21話 心の炎(後編)

男の刃が空を斬る。


久居は痛みに耐えるべく一瞬息を止めかける。

が、まだ動けると気付いた瞬間、姿勢をほんの少し崩した男を下段から斬り上げた。

「!!」

両腕で振った刀の切っ先は、相手の炎を斬り裂いて、その脇腹から腕、肩まで届いた。

男が苦しげに呻いてよろめくものの、膝をつくには至らない。

まだもう少し、浅かったようだ。

「……ハッ、なんだ、燃えねぇのかよ。期待して損したぜ」

男が吐き捨てた台詞と共に、ぼたぼたと鮮血が地を染める。


リルは、涙を浮かべたままの瞳で久居を真っ直ぐ見て言った。

「ボクは久居を燃やさない!!

 もう絶対に、熱い思いも、痛い思いもさせない!!」

久居の手元の刀には、まだリルの炎がしっかりと宿っている。

「ありがとうございます、リル」

呼吸の合間に小さく呟いた久居の声は、はっきりとリルに届く。


リルの向こうで、大男が拳に炎を込めて構えている。

久居は素早くリルを抱えて横へ飛ぶ。

元いた場所に、火球が轟音と共に着弾した。

久居はリルの肩を抱いたまま大男との距離を詰め、叫ぶ。

「リル、その人を頼みます!」

大男が腕輪男の命を捨てるのと、リルが彼に触れたのはほぼ同時だった。

「あ、あ、あああああああああああ!!」

死の恐怖に、腕輪の男が頭を抱えて叫ぶ。

腕輪男の両腕を、大男が腕輪ごと千切ろうとする。

そんな大男の腕を、久居の刀がさらりと撫でる。


先程とは威力の違う太刀筋に、大男が大きく飛び退く。

が、久居の刀は既に大男の腕を斬っていた。

男の太い腕は、まだかろうじて体と繋がってはいたが、せいぜい皮一枚という程度だった。

短く、大男の呻き声が漏れる。

痛みに顔を顰め、両腕を抱えたまま、大男が膝をついた。


腕輪男は、自分がまだ死んでいないことに、ようやく気付く。

「あ……ああ……」

自身の両手を広げて見る腕輪男の、両手首の腕輪を、大男が睨みつける様に見る。


「……引くぞ」

大男が苦しげな声で告げた。


長身の男は少し離れたところで「いってぇな畜生……」と毒付きつつ治癒を試みていたが、治癒はうまくないのか出血はまだ続いていた。

大男の言葉に、橙の三つ編みを揺らして長身の男が顔を上げる。

「おい、腕輪は……」

「また回収する」

短く答え、大男は立ち上がり、久居からじりじりと距離を取る。


久居は、今後の為になるべく敵の戦力を削いでおきたかったが、逃げる敵を斬るような姿は、リルには見せ辛かった。


リルと久居が動きそうにないと見て、大男が背を向け駆け出すと、長身の男も渋々従う。

「テメェ、覚えてろよ」

長身の男は、鋭く久居を睨んで捨て台詞を投げつけると、同様に駆け去った。


二人は、建物の影で地中に潜ったのだろうか。

まだ警戒を解かない久居をよそに、リルが腕輪の男に話しかけた。


「おじさん、さっきの冷気を出せる? この辺を急いで冷やしてほしいんだけど……」

震える男が、地面にへたり込んだ状態で、言われるままに、反対の手でもう一つの腕輪に触れた。

ヒュウと冷気が辺りを包み込む。

「リル、生存者がいる辺りから先に冷やしましょうか」

久居の言葉に、リルが「そうだね」と頷く。


もう難しいかも知れないが、助けられる命があるなら優先したい。久居も気持ちを切り替えると、残る力のどこまでを治癒に注ぐべきかを考えつつ、足元にへたり込んだままの男へ視線を移した。

男は、身なりこそ質の良いものを身に付けていたが、落ち窪んだ瞳、痩せ細った身体にこけた頬のせいでか、あまり裕福そうには見えなかった。それどころか、全体的に不幸感が漂っている。

