第45話 遺されたもの
北側改札口からほど近い高架下通路。駅から行き交う人は次々と足早に通り過ぎていく。その展示スペースの一区画で足を止めて、飾ってある数点のイチョウ並木の絵を見つめる。
犬と散歩する男性。広場で準備体操をしてる少年野球チーム。ブランコで遊ぶ子ども。団地へ続く黄色い絨毯。
以前はまじまじと鑑賞することはなかったが、どれも倉田さんの魂が込められていると改めて分かる。数日前にあの団地で起きた事は……今でも信じられないくらいで、単に夢を見てただけって気もする。つまりまだ、あたしは……心の整理が付かずにいるんだろう。だからここに来た。
絵とは別に、スケッチ画も展示されている。モチーフを貯めておくラフスケッチではなくしっかり陰影をつけた書き込みがされていて、これだけでも作品として十分な価値はある。すべてイチョウ並木のものだったが、かえって統一感があり、趣味の芸術ばかりが並べられた展示スペースで際立った異彩を放っている。
その中の、若い女性の描かれたスケッチ画で目が離せなくなった。
倉田さんの散歩道、休んでいたベンチの場所だ。間違いない。隅に映る団地の位置も合う。倉田さんが見上げたアングルで、イチョウの木々を背景に女性が微笑んでいる絵。まとめ上げた髪はあたしと同じくらい。この鼻や目元や顔付きには覚えがある……そして自分にも似ているように思う。
ああ、そうか。あたしが小さい頃のママにそっくりなんだ。どんなことでも受け入れるような暖かい雰囲気と、相手の、この場合倉田さんの寄せる信頼に応えて見守っている感じがすごく。
いい絵だ。それは間違いない。でも、この描かれている人って――
「誰だろう? こんな、きれいな女の人」
「お姉ちゃんでしょ。どこからどう見ても……」
「え、そうなの?」
横で呆れる理子とスケッチを二度見し、唸り、首を傾げる。
優しさに溢れんばかりの笑顔と、引きつった自分の顔を当て嵌めてみるけど、あまり重ならない。まあ倉田さんと散歩した時間の良い所だけ切り取ってモチーフにすれば、こんな顔をしていてもおかしくないが。にしても奇跡的な一瞬だなあ。通りで事務所の訪問介護ローテーションを思い返しても誰もピンと来なかったわけだ。倉田さんとの散歩を日誌に書く人がいないし変だと思ったよ。
「冗談言ってる訳じゃないよね?」
「何が?」
「だって家を出る前ずっと鏡見てたのに」
「見てたよ? 理子がお化粧してくれて、全然顔違うからさあ」
「ああ、そこからか……」
「理子が用意した服ともばっちり合ってるし」
「メイクがすごいんじゃないよ。どっちもお姉ちゃんに合わせたの」
あたしにぴったり合う化粧が出来る妹がすごいってオチじゃないか? 今日のお出かけの服も選んでくれた。というか、この服は理子が自ら仕立てた奴かもしれない。二階の部屋で同じ服を見た気がするし。そうなら言ってくれてもいいのに。
メイクに関しても少しも教えてくれないしなあ。
でもけっこう分かって来た。理子自身のメイクをチラチラ見てると参考になるくらいには。そして、自分と妹の道具や技術の差がどんなものかも。
数日前、あの団地から生還して……色々なことが分かるようになった。パパやママがいなくなる前の自分に戻ったとも少し違う。もやもやしていた思考はクリアになり、周りの小さな変化にも気付ける。心のアンテナが高くなったような、意識がずっと広がっているみたいな……せまい場所から解放された気分だ。呪いを壊した直後に倒れ、三日も眠り続けていたみたいだが、本当に、よく起きれたと思う。今も病院のベッドで昏睡状態のままだっておかしくなかった。
「倉田さんの絵。通り過ぎる人も何気に見てるよね? ふふっ、他の展示物より何か違うって魅力があるんだやっぱり」
「ええと、単純にあたし達に目がいってるんだと思うよ。特にお姉ちゃんの方にさ」
