呪罵庫

安室 作

第1話 団地へ訪問介護




 緩やかな坂道の途中、保育園児の列とすれ違った。

 イチョウ並木が子ども達にまだらの影を落とす。もう少し秋が深まれば葉が落ちる時期だろう。小学校に入る前はイチョウの絨毯を踏み鳴らしたり、葉っぱを蝶や動物の形に見立てるだけでいくらでも遊べた気がする。

 川を跨いだ橋まで視界が開けると、付き添いの先生が橋の途中でしゃがんでいる園児に呼び掛けるのが見えた。たまたま魚でも跳ねたのかな? ついつられて子どもの目線を追うと、クラゲがぷかぷかと漂っていた。先生はしきりに公園で遊ぼう、向こうはみんながいて楽しいよ、と説得しているが、ただじいっとクラゲを見つめている。

 ああ、昔を思い出すな。小さい時の妹みたいだ。一度集中しだすとあんな感じになる。私や両親はいつもどうしてたっけ? 動かない妹を促す方法は……


 考えているうちに橋を渡り、階段も降りていた。団地に近いからか階段横のフェンスには空き缶が刺さっていたり、捨てられている物が目立つ。子どもが近くで歩いている時は誰もこんなことはしない。でも公園で遊び終わった子たちが保育園に帰って来る時にこれを見る……どんな気持ちになるか、そこまで想像しているんだろうか? 

 最初にゴミを捨てた人がいて、それを真似したり捨ててもいいと勘違いする人たちがずっと連なった結果。軽い気持ちが積もり積もって悪意すら感じるまでに膨れ上がってしまう。

 私には何も出来ない。せいぜいが自分の出来る範囲で、子どもや倉田さんが足に引っかけて転ばないようにするだけだ。




 *  *




 ぴんぽん、とチャイムを鳴らす。

 団地の廊下に音が響いてからしばらくして、ドア横の開いた窓からすり足で歩く音が近付いてきた。


「はい。倉田ですが」

「訪問介護で伺いました、北川です」


 倉田さんのどうぞ、という出迎えと共にドアが開く。挨拶をしてから靴を脱ぎ、彼女に合わせてゆっくりと廊下を進む。ほんのり絵の具の匂いがした。介護の仕事を続けていると色んな家に行くが、この柑橘系……椿油みたいな香りがするのは倉田さん宅だけだ。家族と暮らすアパートや、老夫婦で二人暮らしとか。中には掃除が行き届かず、臭いのきつい家もある。

 倉田さん宅はあまり気にならない。学校で絵の具の入ったカバンを開く時みたいな気持ちになって、楽しかったお絵かきの時間を思いだす。


「今日もよろしくね」

「はい。お手伝いさせてください」

「さっそくだけど、お掃除を。だいたいは済ませたけど、その……隅の方と高いところが残ってて」

「では掃除からしましょうか」

「頼むわね」


 そう言って倉田さんは台所で湯飲みや皿を洗いだした。私の仕事に差し支えないよう今まであえて残しておいたのだろう。目の前の白いテーブルにはもう何も乗っていない。このテーブルも倉田さんの髪の色も、自然な白って感じで似合っていると来るたび思う。思い切った色に染めている方も結構いるし。


 訪問介護の利用者はサービスを受ける際、座ってテレビを見ていたり、将棋や本などの趣味をする人が多い。倉田さんは生活補助のみ希望の方で、神経痛で歩行困難なこと以外はさほど支障はなく家事も問題なく出来る。ある意味で私以上に元気かもしれない。

 思ったより掃除は進んでいた。これなら拭き掃除メインでいいかな。ついでに襖の溝や手の届きにくい所も掃除もしておこう。


「買い物はどうされますか?」

「そうね……夕飯はあるもので足りそう。いつものように下拵したごしらえだけやってくれれば大丈夫」

「いいですよ。何か作りたいものありますか?」

「今日は煮物にしようかしら」


 倉田さんは冷蔵庫の中を見ながら他に添えるものを決めている。レンジや解凍すればそのまま皿に乗せて食べられる総菜も多く、包丁を使うのは煮物に使う根菜を切るくらいになりそうだ。ということは生活補助45分間のうち、15分の清掃。15分の調理準備で大まかに埋まった。残りの15分は倉田さんの提案次第。でもきっといつもと同じだろうな。密かに自分が楽しめる一時でもある。


 居間の方まで掃除が進むと、整頓された画材道具が机に並んでいた。さっきまで絵を描いていたのか、あるいは私が帰ってから制作を始めるのかもしれない。


 倉田さんの趣味は絵画だ。ここは言わば彼女のアトリエ。油絵がメインと言っていたが昔は様々な手法で絵を描いていたらしく、多種多様な顔料や塗料の匂いが漂ってくる。一年前、倉田さんが引っ越してきた時は棚に仕舞いっぱなしで、趣味を再開するなんて思いもしなかった、と言っていた。だから最初は絵の具箱みたいな匂いの元が分からなかったほどだ。




 まさか私の訪問介護が、彼女に筆を再び取らせる一因になるなんて……今でも予想外過ぎるし信じられない。



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