先程の様子から察するに、加害者というよりは被害者のようだったが……。

久居はここで初めて腕輪の男の様子をよく見た。

何せ、リルが飛び出してしまってからここまで、久居には息をつく暇も無かった。

「おじさん、立てる?」

リルに声をかけられて、虚な目をしていた男に、生気が……いや、狂気が宿る。

「ああ……あああ……。なんて事を……なんて事をしてくれたんだ!! お前達のせいで! もうおしまいだ、もう、全てが台無しだ!!」

冷気が霧散し、男がリルの手を力一杯振り払う。

それは、男にとっての自殺だったのだろうが、リルの手はガッチリと男の腕を掴んだまま、離れなかった。


リルは、鬼の特性からか、握力や腕力といった基礎的な力が半端ない。

久居でも、あの時リルの手を自分が握っている状態で無ければ、振り解けなかっただろう。

十歳かそこらの少年の手を振り解けなかった男が、茫然とリルを見る。

「お前も、鬼なんだな……」

ぽつりと落とされた言葉に、リルが悲しげに目を伏せる。


「では、あなたは人だと言えるのですか? これが、血の通った人のする事だと……?」

久居が口にした言葉に、男がその死相を一層濃くする。

どうやらこの男がこんなに痩けているのは、心労からのようだ。

「おじさんの、事情も知らずに、本当にごめんなさい」

リルが、目を伏せたまま震える声で謝る。

「でも、そこの人の心臓の音がね、もう消えそうなの……」

顔を上げて、瞳にいっぱいの涙を湛えて、男の両手をリルの小さな手が包む。

「消えそうな音が、たくさんあるの、おじさんの力を貸して、お願い……」

まっすぐに見つめられて、男は、その優しい色をしたリルの瞳に自分の顔が映っているのを見た。

なんだこれは。と男は自身の目を疑う。

そこには、痩せこけて、恐怖に引きつった醜い顔が映っていた。


ぽろり。と、薄茶色をしたリルの瞳から、堪えきれず一粒涙が零れる。

その雫を、男は思わず目で追う。

怯えも後悔も苛立ちも、リルの涙に吸い込まれていくように、ぐちゃぐちゃだった男の心が、自然と元の姿を思い出していく。


リルの、まだ幼い輪郭の小さく尖ったアゴの先から、涙はポトリと落ちて、乾いた地面に吸い込まれた。


腕輪の男が顔を上げる。

リルは、男を真っ直ぐ見ていた。

その瞳には、批判の色はない。

ただ男に協力を……、助けを、求めていた。


久居は、足元の男に渦を巻いていた怨念のようなモノが浄化されているような気配を感じ取りつつ、男に手を差し伸べる。

「立てますか?」

「あ、ああ……」

小さく頷く男を、久居とリルが引き上げ、立たせる。

「少し移動しましょう。詳しいお話は、後ほど聞かせていただけますか」

「……分かった」

男は、まだどこか虚ろな表情ではあったが、頷き、歩き出した。


----------


男を連れて、リルの耳に従いながら、村の何か所かに冷気を撒いて歩く。

人々は、体表面にも肺にも火傷を負っていたので、熱気を打ち消すだけでなく、凍えるほどの冷たさで。


村の家々は夏の夜だったこともあり、ほとんどが窓を開け放っていて、最初の熱気でやられた者が多い。

しかし、中には地下貯蔵庫に避難して一命を取り留めた者や、水や氷を最大限利用して生き延びた者もいた。

息がある者には、久居が治癒を行なう。

とはいえ、全身の火傷に、呼吸器の腫れもあり、意識のある者は無く、唯一治癒中に目を覚ましかけた者は、久居がリルに気付かれる前にそっと昏睡させた。

結局、助かったのはほんのわずか八人だったが、全員の手当てが終わる頃には、村の気温も落ち着いていた。


「もう炎を引っ込めても大丈夫ですよ」

と久居に声をかけられたリルが、ホッと弛んだ表情を見せた。

久居と腕輪の男を包んでいた薄い炎がふわりと霧散する。

リルは、まだ悲しみの色に染まったままの瞳を、ゆっくり閉じて、そのまま眠りについた。

リルにずっと腕を掴まれていた男が、突然崩折れた少年に驚く間もなく、久居がまるで当然のように、その体をそっと抱き止める。

久居は、うつ伏せに支えた体をクルリと仰向けに返して、炎の漏れや脈や呼吸の乱れがないかを確認した。

それから、リルの頬に残った涙の跡と、閉じた瞼から溢れた雫を、首巻の端で優しく拭う。


本当は、もっとたくさん助けたかったのだろう。耳を澄ましてあちこちからの心音を探るリルが、ひとつ、またひとつと消えていく音に心を裂かれているのを、それを誰にも言わずに耐えているのを久居は見た。


辛い時には、真っ先に自分を頼ってくると思っていたのに。

この少年は、今日、自身の心より、見知らぬ他人の命を尊重した。

(それに引きかえ、私は……)

リルを抱く自分の手は、鬼の返り血と怪我人の血で赤黒く汚れている。


「……大丈夫なのか」

腕輪の男がリルを覗き込んで言う。

「はい、眠っているだけです」

久居が男に向き直る。

「貴方からお話を伺いたいところですが……。その前に、少し移動しましょう」


逃げた鬼達は、怪我こそ負っていたものの、致命傷でもなければ、まだ余力もありそうだった。

傷を治し次第戻って来るという事も十分ありえる。


三人は、村を出て海岸の方向へ向かう。


久居は、黙ったままついて来る男をチラと見た。

男はぐるぐるとまた何やら考え込んでいるようだったが、不安や絶望は感じても悪意は感じ取れない。

やはりこの男は、鬼達に利用されていただけなのだろう。


しかし、どんな理由があったとしても、男のした事は許される事ではなかった。

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