2話 接触(後編)

茂みを掻き分けた先には、一人の少女が座っていた。


二人は、それぞれに違うことを考えながらも、結果、無言で見つめ合う。


(バレてないバレてない!!)

フリーは内心ほくそ笑む。

長い耳は髪の中に隠し、触角は髪に沿わせて後ろ側へ倒し、後頭部で手で押さえていた。

羽根も、転げ回ったせいで割れていたので、背中側を覗き込まれない限りは大丈夫だと思う。


菰野は、黙って状況把握に努めていた。

(こ、これは……)

少女の耳は確かに髪に隠されてはいたが、その長さは髪が隠せる範囲よりも長く、端が少しずつはみ出している。

後頭部を押さえたまま離さない手はえらく不自然だったし、周囲にはどう見ても翅の残骸に見えるものが散らばっている。

(昨日ここで見た人……いや、妖精……の、ようだが。

 えーと……人間のフリをしている、の、だろうか?)

菰野はここまで、わざとゆっくり茂みへ近付いた。

それは、相手に逃げるための時間を与えるためだった。

姿を偽るならば、なぜその間に逃げなかったのか、と菰野は思いかけて、その足の怪我に気付く。

少女のくるぶしには血が滲み、酷い色に変わっていた。

「怪我してるの?」

言葉と同時に、菰野はひょいと垣根を超えていた。

自分で思うよりも早く体が動いてしまい、少女が急に動き出した少年にびくりと肩を揺らす。

「あ、驚かせちゃってごめん。大丈夫、何もしないよ」

謝りながらも両手を開いて相手に見せる。何も怪しいものは持っていないと伝えるために。

「その……怪我、見せてもらってもいいかな?」

元から優しい声質の菰野が、なるべく優しい声で話しかける。

「え?」

問われて、少女は菰野が思うよりもっと可愛らしい声で答えた。

「う、うん……、いいけど……」


フリーは思う「人間って、私たちと同じ言葉使うんだ……」と。

菰野も同様に思っていた「とりあえず、言葉が通じてよかった……」と。


「わー……痛そうだね……。足の指は動く?」

菰野は、フリーの足首に、それはそれは優しく触れた。

「うん、動く……痛いけど……」

フリーは、菰野の纏う柔らかな空気に、ほんの少し緊張を解く。

「打撲と捻挫みたいだね」

菰野はキョロキョロと辺りを見回しながら尋ねる。

「この辺りに川とか無いかな?」

「細い川なら向こうにあったよ」

フリーは昨日見つけた小さな川を思い出して、指差した。

「湧き水かな? 行ってみる」

待っててね。と言われて、逃げようにも動けないフリーが頷くと、菰野は安心させるようにふわりと微笑みを残して、駆け出した。


花が綻ぶような、あたたかな微笑み。

その余韻を残したまま駆け去るその背を見送りながらフリーは思う。

(人間って、思ってたほど怖くない……の、かも?)



菰野は、迷う事なく目的の小川に辿り着いていた。

「これだな……」

サラサラと流れる水に指を差し込むと、それはとても冷たかった。

これで冷やせば彼女の痛みも少しは良くなるだろうか。

そう思いながら、菰野は自身の帯を解くと、冷水に浸した。

すぐ戻ろうと立ち上がった菰野は強烈な目眩に襲われる。

(立ちくらみ……?)



