茜色した思い出へ ~夏樹とミズキの場合~

柴田 恭太朗

1.渚にて

 波打ち際にたたずみみ、夜明けを待つ男女二人。あたりは薄暗く表情は読み取れない。彼らの足元は、一面細かく黒い湿った砂。穏やかに波が打ち寄せ、洗う音がする。時は初秋、夜明け前はまだ肌寒い。


 東の水平線では紫から茜色のグラデーションが、海との接点から空へとブルーブラックの夜の帳をまくり上げていく。朝日の揚力を静かに受け止めながらゆっくりと、だが着実に。今日が始まってゆく。


「茜色って、夕空だけのものじゃないんだ。初めて知ったよ、俺」

 男の顔が茜色に染まり始めた。彼は名を夏樹なつきといった。

「夕焼けは誰でも知っている人気者。朝焼けは知る人の少ない不遇の存在。どちらも良く似ているのにね」

 女の名はミズキ。声は透き通っているが、抑揚に欠ける。身に着けた白のワンピースが茜色に照らされて、全身血に染まっているかのようだ。

「暗いなぁ、元気出せよ。深呼吸しようぜ、気分が晴れるから」

 夏樹は両手を大げさに広げ、誘うように深呼吸してみせた。磯の香を含んだ潮風が、心地良く肺を刺激する。

「さっきから私、何度も言いましたよね?」

 ミズキは体ごと夏樹に向き直る。平板なトーンの言葉が心に寒い。

「えっ?」

「私に関わると不幸になりますよ」


 茜色から朱色に転じた朝の光を浴びて立つミズキ。彼女の瞳が朱色に、妖しく輝いて見えた。夏樹はミズキの顔を間近で見たのは、これが初めてだったことに気づく。うりざね顔に薄い唇。滑らかな肌は、なまめく青磁を思わせる。悲しみに満ちた双眸そうぼうが夏樹に向けられる。目が合った瞬間、彼の背筋をゾクリと冷気が這い登る。体が震えた。


「おーい。買ってきたよ、コーヒー」

 手を振りながら砂浜を駆けてくる、もう一人の男。ケースケである。

「なになに? ラブラブ展開?」

 息を弾ませたケースケはニヤニヤしながら、暖かい缶コーヒーを夏樹とミズキに手渡した。ミルク入り微糖コーヒーだ。

「いや、まさかのホラー展開。俺、コーヒーはブラックが良かったな」

 口をへの字に曲げて、夏樹はプルタブの指に力を込める。


 今は一緒に海を眺めているが、ミズキは見知らぬ他人だ。もちろん素性も知らない。二人が海に来る途中、道端で拾った女性だった。拾ったという表現が失礼なら、助けたと言い換えていい。いやむしろ、それが正確だ。


 もともと海へは夏樹とケースケの二人で向かっていた。BLな関係ではない。クルマを飛ばして、プライドを賭けたスピードチャレンジをしていたのだ。それは大学のサークル、自動車部の伝統的なタイムトライアルだった。


 ミズキとの出会いは、こんな具合に起こった。


 ◇


 深夜三時。

 国道で取り締まりを行っていた警官たちも、すでに引き上げた後。なだらかな起伏が続く山道には人一人の姿もない。路面のアスファルトは乾き、タイヤのグリップがよい。先ほどまで吹いていた気まぐれな風も、ピタリとやんでいた。タイムアタックをするなら、これ以上を望めない好条件だ。


 対向二車線の国道を一台の小さなクルマが疾走する。夏樹が駆るボーイズレーサーだ。路面をくねくねと這うセンターライン。フロントグリルの強力なドライビングライトが夜を切り裂き、白線をそして等間隔に並ぶキャッツアイを鮮やかに輝かせる。クルマの両脇をまばらな街灯が近づいては、シュン!と音を残し飛ぶように去ってゆく。国道の右手は途切れることなく続く林。この速度では黒くのっぺりした塀に見える。地図上では林のすぐ奥は崖だが、無論視界には入ってこない。


「そのカーブを抜けたら長い直線」

 ナビゲーターシートのケースケが、握りしめたストップウォッチを読み上げ、叫んだ。

「スゲえ! ここまで『高橋さん』の記録に勝ってる」


 高橋さんとは、夏樹たちのサークル自動車部にかつて所属したレジェンドだ。高橋さんの人となりこそ知らないが、彼の記録はサークルに歴然と残っている。記憶されるのは人ではない、だ。だからこそ、歴史的なタイムを叩きだすべく、夏樹たちは熱くなる。


