第71話

 木漏れ日の落ちる森の中を、ゾウほどもある巨体が、のしのしと歩いていた。


 トカゲの下半分が巨大化したような図体から、大蛇に似た頭部が九つ生えたような姿の怪物だ。


 ヒュドラと呼ばれるそのモンスターは、今、飢えを満たすための獲物を探していた。


 ヒュドラに知的生物のような意志はなく、あるのは獣の本能だけだ。


 ヒュドラは今、二日前に食い損ねた獲物の群れを探していた。


 狼の耳と尾を持った獣人の群れを見付けたのに、そのときには一体も食えずにすべて逃げられてしまったのだ。


 あの獣人たちは、もう遠くに逃げただろうか。

 ひょっとしたらまだ、このあたりにいるかもしれない。


 ヒュドラはあの獲物たちを食べたい一心で、今日もあたりを探しはじめた。


 すると、どうしたことだろう。

 喜ばしいことに、獲物たちが向こうから姿を現したのだ。


 森の中、遠くに姿を現した獲物たち。

 その数は、ヒュドラの首の数の二倍以上はいた。


 横並びになって、多くの者は槍などの武器を構えている。

 ヒュドラを攻撃するつもりだろうか。


 ああいった武器で攻撃されると、ヒュドラでもそれなりには痛い。


 だが致命的なダメージさえ受けなければ、再生能力によって傷はすぐにふさがるのだから、あまり気にすることもない。


 それに何より、今は食欲が勝った。


 ヒュドラは獲物の肉の味を期待して、一目散に突進した。


「来たぞ! 戦士たちよ、槍を放て!」


 ひときわ大柄な獣人──もちろんヒュドラと比べるとはるかに小さい──の号令とともに、獣人たちが手にしていた武器を、ヒュドラに向かって一斉に投げつけてきた。


 ほとんどは槍だが、中には手斧もあった。


 さらには獣人じゃない人間もいて、そのうちの一人は弓から矢を放った。


 投射された武器の半数ほどは、狙いを外してヒュドラの首の間を抜けていったり、地面に突き刺さったり、木の幹に当たったりした。


 残りの半数ほどはヒュドラに命中し、その表皮を突き破って肉にぐさぐさと突き刺さった。


 だが深く刺さったものは一つもなく、それらはヒュドラの突進の勢いでぼろぼろとこぼれ落ちていく。


 またそうしてできた傷口も、ヒュドラの体に宿る超常的な再生能力によって、瞬くごとにみるみる癒されていった。


 十も数えるうちには、すべての傷が癒えて元通りになっているだろう。


 ヒュドラは何ら気にすることなく、獲物たちに向かって突進していった。


 獲物たちはもう、すぐ目の前だ。


 獣人たちは予備の武器を手にしていたが、それを投げつけるよりも早く、ヒュドラは彼らのもとにたどり着いて食事にありつけるだろう。


 だがそのとき、杖を構えた人間の少女──獣人たちの後ろに隠れていた──が、少し厄介な攻撃を放ってきた。


「猛き雷撃よ、撃ち貫け──ライトニングボルト!」


 轟音と共に、稲妻が飛んできた。

 稲妻はヒュドラの体を貫いて、通り過ぎていく。


 ヒュドラにとっては、なかなか手痛い一撃だった。


 ダメージそのものは、直前に突き刺さった武器のすべてに及ぶほどではないが、問題はそのダメージの性質である。


 ヒュドラの再生能力は、火炎や雷撃による強いダメージを受けると、一時的に働かなくなるのだ。


 少々まずいことになった、というのが今のヒュドラの感じ方だった。


 だがそれならば、まずあの杖を持った人間の少女を貪り食ってしまおう。

 肉も柔らかそうだし、ジューシーに違いない。


 ヒュドラの本能はそう決めて、獣人たちの後ろに隠れている杖を持った少女を第一の標的にすえて、九つの首を伸ばした。


 手前にいる獣人たちを何本かの首を使ってどけてから、別の首でその奥の少女を食べよう。


 その後に周りの獣人たちも、片っ端から食い荒らすのだ。

 きっとヒュドラの空腹を満たしてくれるだろう。


 だが、そのヒュドラの願いが叶うことはなかった。


 杖の少女よりも遥かに厄介な敵が、獲物の群れの中に潜んでいたのだ。


「ケヴィンさん、今です!」


 杖の少女がそう叫ぶと同時、一人の人間の少年が、ヒュドラに向かって突っ込んできた。


 否、本当は獣人たちも一斉に攻撃してきたのだが、それらの有象無象が霞むほどに少年の存在が鮮烈だったのだ。


「──はぁああああっ!」


 少年は白光をともなう斬撃を連続で放ち、ヒュドラの首をまず二つ、あっという間に落とした。


 切断された二つの首から、血が激しく噴き出す。


 ヒュドラは苦悶した。

 ヒュドラに感情があるとするなら、激しい驚きと焦りも感じていただろう。


 同時に、獣人たちの槍や斧や格闘術による打撃もヒュドラに幾許かずつのダメージを与えていたが、二十人ほどいる獣人たちの攻撃すべてよりも、少年一人の攻撃が与えたダメージのほうが大きかったほどだ。


 ヒュドラはすぐさま、攻撃方針を変更した。

 七つ残っている首のうち四つを少年に向けて、その矮小な体をかみ砕こうとした。


 だが少年は、四つの首の攻撃のうち三つをひょいひょいとかわし、一つを盾で殴りつけて軌道を逸らして、すべての攻撃をあっさりとやり過ごした。


 少年はさらなる光の斬撃を放ち、ヒュドラの首を易々と、そして次々と落としていく。

 一つ、二つ、三つ──


 ヒュドラの本能が逃走を望んだときには、すべてが遅かった。


 ヒュドラの首が一つもなくなるまでに二十を数えることはなく、向かうところ敵無しであったはずの凶悪な魔獣ヒュドラは、一矢を報いることすらできずに力尽きた。


 ヒュドラのすべての首を切り落とし、魔獣が動かなくなったのを確認した少年──ケヴィンは、仲間たちのほうへと振り返る。


「ふぅっ……。どうにか犠牲を出さずに、倒すことができましたね。──それにしてもルシアさん、すごいです。雷撃ライトニングボルトって、かなり高位の魔法でしたよね。いつの間に使えるようになったんですか?」


「ふふん、私も成長しているんですよ。……と、自慢したかったんですけど、ケヴィンさんの前では何をやっても霞みますね……」


「い、いえ、そんなことは……! ルシアさんの魔法がなかったら、再生能力のせいでもっと大変でしたよ!」


 そんなやり取りをする冒険者たちを横目にしつつ、狼牙族の戦士たちはあまりの呆気ない勝利に驚いていたのだった。

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