一人残されたフリーは、この森の異様な静けさに、まだ幼い頃の出来事を思い出していた。


人間たちよりずっと聴力の良いフリーの耳をもってしても、この場所には、生きるものの音がまるで聞こえなかった。

ここは、生き物の住めない場所だ。


結界の周りには、リスも小鳥も、……ウサギもいない。


フリーとリルは幼い頃、家でウサギを飼っていた。

ウサギはふかふかで、フリー達によく懐いた。

撫でると気持ち良さそうに目を細めて、撫でれば撫でるほどに伸びた。

フリーもリルも、とても可愛がっていたし、よく世話をしていた。


ある日、うっかり、水を替えた隙にウサギがカゴから飛び出した。

けれどその日はたまたま部屋のドアが開いていて、家の戸がほんの少し開いていた。


二人は必死で後を追ったが、幼いフリーよりもウサギの方が、ずっと足が速かった。

追われて、ウサギはついに結界石の外へと出てしまう。


せめて、村の方へ逃げてくれれば良かったのに。

ウサギは村の外へと、結界石の外へと出てしまった。


そこでやっと、フリーはウサギに追いついた。

ウサギは結界石を出て少しのところで、ぐったりと横たわっていた。


駆け寄ったフリーがウサギを抱き上げると、ウサギは震えながらも必死に目を開いて、フリーを見て、そして永遠に目を閉じた。


しばらくして、リルが母の手をぐいぐい引きながら走って来た。

フリーの腕の中でふかふかの塊は、少しずつ少しずつ、冷たくなってゆく。


ぽたりと、ウサギの毛の上に落ちて弾けた雫は、自分の涙だった。


「お母さん……。なんでこの子……死んじゃったの……?」


母は、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「結界石からは、とても強い力が出ているの。結界の中は結界に守られているから大丈夫なのだけれど……」

「外に出ちゃうとダメなの?」

母の手を両手で握りしめて、リルが尋ねる。その瞳からはポロポロと大粒の涙が溢れていた。

「ええ……。結界石に近づけば近付くほどその力は強く影響してしまうから……。結界のすぐ外には草一本生えないのよ」

母の言葉通り、結界石の内側は雑草だらけなのに、そこから先には一本の草も、蟻の一匹すら姿を見せなかった。

「ボクたちは平気なのに……?」

尋ねるリルの頭を、母は優しく撫でて言う。

「それは、結界の管理者である私が、あなた達を特別扱いするように結界石に設定しているからよ」

その言葉にフリーは反応した。

「……この子にもそれがしてあったら、死ななかったの?」

「そうね……迂闊だったわ……」

「私も、その設定っていうのできるようになりたい……」

「ボクもー」


ガサッと近くで音がして、フリーは回想から戻る。

顔を上げれば、先程の少年が、長い布を手に戻ってきていた。

「ただいま……」

菰野は、近くの木を支えにするようにして、なんとか立っていた。

目眩やフラつきは、あれから一向に治る様子を見せない。

「お、おかえり」

しかしフリーは自分の触角を押さえるのに必死で、そこまでは気付かない。

(今はこの状況をどう切り抜けるかだわ……)

「あー……、さっきより腫れてきちゃったな」

「うん……」

「しっかり固定しておくほうがいいから、ちょっと強めに巻くけど我慢してね」

菰野はフリーの足首を、よく冷やした自身の帯で固定する。

ぎゅっと縛られて、フリーが小さく悲鳴をあげる。

「はは、ごめん……」

苦笑する少年の声があまりに力無く聞こえて、フリーはその顔を見上げた。

(あれ……?)

「これでよし、かな……」

フリーの足の様子をまだ心配そうに診ている少年は、いつの間にか肩で息をしていた。

(なんだかこの人、顔色悪くなってない?)

そこでようやくフリーは気付く。

結界石の強い力が、この少年を侵しているのだと。

「ねえ、具合悪いんじゃない? 早く山を降りたほうがいいよ!」


菰野は、少女が心配そうにこちらを見上げている事に内心驚きながらも、頭が回らなくなりつつあることに気付く。

(あれ? 俺の心配してくれてる……? ああ、そうか。この山にはきっと妖精を隠すために不思議な力が……)

「ありがとう、大丈……夫……」

しかしその言葉の終わりには、菰野は姿勢を保てず地に手をついた。

ぐにゃりと視界が歪む。

「え、ちょっと! ホントに大丈夫!?」

少女の声がなぜかとても遠くで聞こえる。

視界が霞んで、地に付いているはずの自分の手すらよく見えない。

(もしかして……俺はここで、……死ぬ……のか……?)

