曇天


 また雨が降り始めた。

 茉莉花は校舎のひさしの下で手をかざし、どんより曇った空を仰ぐ。校舎脇に植えられた紫陽花がしっとりと濡れていく。

 陰鬱いんうつな気分が増し、ないはずの古傷が傷むような気がする。


 捕らえられ酷い拷問を受け続けた記憶。

 鎖に繋がれ、殴られ蹴られ、手足の爪は全て剥がされ、指を折られ、焼けた鉄を押し付けられた。

 気絶すれば水をかけられ強制的に意識を戻され拷問係が疲れるまで同じ事を繰り返される。

 毎日のように訪れる司祭は『罪の告白』をしろと迫ったが、罪など犯した覚えはなかった。

 何を言われても心は動かなかった。ただ一つの面影だけを胸に秘めて口を閉ざし続けた。


罪など犯していない。

愛しただけだ。


 茉莉花はうっすら微笑んで飾り気のない黒い傘を広げる。

 天音は他校の研修会に出ているので今日はもう会えないだろう。大人しく帰ろう。


 校門を出てしばらく歩いたところで、ヒタヒタとついてくる足音に気付いた。茉莉花は溜息をついて振り返る。

「またか…」

 高架下の人気のない場所をわざわざ選んで距離を詰めてくる。

 以前菜々緒を助ける為に叩きのめした他校の生徒が未だに何かと絡んでくるのだ。

 来たところで撃退されるのは目に見えているのに。

 色を抜いた金髪の大柄な男子生徒が近づいてくるのを冷めた目で見つめる。

「何か御用ですか?」

 わざと丁寧な口調で尋ねると、男は頬を歪めて茉莉花を見下ろした。整ってはいるのだが粗野そやで短絡な印象は拭えない。ある種の女性にはモテそうな顔だ。

「話がある」

「なんでしょう?」

「ここじゃなんだから別の場所で」

「お断りします」

 茉莉花は警戒して傘を閉じた。何かしてくればすぐ反撃するつもりだ。

 男は苛立ったように濁った金髪をかき乱した。

「わかった。ここで話す!」

「………で?」

 話す、と言ったものの、急に赤くなって黙りこくった彼に先を促す。

「…俺と付き合ってください!」

「………」


何言ってんだコイツ。

手合わせか?


 茉莉花は言葉の意味が分からず目を瞬いた。

 先ほどの記憶に引きずられていて自分が女子高生だということを一瞬忘れていた。

 状況的には男子高生が女子高生に告白しているという場面なのだが、当の本人は全く気付いていない。


「決闘?」

「なんでそうなる!好きだから付き合ってくれって言ってんだよ!」

「おお、なるほど」

「おまっ、なんでそんな冷静なんだよ!」

 期待していた反応とは違ったのか、相手は地団駄踏まんばかりに憤っている。かなりの直情径行らしい。

「あれだけぶちのめされた相手に物好きだな。特殊な性癖でもあるのか?」

「せ…っ、性癖とか言うな!可愛い顔して強いとか惚れるだろ」

「そういうものか?」


分からん。

マリアが相手なら強かろうが弱かろうが可愛いと思うが。


「いいからちょっと来いって」

 一瞬の物思いに隙をつかれて二の腕を掴まれた。

「断る」

 掴まれた腕の方の手の平を大きく開き、相手に向かって大きく踏み込み、素早く肘を上げて振り切った。

 だが雨で濡れた足場が滑り、僅かによろめいた。その時、少し傾いた背中を誰かが支える。

 振り向いた先に天音が立っていた。

「女の子に乱暴は駄目だよ〜」

「誰だてめえ」

「この子の学校の先生」

「関係ねえだろ」

 型通りなチンピラのような台詞を吐く男に、天音はニッコリ笑う。邪気のない微笑みに男は一瞬毒気を抜かれて赤くなる。

 茉莉花は眉を顰めた。自分以外に笑いかけるのも気に入らないが、先ほどから平静を装った天音の手が震えている。

 茉莉花は天音の手首を握り走り出した。

「行くぞ」

「あ!おい!待て!」


 傘もささず、後ろから追いすがる男の声を無視して天音の手を引いて走った。

 怯えるくらいなら仲裁になど入らなければいいのに、と苛立ちながら。

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