ダイシキカンデン

敲達咖哪

生い立ち

藤原ふじわらの はなぎれど あかく わがちいの ほほきめり


 おどこころちでことくと、そのままうたとなっただいがあった。そのおおくはすぐにわすられ、のいくつかはいっぷくめいのようにたたえられて、あるいはうわさつたえるなかだちとなったりして、こうせいつたえられたものもある。

 

 倭国やまとノくに藤原ふじわらというところは、高市郡たけちノこおりといういきなかの、ごくちいさいあざで、ただふじはなうつくしくくことによってられていた。この藤原ふじわらに、ゆいしょあるめいぞく大伴おおともったしきひとつがあり、そこには大伴噛子連おおともノくいこノむらじむすめんでいる。ふじむらさきはなやぐせつはとうにぎて、みどりえるころ、この藤原ふじわらいえひとまれた。

 ちちおやは、中臣連なかとみノむらじ氏上こノかみ弥気子みけこといった。ちいさいあんよをひらかせて、あとりとなりうることをたしかめる。かおはとればなみようより、まれたばかりだのにととのっているようで、かしこそだちそうながする。そこでなんだいまえだったかのせんからをもらって、

鎌子かまこ

 とわがぶこととした。そのめると、つとめのために小治田宮おはりだノみやかう。唐土もろこしみちうみえて、使つかいがつかわされるのを、おくらねばならない。


 このとし倭国やまとノくに炊屋姫尊かしきやひめノみことせいだいじゅうねんたった。

 そもそも倭国やまとノくには、だいてんちゅうしんともわれる天竺てんじくより、はるとおさんごくとうへだてられ、そのきょさんまんともまんともいう、たいかいかぶしまじまなかる。てんじくよりこったほとけおしえは、いまばんこくふうしていた。ほとけおしえをつたえるためとあれば、ばんかんしょもつけんちくかいちょうこくなどのすすんだじゅつや、ほうつくるのにひつようとされるおうごんなどが、かいがいからやすられる。

 かつてこのくにふるならわしのかえしにつつまれてあったとき炊屋姫尊かしきやひめノみこと蘇我大臣そがノおおおみせいおくれることをうれいて、ぶっきょうはんたいする物部大連もののべノおおむらじった。そしてときおうのうであってよくせいらないので、ともはかってこれをはいし、炊屋姫尊かしきやひめノみことおういたのであった。

 倭国やまとノくにくんしゅは、むかしから倭王やまとノきみばれ、このしまじましょこくめいしゅであった。しかし炊屋姫尊かしきやひめノみことみずか天王てんのうしょうした。天王てんのうとは、てんかいってぶっぽうしゅするかみのことであり、またぶっきょうそんすうするにんげんかいおうじゃをもそうぶことがあった。天王てんのうはまたおとりててんのうというくこともあった。炊屋姫尊かしきやひめノみこと天王てんのうしょうして、しゅうきょうさいのうしめした上宮太子かむツみやノみこあとりにめいすると、じゅうしちじょうけんぽうそうさせて、ほとけとそのほうそうりょとをとうとぶことをめいぶんした。


 こん使つかいをつかわすということも、そのもくてきひとつはがくもんそう唐土もろこし京師みやこちょうあんおくむことにある。てんじくまではとてもとおくて、ったというひとはこのくににはないが、ちょうあんへははるかむかし倭国やまとノくにの、じょおう使つかいがとおったことがあったとわれる。ちょうあんではほとけみちさかんにおこなわれているとく。これによってわがくにぶっきょうはよりさかえることであろう……。

 ただ弥気子みけこには、このりゅうあんのもとになっている。ほろぼされた物部大連もののべノおおむらじおうちょうさいになっていたように、なかとみおうしつしきおこなうことできてきた。そのでんとうてきは、ふつきょうなみられている。しかしそれはまあ、くんしゅのなさることなのだから、れるよりほかかたがない。どうであれ鎌子かまこには、なかとみせんよりいだのうをしかとおしえてそだてねばならない。 