ゾクリと、例えようもない恐怖が少年を襲う。


フリーは、冷や汗を浮かべて苦しげに荒く息をする少年を見る。

どうしてここまで我慢していたのだろう。

動けるうちに、山を降りていれば……と思いかけ、それを止めていたのが自分の存在だったことに気付く。

(この人に、無理をさせてたのは、私……?)

丁寧に手当てをされた自分の足に、フリーは思わず手を添える。

(私の手当てをしていたから、この人は……)

ひんやりと冷えた布でしっかり固定され、足の痛みは少し軽くなっていた。

このために、たったこれだけのために、この少年はここで命を失うというのだろうか。

(私のせいで……?)


少年の震える肩に、あの日の冷たくなってゆくウサギの姿が過ぎる。

(そんなの……)

フリーは巻かれた帯布の端を握り締める。

(そんなの絶対ダメだ……私が、何とかしなきゃ!)

少女はその金色の瞳に決意を宿す。

「目を瞑って」

「え?」

「いいから早く!」

言われて、菰野は目を閉じた。

(何だろう……声が遠くて……よく聞こえない……)

「いいって言うまで開けちゃダメだからねっ」

フリーは小さな声で呪文を唱える。

呪文は小さくとも、確実に結界石に届いた。


一方、隠れているはずのフリーを延々探していたリルも、結界石の輝きと交信を確認する音に、異変を察知する。

「えっ……フリー!?」


フリーは、菰野の両肩をしっかり掴むと、結界の効果を除外する対象として、少年を指定する。

自身の唇で。対象を示すべく、その額にそっと口付けて。


「え?」


ふわりと花のような香りを残しながら、少女の唇が離れ、菰野は思わず目を開けた。

恥ずかしそうに目を伏せて頬を染める少女と、しっかり目が合う。

「めめめめめめ目ぇ瞑っててって言ったでしょーーーーーーーーーーっっ!?」

まだ両肩を掴んでいた少女が、少年の肩を前後にガクガクと振りながら訴える。

「ご、ごめんっ。あんまり聞こえてなくて……」

答えながら、菰野はその少女の頭上にピンと立つ二本の触角に気を取られる。

(あ、触角……。やっぱりこの子、妖精だったんだ……)

「とにかく目を閉じて! いいって言うまで開けちゃダメっ!!」

「う、うん……」

言われて、菰野は素直にもう一度目を閉じた。

(今度は何だろう……)

「え、えっと……具合は良くなった?」

フリーが気を取り直して、尋ねる。

頬はまだ赤いし、心臓はまだバクバクしていたが、とにかくそれだけは確かめなければならなかった。

「そう言われれば、すっかり……」

言われて初めて気付いた様子の菰野の言葉に、フリーは胸を撫で下ろす。

「よかった……」


菰野も内心驚いていた。

あんなに酷かった目眩も、息切れも、一時は死を覚悟するほどに苦しかった全ての症状が、まるで嘘のように消えている。

この少女が何かしてくれ………………。

そこでようやく菰野も気付く。

さっきの妖精の顔が真っ赤だった理由に。

目を閉じたまま、菰野が赤面していると、少し離れたあたりでガサガサと草を分けるような音がした。

「目、開けていいよ」

少し離れたところから聞こえた声に、菰野はそっと目を開ける。

「あれ、いない……」

と言いかけた菰野は、見つけてしまった。


草むらからはみ出した、二本の触角を。


(うーん……これはきっと、見つけちゃいけないんだろうなぁ……)

触角は、ドキドキハラハラと小さく揺れている。

(しかし、この子は怪我をしているのに、一人で帰れるんだろうか)

菰野が背を向けるべきか否かと悩んでいると、向こうから少年の叫び声が聞こえてきた。

「フリーーーっ!! どこーーーーっ!!!」

途端、触角があわあわと慌てるように揺れ動く。

(うわぁぁぁぁっ! リル、今来ちゃダメーーーーーーっっ!!)