「なんで?」
「……はあ。周りに対する勘の鋭さは、前以上なのにな」
自分? ……あ、みんな服を見てるのか。
コーディネートは完璧に合ってるよ。だって理子の見立てだもん。
白系統のブラウスのデザイン。まず開き気味の襟がいい。ネックレスの見せ方がさりげなく上がってるし、ボリューム控えめの波打った肩のフリルにも合ってる。袖口のリボンも可愛さの方にバランスを傾けさせている感じ。肩より少し内側に切り替えが入っているのは、自分の体格よりも細く華奢に見せるためだ。
スカートは……チュールスカートっていうのか、透け感のある上をめくるとデザインスカートになっている。裾とは別に切れ目からひざ下がチラッと見えていて、これくらいの見せ方ならスタイルのごつさは誤魔化せる。差し色のミドルヒールも含めて、完璧な
理子は逆にかっこいい寄りのコーディネート。
トップスだけ肩がふわふわボリュームがあって、あとはシンプルな上下にメリハリの利いたバイカラー。超薄手のパーカーや、あたしには上着もどうかって挙がっていたが、今日はそこまで寒く無いので妹は候補から外したようだ。全体的に大きく見せてるのは、あたしとの体格差を埋める為だ。今もこうして見てる人が、自分の方だけでかいなって思わせないように。つまり姉妹二人で成立させるファッションってことだろう。
「それで、お姉ちゃん。絵を見てどう?」
「……理子が前に見た時と変わらないんじゃないかな。この絵たちには呪いなんて微塵も感じられない。やっぱり昔の……倉田さんがある時期に描いた絵だけが、おかしかったんだ」
「ある時期って、倉田さんが岡崎といた時のこと?」
「うん。涼くんが言ってたでしょ? 作り出したものには魂が宿る。込められるのがほんの薄皮一枚だとしても、その瞬間の想いが明るく輝いているとは限らない」
「当時の倉田さんは大切なものを失った。その想いが怨みや憎しみとして絵に染みついていたのかもね。呪いの絵の正体はその辺か……」
「もう少し言えば、倉田さんは絵を見た人を呪い殺す……なんて思いもしてなかったんだよ。ぜんぜん望んでなかった」
「どうして断言できるの?」
「それは――」
思考が滑らかに巡り出す。倉田さんが団地に埋めた何かには、倉田さん自身の想いが込められてなかったから。無垢でからっぽのまま。出来上がっていないもの……だから他の未練や暗い感情がまとわりついた。そしてじわじわ長い時間をかけて倉田さんの繋がりを辿って二つの絵と結びついた。あれは人の念が集まったものなんだろうか。だから多くの人の精神を奪い、身体を欲しがった……自分でも今となっては確かめようのないことも多い。なにより説明しようのない感覚での話だし。
「なんとなく、そう思ってさ」
「ふぅん。なんとなくでお姉ちゃんは呪われたってわけ?」
「本人の意思じゃない。最初に絵の異変に気付いたのは倉田さんだ。あたしを呪いから遠ざけてくれた」
「結局首を突っ込んでるんだから世話ないわ」
「あんたもでしょ」
理子は少し目を丸くして、面白そうに笑う。
病院のベッドで起きたときから、妹との距離はどんどん近付いていってる。家族だけが埋められる心の空間。今日も……というか物理的に近い。
入院中、いろんな話をした。
あたしが倒れた後の始末は、だいたい涼くんがやってくれたこと。病院の手配から何から。掘り返した土とか埋めてあった物も、心配は要らないみたい。ただ団地の人に怒られ、手のケガも骨が折れてて深刻なものだったようだ。また会う時に謝ろうと思う。
倉田さん夫妻も呪いが解け、二人して自宅で療養していると理子は説明してくれた。火傷を負った旦那さんの方は呪いの事情をある程度把握していたみたいで、カスミさんに気付かれないように感謝を伝えて来た。あたし達は命の恩人、と言っていた。旦那さんが機転を利かせて絵を燃やさなかったら、もっと状況が悪くなってたしお互い様、と理子は返したらしい。
