45話 空の青(3/4)

森の奥にある、人の気配のしない暗く静まり返った城。

朽ちかけたその城にたった一人残っていた男は、夜明けまでもう少しという頃に、寝台から身を起こした。


近付く懐かしい気配に、男は居ても立っても居られず立ち上がる。

男の足元で、部屋の薄闇よりもずっと暗い漆黒の髪が揺れた。

長く真っ直ぐな黒髪をなびかせて、男は寝巻きにスリッパのままで、石造りの廊下をパタパタと走る。

中庭に着く頃には、彼女の羽音が耳に届いた。


男は夜空を仰ぐと、遠く羽ばたく黒い翼を見上げて、思わず呟いた。

「サラ……。無事で良かった……」


いつ帰るかも分からない相手の帰りを待つ事は、無事を祈り続ける事は、辛い事なのだと、男は初めて知った。


今まで、男の知る『待つ時間』はいつも幸せだったから。

子ども達と一緒に家で彼女の帰りを待つ日々は、彼にとって、とても幸せな時間だった。

料理だって、工作だって、子ども達と工夫して作ったものを、帰った彼女に見せるのが楽しみだった。

洗濯だって掃除だって、いつもより上手くできれば誇らしく、ピカピカになった日には彼女に早く見せたいと思ってしまう。

だから、待つのがこんなに辛い事だったなんて、知らなかった。


彼女は……、子ども達は、元気にしているだろうか。

私がいなくなって、ずいぶん悲しませてしまっただろうと思っていた。

もしあの子達が、私の帰りをこんな風に、ずっと待っていたのだとしたら……。


帰らないかもしれない人を待つのは、こんなに辛い事だったのに。

そんなことも知らないままで、私はあの子達を置いてきてしまった。

せめて、もう帰らないと伝えていれば、少しは彼女の心を癒せたかも知れないのに。

自分が、帰りたかったばかりに、それすら言えなかった。


きっと私を待っていてくれると……、なんの約束も、相談もしなかったくせに、勝手に思い込んでいた。



――ようやく戻ってきた町に、あの子達は居なかった。



あちこち探したが、行方は分からないままだ。

生きているのかも、死んでいるのかも分からないまま。


それでも、死んだ事がハッキリしていないのなら、生きている可能性だってある。

それだけに縋って。子ども達が生きていると信じて。

子ども達のために……。と。


私には、他に、彼女やあの子達のために出来ることが思い付かなかった。

私のしようとしていることは、全くの自己満足で、なんの意味もない事かも知れない。


それなのに、そんな私の我儘に、サラを巻き込んでしまった。


二年前、サラが雪と陽を持って帰ってくれて、嬉しかった。

うっかり、ありがとうと、よくやってくれたと、手放しで喜んでしまった。

サラが幸そうに笑うので、私もつられて幸せな気分になってしまった。


そうじゃなかったのに。

私が嬉しかったのは、環が手に入ったことよりも、貴女が無事だった事だと。

あの時ちゃんと私が伝えられていたら、彼女は側にいてくれたかも知れなかったのに。


今度は、今度こそは。

サラが四環を持っていようといまいと、その無事が嬉しいと、伝えたい。


男は、中庭の中央に降り立った少女が、その勢いのままこちらに駆けて来るのを、両手を広げて待った。


「父さん!」

少女は黒い翼を畳みながら、彼女にしては珍しい大きめの声で男を呼んだ。

あの様子だと、環は無事手に入ったらしい。

サラの手元の袋からは、確かにそれらしい力を感じる。


男が広げた腕の中に、少女は真っ直ぐ飛び込んできた。

「ただいまっ」

少女……と言うほど、もう小さくもない、十九歳ほどの見た目の彼女の頭を撫でて、男は心を込めて伝える。

「お帰りなさい。……心配していましたよ」

男の言葉に、少女は慌てて袋を差し出す。

「ちゃんと、取って来たよ……」

「そうではなくて……」

男が困った顔をすると、サラは途端に不安げな表情になった。

「い、いえ、環を持って来てくださった事はとても感謝しています」

今にも泣き出してしまうような気がして、男は咄嗟に感謝の言葉を告げる。

「……よかった……」

ふにゃっと表情を崩して、サラは男の肩口に額を寄せた。

男はなんと言うべきか言葉を探しながらも、サラの髪を撫でて告げる。

「……貴女が無事で、私は安心しました……」

「うん……。私も、父さんが元気そうで、安心した……」

サラが心底ホッとしたように呟くと、男の背や肩を撫でる。

その無事を確かめるように。