 カーブを抜けたところで、夏樹はギアをトップに叩き込んだ。直線の長さは5キロ。ここでどこまでスピードを伸ばせるか、そしてそれを維持できるかにタイムはかかっている。

 国道のアスファルトは敷きなおされて間もない理想的なコンディション。ヘッドライトに濡れたような黒々としたフラットな路面が浮かび上がる。恐れていたバンプで車体が跳ねることもない。


 対向車がないことをいいことに、夏樹は遠慮なくセンターラインをまたいでクルマを駆った。路側の浮いた砂と砂利を警戒してのことだ。


 ふと、遠くドライビングライトの光芒の中に小さく白いものが浮かび上がる。車道の上をフワフワと動いているようだ。みるみる近づく。

 クルマの接近に気づき、ふわりと道を横切る白い影。ワンピースを着た女性だ。


「人!」「ブレーキ!」

 夏樹とケースケが同時に叫んだ。


 フルブレーキングとともに、ABS機構のないタイヤがロックし、タイヤが長々と悲鳴のようなスキッド音を上げる。夏樹はステアリングを中央に固持し、車体をスピンから回避する。

 永遠とも思えた時間の後、クルマが止まった。アスファルトがフラットで良かった。もし路面が荒れていたら、車体がバウンドして車線から弾き出されていた可能性もあった。そう考えて夏樹はゾッとする。タイヤのゴムが焼ける匂いと白煙とが後ろから追い付いてきた。


「轢いた?」

「いや、当たってない」

 二人は肩で息をしていた。アドレナリンが体中を駆け巡る。


 夏樹はクルマを旋回させ、やって来た道をライトで照らしてみる。

 道路の上には何もなかった。八十メートルほど先のアスファルトの上にベットリとタイヤ痕が残っている。


 彼らは道路の左右に目を配りつつ、ゆっくりとクルマを走らせた。

 タイヤ痕の箇所を通り過ぎても、やはり何もない。


「消えたな」

 夏樹は思ったことをそのまま口に出した。

「消えたね。幽霊? 季節外れの」

 ユースケがドリンクホルダーの珈琲を取って含む。夏樹と同様、口の中がカラカラに乾いているようだ。


「もう一度探してみるか」

 夏樹がクラッチを深く踏み込み、ギアをバックに入れる。彼がルームミラー越しに後方へ目をやったとき、はいた。


 鏡の中にはっきりと映る白い姿。バックライトに照らされ、フラフラと歩み去ってゆくワンピースの女性が見えた。


「見つけた。後ろだ」

 夏樹は鋭く車体を転回させる。キュっとタイヤが鳴った。再び海へと向かう道を走り始める。先ほどの全力走行と異なり、今度はひどくゆっくりとだ。


「あれか、どうやら無事っぽいな」

 ケースケも女性の姿を視認した。

「ああ」

 夏樹は女性の様子を観察し続ける。どこもケガしていないようだ。

「夏樹?」

 ケースケが夏樹の意図を察して気色ばんだ。

「ん?」

「タイムトライアルどうすんだよ!」

「やめやめ、今日はおしまい。ほうっておけないだろ」

「よしてくれよ~アレ絶対地雷だって。こんな時間に一人歩きする女だぞ?」

 ケースケの言う通りかもしれない。遊び人だけに、ヤツは女性関しての勘が鋭い。それでもなお、声をかけるべきだと夏樹は思った。

「こんな辺鄙へんぴなところで、見過ごすわけにいかないって」


 歩道を行く白ワンピースの女性の歩みは遅く、クルマはすぐに追いつく。彼女は接近するクルマを意識し上半身を強張らせた。それでも歩みは止めない。


 夏樹は女性の歩調に合わせてクルマを進めながら、左側のウィンドウを開けた。

「ほらほら声かけて。ケースケ得意じゃん」

 ヤツの腿を手の甲で叩く。

「ねえカノジョ、乗りたくば乗せてやらんでもないぞ?」

 ケースケが投げやりに声をかける。なぜか時代劇調だ。

「その言い方はありえない」

 呆れつつ小声で夏樹。


 ワンピースの女性が足を止めた。夏樹の位置からはルーフに隠れて顔が見えない。


「私にかまわないで」

 凛と張った涼し気な声がした。夏樹は意外に思った。フラフラした歩きから酔っていることを疑っていたのだ。


(ほらな? 行こ行こ)

 渋い顔したケースケが、声を出さずに口の動きで訴えてくる。

「駅まで遠いから、歩くと夜が明けるよ?」

 ムスッとしたケースケ越しに夏樹が話しかける。

「私、海に行くんです」

「ちょうどいい、俺たちも海へ行くからさ。乗って」


「私に関わると不幸になりますよ」

 彼女は厳かに言い放った。託宣を授ける巫女の口調で。


 思ってもみなかった女性の言葉に、夏樹とケースケは顔を見合わせた。

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