その様子に、菰野は今の声がこの少女の知り合いなのだろうと判断すると、小さく独り言を残して背を向ける。

「女の子も消えちゃったし、今日のところは帰ろうかな」

(えーと、捻挫は軽度だったし、ひと月もあれば……)

「また来月のこの日、ここに来てみよう……」

菰野はそう言い残すと、駆け出した。

あまりにわざとらし過ぎたかと、自分の発言に照れながらも、菰野はそのまま振り返ることなく、山をおりて行った。


ピクリとリルの耳が揺れる。

リルはフリーよりもさらに聴覚が鋭く、菰野の声が僅かに聞こえた。


フリーは菰野の姿が見えなくなると、草むらから顔を出す。

(行っちゃった……)

去ってもらわなきゃ困るはずなのに。

それでも、どこか淋しい気がして、フリーはしばし菰野の去った方を見つめていた。


そうして、ふと、リルがこちらに来ないことに気付く。

リルは、聞きなれない人の声に、足を止めて悩んでいた。

(まさか、人間とか……!? どうしよう……っ! お母さんを呼んできた方がいいかな……。フリーの声も、ちっとも聞こえないし……)

「リルーーーっ」

そこへ元気そうなフリーの声が届く。

「フリーっ!?」

リルは慌ててそちらへ走った。

「こっちこっちー。足挫いちゃって、動けないのよー」

フリーが元気そうに、むしろ呑気そうに手を振っている。

「だ、大丈夫だった!? 何もされてない!? 今この辺から人の声が……」

「な、何のこと?」

フリーが内心ギクリとしながら答えると、リルがキョトンとした顔になる。

「え!? フリーは聞いてないの? 男の子みたいな声が……」

「えー? 聞いてないなー……。空耳じゃない?」

「ええええええええ!?」

リルがずいっと詰め寄る。

「け、結界石には交信したよね? 空耳じゃないよね?」

ちゃんと聞いたもんっ。と涙目で弟に訴えられて、フリーは

「う、うんうん。リルが気付いて来てくれるかなーと思ってね」

と答えた。

「な……。なんだ……そっかぁ……」

リルが、へなへなとその場に崩れる。

どれだけ息を詰めていたのか、深い深いため息が、長く続いた。

「もー、リルは心配しすぎだって」

「うん……けど本当に……よかっ…………」

顔を上げたリルの大きな瞳からは、大粒の涙が溢れていた。

「あ……」

止まらない涙の粒に、リルが声を漏らす。

「ご、ごめんね、ホッとしたらつい……」

涙の溢れる瞳を細めて、恥ずかしそうに苦笑する弟に、フリーの良心が痛んだ。

「ううん……私こそ、なんかその……色々ごめん……」

「あ、肩貸すね」

リルがぴょこんと立ち上がると、膝をパタパタと叩く。

「その前に、あっちに落ちてるカゴ拾ってきてくれる?」

「うんっ」

タッと駆け出す弟の後ろ姿に、さっきの少年の後ろ姿が重なった。

フリーはもう一度、足に巻かれた帯に触れる。

(さっきの男の子、私と同じくらいの歳かな……)

リルよりずっと頼もしく男らしかったその少年を思い返していると、あの時唇に触れた少年の体温がじわりと蘇る。

途端に真っ赤になる顔をバタバタ手で扇ぎながら必死で冷ましていると、リルが「拾ったよー」とカゴを持ってきた。

「何してるの?」

リルに聞かれて、フリーは慌てて答える。

「何でもないわよっ。ほら、帰るわよ、肩貸しなさいよっ」

リルは「はーい」と素直に答えて、自分より背の高い姉をヨイショと支えた。

「何でフリーはこんな遠くにいたの?」

「えーとねー、隠れる場所を探してたら、偶然カゴを見つけてー……」

リルの質問に適当に答えながら、フリーは、チラリと振り返る。


(また……、会えるかな……)


僅かに頬を染め、再会を願うその横顔は、今まで少女が誰にも見せたことのない表情だった。

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