男は、この十年間、少女を助けて守っていたつもりだったが、いつの間にか、自分の方が守られているのではないだろうか、と、少しだけ感じた。


----------


クリスの住む家。その前の道には、それなりの道幅があった。

クリスの家は、村の中心部から遠く離れた端の端だったが、奥まった場所ではなく、村から出る街道に面していた。

おそらく、いざという時に村の外へ逃げるためなのだろう。

村に住む人々にはできる限り迷惑をかけまいという彼女の意思を、久居は感じた。


朝早くから旅立つというリル達の見送りに、クリスと牛乳は家の前へ出ていた。


リルが、クリスの両手を不意に取る。

「ごめんね、クリス。ボク、絶対環を取り返してくるからね!」

リルは薄茶色の瞳で、クリスの顔をまっすぐ見つめて約束した。

「う、うん……」

クリスは、返事に迷っていた。

(絶対、取り返して欲しい)そう思う気持ちは当然ある。

でも、それで彼らが傷付いたり、ましてや死んだりするのではと思うと……。

(あの環に、そんな価値が本当にあるんだろうか……)

今まで、あの環を巡って、どれだけの命が消えたんだろう。

ずっとずっと昔から、代々守り続けてきた。母はそう言った。

それは、ずっと昔から、あの環のせいで人が大勢死んでいったという事ではないんだろうか。


風を起こす環と、空中の水を集める環。

使い方次第で、様々な事が出来る。

どんなに凄い物なのかは身に染みて分かっている。

……本当は、もっと正しく使えれば、沢山の人を救う力になるはずなのに。


ずっとずっと隠して、誰にも見つからないように逃げ隠れ暮らして……。


こんなの、意味がないと思う。


神様はなんだってこんな厄介なものを、人に預けたというのか。


「にゃぁ」

腕の中、牛乳の声に、いつの間にか俯いていた顔を上げる。

目の前のリルは、心配でたまらないという顔をしてこちらを覗き込んでいた。

クリスには、それがまたどうしようもなく悔しかった。


昨日までずっと寝てたくせに。

全然起きなくて、私も、久居さん達もすごく心配したって言うのに。


「クリス……大丈夫……?」

リルが、薄茶色の優しげな色をした瞳をうるりと滲ませて、気遣わしげに尋ねた。

「っ!」

クリスは息を呑む。

(大丈夫じゃないわよ! そんな風にウルッと見上げないでよ!!

 こっちが恥ずかしくなっちゃうでしょ!!)

と胸中で叫びを上げながらも、クリスはなんとか「大丈夫……」とだけ答える。


「やっぱり心配だよね。ごめんね、取られちゃって……」

リルがもう一度謝る。

その申し訳なさそうな潤んだ声に、クリスは思わず声を上げた。

「っ違うの! 私が心配なのは、リル達が!!」

「……ボクたち?」

リルがきょとんと瞳を揺らして、首を傾げる。

クリスは、じわりと赤みが差す頬を自覚しつつも、仕方なく言葉を紡ぐ。

「リル達が……その……」

けれど、なんて言えばいいのかが分からない。

私のためじゃないと言われてしまえばそれまでだし、私にそんなことを心配する資格なんて、きっとどこにも無い。

黙ってしまったクリスの言葉を、リルが繋ぐ。

「怪我しちゃうかもってこと?」

「う、うん……」

クリスの腕の中で、牛乳が『そんなのクリスが心配する事じゃねぇだろ』と抗議しているが、それに気付いているのは久居だけだ。


「えへへ、ありがとう」

リルがにっこり。嬉しそうに微笑む。

まだクリスの手はリルの両手に包まれたままだ。

それを、リルは大事そうに持ち上げた。

「クリスは優しいね」

ふわりとリルが笑う。それはそれは幸せそうに。

「そっ…………んな事、ないよ……」

優しいなんて、そんなことない。

こんなの、優しさでも何でもない。

私がただ、申し訳なく思ってるだけ。

クリスは、どうしてこの少年が、たったこれだけの事で、こんなに嬉しそうにしてくれるのか分からなかった。

ただ、頬が真っ赤になるのをどうすることもできず、少女は俯いた。


瞬間、ざわりと毛を逆立てた牛乳が、苛立ちに任せてリルの手を掻き切ろうとする。

が、その途端背筋に冷たい物が走り、真っ白な猫は動きを止めた。

クリスの二の腕越しにそろりと牛乳が振り返れば、久居が、後ろから鋭い視線で牛乳を射殺している。

リルはそんな攻防に全く気付かぬ様子で、ニコニコと嬉しそうに笑っていた。


レイは、それを一歩外で眺めながら(よく分からん関係だな……)と思った。

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