47話 カロッサ(後編)

そこには、朝も夜も来なかった。


太陽は無かったが、かといって真っ暗闇という事もない。

空のような空間には赤い色がぼんやりと薄明るい光を放っていた。

ただ、まっすぐ上を見上げれば、遥か頭上に岩盤のようにごつごつとした天井がどこまでも続いていて、ここが中間界では無い事をはっきりと伝えていた。


(あいつは、こんなとこで産まれたのね……)


カロッサは初めて訪れた獄界を、もう少し見て回りたくて、興味の惹かれるままにあてもなく歩いていた。


まあ、行かなきゃならないところがあるのは知っていたけれど。

まだ今は、そんな気にはなれそうにない。


獄界は、地上とそう変わらないような、それでいて全く違うような、不思議な気配がしていた。

木のようなものも生えてはいるけれど、葉のようなものはついていない。

ああでも、太陽がないんだから光合成はしなくていいんだっけ?

じゃあこれは一体どうやって栄養を……。


「カロッサ!??」


ふいに、背に声をかけられて、カロッサは固まった。

何がどうして、この広い広い空間で、こうも簡単に見つかってしまうのか。

ここにいれば、そのうち彼に会うかも知れないと思ってはいたが、まだ心の準備ができていないのに……。

声の主は大股でズンズン近付いてくると、振り返り切れないカロッサの肩を掴んで、ぐいと強引に振り向かせた。

「っ………………冗談、だろ……?」

いつも明るい色をしたクザンの檜皮色の瞳が、カロッサを覗き込んで大きく揺れる。

何がどう冗談なのか。

冗談で死んでたまるか。と思いながらも、クザンがあまりに泣きそうな顔をしているので、仕方なく苦笑いをしてみせた。


「こんなところで会うなんて、奇遇ね」

「……リル達は、無事なのか?」

クザンは、これ以上ないほどに真剣な眼差しで尋ねる。


「うん、多分。うまくやってくれてると思うわ」

カロッサは中間界に残してきてしまった彼らに、申し訳なく思いながら答えた。

「そう、か……」

それだけ答えると、クザンはボロボロと泣き出した。


「ぅえ!? ちょっ、き、急に泣かないでよっ!」

突然の涙に狼狽るカロッサに、クザンは絞り出すような声で、謝った。

「……っ悪ぃ……。助けて、やれなくて……」

クザンが深く深く頭を下げると、普段頭の上に生えている長く立派な角は、カロッサの前に差し出された。

カロッサは、鬼にとってこの仕草が『角を折っても構わない』という特別な意味を含んだ最大級の謝罪であることに気付かないまま、答える。

「……あんたのせいじゃないわよ」

言われて、クザンがゆっくり頭を上げる。

クザンは目元を手で覆っていたが、嗚咽の止む気配はない。

ポタポタと地に染み込む雫に、せめてその頭でも撫でてやれば、少しは慰めてやれるのではと思うものの、カロッサは人を撫で慣れていなかった。


手を伸ばしかけ……引っ込める。

そんなのはやっぱり、私のガラじゃない気がした。


せめて、リル君くらい頭がすぐ手の届くところにあれば良かったんだけど。

頭を上げてしまったクザンの頭は私よりも上にあるから、手をしっかり伸ばさなきゃ届きそうにない。


(そんなデカイ図体して、いい歳した大人の癖に、こんな道のど真ん中で、子供みたいに号泣しちゃうんだから……)


