勢不利にビビったアルノーがどテンプレな三下台詞を吐いて逃げ出し、ドミニクも慌ててその後を追った。


「ふっふっふっ……悪は滅びるってやつね」

 

 脅威が去り、勝利確定。

 わたしは腰に手を当て不敵に笑った。


「モブ如きが、うちのクロードに勝てるなんて思わないことね」


「……お嬢様、次からは発言に気を付けてくださいね」


 調子に乗っているわたしに、クロードがいかにも疲れたような表情で釘を刺してきた。


「ここはもう王都ではないのですからね? 今はわたしがいたからよかったようなものの、もしそうでなかったらいったいどんな目に遭っていたことか……」


「う……ま、まあそりゃそうか……」


 いかにもモテなさそうなゴロツキたちだったし、アルノーもスケベそうだったし。

 そこへ来てテレーゼのこの美貌だもん、きっと薄い本みたいな目に遭わされていたに違いない。


「わ、わかったわよ。次からは気をつけるから……っと?」


 答えた瞬間、頭から血の気が引いた。

 膝から力が抜け、急に体を支えられなくなった。


「あれ……? なんで……?」


 わたしは床に崩れ落ちた。

 目の前が暗くなり、視界が狭まった。


 あれ? やっぱり人生終了?

 炎が消える前の一瞬揺らめきとかそういうやつだった……?


 クロードの声を遠くに聞きながら、わたしはそのまま意識を失った。

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