33話 過ぎた事(前編)

レイは確かに、湖の反対側で見知らぬ男と話すカロッサを見ていた。

リルを片腕に抱えながらも、いざに備え緊張感を持って立っていた。はずだった。


それなのに、男がこちらを振り返ったと認識してから、瞬きひとつも終わらない間に、その男は目前に居た。


湖を迂回した!?

地下から……!?


――違う、男は真っ直ぐ来た。

その証拠に、水面には一直線に筋が残り、少し遅れて衝撃波に近い風圧がレイ達と水面を襲った。


「なっ……!?」

暴風にリルが飛ばされないよう、両腕で抱え込む。


変態と呼ばれていた男が、両手で顔を覆うようにしてのけぞった。

「ぬわぁぁぁぁあんということでしょうっ!!!」

そして、指の隙間からチラチラとこちらの……腕の中の、リルを見ている。


「こっ、こっ、こっ……これはっっ!!

 あの、玖斬様の、あの!!

 ご、ごごごごご子息ではあらせられませんかっ!!!!!????」


変態の頬が上気し、その瞳がギラギラと輝くのを見て、レイは思わず抱えたリルをマントで隠そうとして……見失った。

「!?」

レイが顔を上げると、リルは既に変態に抱き上げられていた。


「ふおおおおおおうううううう!!!

 この健やかな寝顔!!!

 幼き日の玖斬様によく似ていらっしゃる!!

 それにこの前髪の! 跳ね癖が!! まさに玖斬様の!!」

変態は、ここぞとばかりにリルの髪や頬を執拗に撫で回し、耳の穴にまで指を入れている。まるで舐め回さんばかりの勢いだ。

「ああ! 玖斬様のやんごとなき血をその身に宿した御子様を、またこの手に抱けるとは!!

 この火端! 今日という日を生涯忘れは致しません!!!」

リルは耳元での大騒ぎに目を覚ましたのは良いが、変態のあまりの勢いに怯え、声も出せない様子だ。

「おお!!! お瞳は生まれた時のままの、明るい茶色なのですね!!!」

ギョロリと覗き込まれて、リルはその瞳にじわりと涙を滲ませる。

「玖斬様のお色をそのまま淡くしたような、実にお美しいお色で、ぐぶぉぉっ!!」

変態は、後頭部にカロッサを乗せた空竜の高速蹴りを喰らって吹っ飛んだ。


空中に投げ出されたリルを、レイが慌ててキャッチする。


「レ、レイ……怖かったよぅぅぅ」

リルが半ベソで泣き付いてくる。

レイは(いやコレは、俺でも怖い……)と背筋に冷たいものを感じていた。

「す、すまない、俺が付いていながら……」

レイが申し訳なさでいっぱいになりつつ、震えるリルをしっかりと抱き直した。

二度もあっさりと奪われるわけにはいかない。


「いきなり何をなさるのですか!」

「それはこっちの台詞よ!!」

向こうでは、変態とカロッサが言い合っている。


空竜にあの速度で蹴り飛ばされたのに、変態の真っ白な服は真っ白なままだった。膝も付かずに着地したという事なんだろうか? レイは、リルのキャッチに必死で見ていなかった事を少し悔やむ。


「見てみなさい! リル君が怯えてるでしょ!?」

「何をまさかそんな事!!」


と変態が、何故か自信満々にリルを見る。

リルがぴゃっと悲鳴をあげて、レイの後ろに隠れた。


「そっ………………そんな……まさか……」

ガクリと変態が崩折れる。

その真っ白な服の上から、膝が土に触れるか触れないか……という所で、変態はシャキンと立ち直った。


「まあ、御子様に御目通りいただけたのは実に御生誕の時以来ですからね、私を御存知ないのも至極当然と言えましょう」

しかし、その声は震えている。

「私は火端(ヒバナ)、玖斬様に生涯を捧げる者です」

彼は、リルに深礼を捧げた。

「以後、お見知りおきくだされば僥倖です」

顔をあげたヒバナが、何だか悲しそうな眼をしていたので、リルはレイの影からぴょこっと顔を出し、慌てて答える。

「う、うん。ボク変態さんの事覚えとくね」


ピシィッと何かにヒビが入るような音がした。気がする。


「へん……たい……」


「はい、じゃあ、ほら、緊急だから。伝言お願いね、変態さん」

カロッサが、おそらくわざとだろう、追い討ちをかける。


「別に良いんですぅー。カロッサ様や玖斬様に言われる分には慣れてますぅー」

ヒバナが、ぶちぶちと半眼で文句を言っている。

「でもまさか、御子様にまで、そのような……いや、でも、それはそれで、美味し……」


「ご、ごめんね? 間違えちゃった。えっと、お名前、何だっけ?」

リルが慌ててフォローに入る。

怖い目に遭わされたばかりだってのに、人の良い奴だなという気持ちと、たった三文字覚えきれなかったのか。という気持ちでは、レイの中では後者の方が強い。


「ひ、ば、な、と申します」


リルの前に膝を付き、高い背を屈めると、小さい子に教えるように、ゆっくり一音ずつ告げ、ヒバナが微笑む。

目尻が上がっているからか、その顔は狐面のようだ。


「ヒバナ、ね。覚えたよ!」

リルがにこりと微笑むと、ヒバナが吐血して倒れた。


「ええええええ!?」

リルが慌てる。が、倒れた張本人は至極幸せそうな顔だ。


「みっ、身に余る光栄……っっ」

何とか、乱れた息を整えながらヒバナが起き上がる。


「ボクは、リルだよ」

リルが、いつものように自己紹介する。

相手は既に名など知っていそうだったが、リルはお構いなしだった。


「そ、そそそそそそそれは私めがそのように、お、おおお、お呼びしても良いと仰せられるのですかっっ!!」

またヒバナの息が荒くなるので、リルがちょっと引き気味になりつつ答える。

「う、うん……」


「恐悦至極に存じます!!!」

ヒバナが、叫びながらもう一度倒れた。


「もおお、いつまでやってんのよ……。急ぎの伝言だって言ってるのに。さっさと行かないと、変態が仕事しないってクザンに言うわよ?」

カロッサが、仰向けに倒れたヒバナを見下ろしてもううんざりという仕草で言った。


「ご無体な! これほどの働き者が他にいましょうか!?」

さも心外なという様子で、ヒバナが立ち上がり、リルの前に改めて膝を付く。

「リル様の御健康と御多幸を、この火端、いつ如何なる時もお祈り申し上げております」


「う、うん、ありがとう……」

リルの返事に、ヒバナは恍惚とした表情でうっとり眼を細めてから「失礼致します」と言葉を残し、地下に消えた。

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