カロッサは、紫の瞳を細めて苦笑する。


初めて会った時から、クザンは無邪気な子供のようだった。

ある日いきなり、親と喧嘩したと言って、行き場のない小鬼を拾って、御師匠様の家に転がり込んできたクザン。

破天荒で、自由で、くだらない事で良く笑っていた。

今ほど素直じゃなくて、可愛く無い事を口にしては御師匠様に叱られていたけれど、カロッサにはその全てが生き生きと輝いて見えていた。

突然現れた、自分と全く違う生き物に、その生き方に、カロッサは酷く惹かれた。


クザンはあっという間にあの家に馴染んで、そして、リリーに恋をした。


連日のクザンの猛アピールに、リリーはいつもふわりと笑っていただけに見えていたのに、いつの間にか、二人は恋人同士になっていた。


どうして、リリーだったのか。

なんで私じゃダメだったのか。

時々思ってしまう事もあったけど、それを表に出した事は一度も無かった。


リリーは自分にとって、初めての友達で、姉のようで、家族のような、大切な存在だったから。


でも、もう、死んでしまったんだから。

今更どうにもならないんだから、言うだけ言っちゃおうかな、私の、この人生の記憶が消えて無くなる前に。

そう思ったら、たった一度の恋心くらい、伝えたって罰は当たらないような気もしてくる。


カロッサが意を決して顔を上げた時、クザンが、涙でゆるんだのだろう、小さく鼻をすすった。

途端、二人の足元に、ズザザザッと高速で何かが滑り込んできた。

その手には、真っ白な布が捧げ持たれている。


ヒバナだった。


クザンはそれをまるで当たり前のよう手に取ると、子供のようにゴシゴシと涙を擦って、鼻をかんだ。


カロッサは一瞬呆気に取られて、それから、仕方なしに苦笑した。

「もー……、そんなに泣かないでよ。こっちが恥ずかしいわ」

カロッサの言葉に、瞬時にヒバナが叫んだ。


「なぁぁぁぁぁぁにをおっしゃいますか!! 私の玖斬様の御涙は、この獄界を潤す至高の一滴!! それを恥ずかしいなどと、これだから妖精うぐはっ!!」

クザンが、ヒバナの後頭部を掴んで地面に押し込んだ。

「っ黙れ、変態!」

いつもより乱暴な対応と照れた口調から、どうやら、クザンも少し恥ずかしかったようだ。


地にめり込んだヒバナをちらと見てから、カロッサは言葉を続ける。

「自分がいつ頃死ぬのかくらい、とっくに分かってたんだから……」

「分かってんだったらすぐ言え!」

くってかかるクザンだが、まだその目には涙が溜まっている。

「言ってどうするのよ」

「俺がなんとかする」

ぶすっと拗ねるように答える男に苦笑しながら、カロッサは宥めるように告げる。

「いいのよ、私は、私のおせっかいで死んだようなものなんだから」

「……誰が殺した」

ビリっと空気まで痛く感じる程の怒気で、クザンが低く唸る。


(いやこれ、天使だなんて言ったら、天界まで乗り込みそうだわこの人……)