藤原ふじわらの はなぎれど あかく わがちいの ほほさききめり


 弥気子みけこあるきながら、うたうようにつぶやくと、そのうたはどこにもしるされず、ただそらへとえていった。


 天王てんのうかいかくれたのは、鎌子かまこじゅうになるとしのことであった。上宮太子かむつみやノみこすでひととなり、その山背大兄命やましろノおおえノみこといなびて、田村王子たむらノみこせい天王てんのうとなった。しんてい飛鳥崗本宮あすかノおかもとノみやして、崗本天王おかもとノてんのうばれる。せんていをばとうとんで豊御饌炊屋姫天皇とよみけかしきやひめノてんのうしょうした。

 崗本天王おかもとノてんのうせいはじめに、おうしつつかえるうじうじわかものに、にしきこうぶりたまわるとので、弥気子みけこにもなかとみあとりのげよとおおせられる。

鎌子かまこ

 とすぐにこたえたいところであった。

 鎌子かまこあたまさとではあったけれども、しきれんしゅうなどはきらって、はくらいしょもつみたがる。がくもんをするのだという。がくもんなどというのは、いくらしたところで、かいがいのことがれるだけではないか。このくに中臣連なかとみノむらじとしてきるのにひつようなことはなにいのだ。いっそおいくにたりでもあととして、鎌子かまこにはきにさせてやろうかとおもうのも、あれこれとなやんでめかね、このさいえいには、ついに退たいせねばならないのであった。


 やまと国内くぬちから西にしとうげえて、うみちかところに、しまというがある。しまにはなかとみべっそうがあった。鎌子かまこなにかとゆうけては、ちちからはなれて、ここにたいりゅうする。ここには、しおかぜく。しおかぜかれて、にわみなとあるくと、ふねふくそうして、もつろしされ、ひとびとりしている。すいりょうのみならず、くに使つかいやそうりょもある。やまとうがらばかりではなく、百済くだら新羅しらき高麗こまときにはくれひとる。くれふねにもしれば、唐土もろこしへもける。

(はたほとけみちなるにりもすべけんや)

 とも、鎌子かまこおもうことがある。かいがいではがくもんによっててるというが、このくにではまれついたうじかくによってしかきられない。中臣連なかとみノむらじではとてもきなことはできないが、しゅっすればしゅぎょうといってこくわたのうせいひらける。

 そんなことをおもえがきながら、ようみなとまわりをぶらつく。

 ふと、うつすと、うまったおとこが、じゅうしゃをぞろぞろとれて、あるいてくのをる。うまたてがみそろえて、ひたいふさった、たかそうなわかこまで、おとこりっなりをしている。

「あれなるは、いずれのわかぎみぞや」

 とうでもなくくちからくと、

豊浦大臣とゆらノおおおみ長子えこなるべし」

 と、わせただれかがおしえてくれる。

 豊浦大臣とゆらノおおおみというのは、がノおみ氏上こノかみで、蝦夷えみしというじんぶつである。そのちょうなんならば、入鹿いるかといい、やがておおおみくらいぐものとこえる。

 ――丈夫ますらおなればくのごとくありたきものよな。

 とはわず、鎌子かまこはただのどらした。なるほどのようなだいぞくまれてこそのしょうだ。おおおみであってけんせいひとめしていれば、なかとみなどではとてもというわけだ。

 だが、そもそも蘇我臣そがノおみひゃくねんひゃくねんほどまえには、葛城臣かづらきノおみろうとうぎなかったとかいう。葛城臣かづらきノおみおとろえてのちいま蘇我臣そがノおみがある。といえどもかならほろびないものでもあるまい。もしなにことればどうであろうか。もしなにか……。

 そのそうぞうしおかぜかれてび、むねおくにそのねんだけがのこった。

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