そして……両親のこと。
話を聞く限り、理子は家族を何とかしようと頑張ったのだ。パパの仕事での弱音を聞き、寄り添ってくれていた。想像以上に身体を悪くしていたことまで推し量るのは、高校生だった理子には酷だろう。ママの病気だって同じ。もっとあたしが上手くやれれば……
結局、自分の頭のもやもやが邪推して正しく伝わらないだろう、と理子が判断した。それは正解だったと思う。あたしの中での理子は悪魔に近い形をしていた。現実の妹とあまりにも剥離していたんだから。
まともな考え方はその時難かったけど、もう大丈夫。理子が話せると決めて、あたしがありのまま理解することができる。深層心理の自分の声もそう言っているし、理子を疑いなく信じられる。
「ありがとう」
「何が? 何の?」
「理子がしてくれたこと全部よ」
「そ、そう……」
「ずっとお姉ちゃんらしいこと出来なくて、ごめん」
「別に。気にしないで」
「パパとママ、あんたにも……ひどいこと言っちゃった。たくさん傷付けたんだ、大切な家族なのに」
「そんなことないよ」
「でも、あたしのせいで追い詰め――」
「は? 馬鹿にしてんのか?」
許しを乞う前に、理子の強い口調に遮られた。
怒ってるようで何か違う。あたしに向く別の感情が分かる……理子も、心の浅いとこや深い所に、色々な思いがあるんだ。
「パパとママ、お姉ちゃんがトマト苦手になってたの、すぐに気付いてたんだ。わざわざ皿から取って、おいしいって顔で残さず食べてたのを知ってたの。それってどういう意味だと思う? あんたのとげとげした言葉の裏なんて、お姉ちゃんがあたし達を大好きなことなんて……ぜんぶ分かってたってことだよ!」
「理子……」
「ねえ、あたしにも教えて。パパやママがいなくなった時、お姉ちゃんは普通に何かをすることが出来なくなってたんだよね?」
「うん。朝と夜中は特に」
「っ……でさ。もし、お姉ちゃんがそうならなかったら、あたしは……あんたの言う事だけ聞いて、頼って、楽するようになってたと思う。あの時は本当に辛くて、何も考えたくなかったから……」
理子の声が小さくしぼんでいく。
思い詰めたような表情で、足元を見つめている。
「理子、どうしたの?」
自分の問いかけにも答えない。視線が不安げに地面をなぞる。息をのんで歯を噛みしめ……やがて迷いのまま顔を上げた。不安げにこっちを見ている瞳は、追い求めても届かないものを映しているようだった。
「それでね。誰にも頼らず、一人で色んなことが出来るようになって……お姉ちゃんのことを考える時間が増えた。いつまでも過去や傷付いた自分と向き合わないのは、もしかしたら。甘えちゃうあたしのためにあえて直さないって決めて……姉と言う存在を大きくしないようにしたんじゃないかって……自分でもなんでこんなバカみたいな答えが出たのか、分からないんだけど。ずっと思ってたんだ。今でもよ」
手を寄せて、ゆっくりと理子を抱きしめる。自然とそう動いた。妹の嗚咽が身体の中から伝わってくる。
次にどんな言葉をかければいいのか。どんな顔をすればいいのか。自分の内から聞こえて来る声に耳を傾け――
【頭悪いことしてたのね。理子がそんな風に悩むなんて】
――心のままに叫ぼうとする衝動を抑えた。
あまりにもストレート過ぎないか? もう少し気の利いたセリフを……お姉ちゃんっぽくて、とげとげしない言葉を探し始める。一人で頑張っていたのも、今日で終わりなんだから。理子にはあたしがいて、あたしには理子がいるんだから。
そして……明日も続いていくのかは、まだ分からない。
絵の呪い。その関わりを残らず断つために、これから確かめに行く。
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