カロッサは冷や汗を一筋垂らしつつ答えた。

「私よ私。避けようと思えば避けられたんだから」

「言う気はないのか」

「あそこで私が避けたら最終的に世界が滅んじゃうから、仕方なくね。

あ、ひょっとして私って、命を賭して世界を救った救世主ってやつなんじゃない?」

「…………」


じっとカロッサを睨むように見ていたクザンが、不意にカロッサを抱きしめた。

「え、ちょ、ええっ!?」

慌てるカロッサの耳元で、クザンが呟く。

「お前も、じーさんも……そんなに世界が大事かよ……」

涙声の、まるで拗ねたような物言いに、カロッサは苦笑する。

「…………そんなの、世界は大事に決まってるでしょ……?」

カロッサの答えに、クザンがいかにも不服そうな顔をしながら体を離す。

「なんでだよ……」

カロッサは、いつものように指をピッと立てると、悪戯っぽい笑顔で答えた。

「リリーとクザンが生きてる場所だからよ」

言われたクザンは、また、泣き出しそうな顔になっていた。


カロッサが話題を変える。

「ねえ、御師匠様(せんせい)も、もう少ししたらこっちに来ると思うんだけど、御師匠様が来るまで、ここで待ってられないかしら?」

ぐしっと鼻を擦ってクザンが答える。

「ああ、裁判に出なけりゃ、しばらくは居られるだろ」

ただ、じーさんがどこに出るかはわかんねぇけどな。とクザンは付け足した。

「さらっと言うけど、その裁判に連れて行くのがあんた達の役目じゃないわけ?」

「いーんだよ、ちょっとくらい。俺の事なんか気にすんな。せめて死んだ後ぐらい、お前のやりたいようにしろよ……」

まだどこか拗ねた様子のクザンに、カロッサはやれやれと肩を竦める。

「クザンは、もう子供作らないの?」

今まで足元で、完全に地面と同化していた白い塊が、ピククッと反応する。


「ん? なんだ急に」

それに気付いたクザンが、余計な口を挟んでこないよう、頭をじわりと踏み潰しながら聞き返した。


「来世はクザンの子とか、楽しそうだなーって思って」

また悪戯っぽく、カロッサが笑う。

クザンは半ば呆れたような顔で返す。

「お前……転生には最低でも百年くらいかかるんだぞ」

「でも、クザンの寿命って千年くらいあるでしょ?」

言われて、ようやくクザンは苦い顔になった。

「……俺の子はあいつらだけだ」

「え……それって……」

「まあ、次の釜開けまでもうしばらくある。また遊びに来てやるよ」

それ以上追求されたくなかったのか、クザンはニッといつものように笑うと、話題を変えてきた。

「あんたに来て貰ったって嬉しくないわよ」

カロッサはいつものように返す。

「居場所に困ったら、屋敷を使ってくれていい。変態を呼んでくれりゃ、いつでも案内させる」

さり気なく気遣ってくるクザンに「ありがと」と感謝を述べつつ、カロッサは不意に真剣な顔になる。

「ねえ、ひとつ心配な事があるんだけど……」

「なんだ?」

紫色の瞳に、クザンは片方だけ眉を上げて聞き返す。

「獄界には、今回の災厄の知らせがちゃんと届いてるのかしら」

訝しがる様子のカロッサに、クザンの声が低くなる。

「その知らせは、お前が出したのか?」

「ううん、天界から獄界に伝えておくって言われたんだけど」

クザンは頭を掻きながら、答える。

「んー……確かに、それはちょい心配んなるな。一応確認しとくか」

ヒバナの後頭部を踏みつけていた足をどけて、クザンがいくつか指示を出すと、ヒバナはぬるりと立ち上がった。

パタパタと服の汚れを落としたヒバナは「かしこまりました」と恭しくクザンに礼を捧げると、目にも止まらぬ速さで走り去る。

「途中で誰もハネなきゃいーけどなぁ……」

ヒバナの速度に、クザンが不安そうに呟いた。


カロッサはそんなクザンの横顔を眺めながら、クザンは多分リリーと一緒に死にたいのだろうな、と思う。


魂寿命が千年あるはずの、この規格外の鬼の、肉体寿命が二百年で尽きる事をカロッサは知っていた。

だからこそ、高位の鬼は皆、時の魔術師のもとにやって来る。

肉体寿命を止めて、長い魂寿命を過ごせるように。


クザンも一度、五十二の頃……人で言うと二十六ほどの見た目で、ヨロリによって、その肉体寿命を止められていた。


けれど、その五年後、リリーと駆け落ちをする少し前には、クザンは肉体寿命の停止をヨロリに解除してもらっている。

リリーと共に老いたいと言って。


「あーあ……」

カロッサのため息に、クザンがこちらを振り返る。

「なんだ? 報復したくなったんなら、遠慮なく言えよ」

「もう、その話はいいわよ」

カロッサが苦笑しながら、遠い目をして言う。

「あの時先見ができてたら、リリーにクザンを会わせたりしなかったのになあって思っただけ」

「それは困る!」

「そしたら、こんなにリリーに苦労ばっかりさせないで良かったのにねぇ」

「ぐむっ……」

クザンがグッと言葉に詰まるのを見ながら、カロッサは、リリーを失った後のクザンを憂う。

出会った頃はリリーの方がクザンより十ほども若い見た目だったが、既に二人の外見年齢差は逆転している。

このまま、リリーばかりがどんどん老いて、そして、クザンを残して逝くのだろう。


私が死んだくらいでこんなに泣いてしまう人が、愛する人を失った時、どうなってしまうのだろうか。


カロッサは、もう一つだけため息をついて、小さく言った。

「本当に、会わせなかったのにな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る