第3話 ふたり家族




「おかえり」

「ただいま」


 玄関でマグカップを持った理子とばったり会い、挨拶を交わした。そのまま階段を登っていく妹の背中をじっと見つめ続ける。私と同じセミロングの髪型なのに、角度というかくびれがある。揺れ方まで差があるみたい。身長は私の方が少し高いけど、理子は小顔で手足のパーツが細い。モデル体型ともまた違う……スリムでかっこいいのは何て言うんだっけ。

 あ、この香り。水やお茶じゃなくてコーヒーを選んだってことは、レポートや発表の準備に忙しいようだ。


 ――大学はどうだった? いま大変じゃない? 

 いくつもの言葉が声にならず、唇をかすかに通ってため息になる。ここしばらく階段に足を触れさせてもいない。二階に上がっても、私の好きだった家族のことを思いだすだけ。それは嫌だ。訪問件数が多い日の、くたくたに疲れている時は特に。


 部屋の明かりは点けず、バッグと上着だけ壁に吊るす。視界の隅に入るベッドへ倒れ込みたい衝動に駆られたがギリギリで自制できた。料理を作らなくてはいけない。頭の中には冷蔵庫の食材が賞味期限付きで浮かんでは消えていく。


「にくじゃが……」


 テーブルに並べる夕食を頭でシミュレーションする。今朝の作り置きを出すでしょ、あとは理子の疲れを取るような献立に変更しよう。


 野菜は胡麻和えに変更。

 豆腐の味噌汁はニラたまスープに変更。

 鯖の塩焼きパックも出して、豆腐は明日使おう。

 それで、後の品目……次の買い足しは……

 私は私に頭で組み変えた命令を下して、再始動する。今日一日で想定外の問題はまだない。

 



「いただきます」

「……どうぞ」


 いつもの一言を返したきりの、いつもの静けさ。

 妹は携帯を見ながら食事をする。音は出ていないから何か文章をスクロールしていたり、通信販売で買いたいものを調べているのだろう。それがいつものスタイルだ。


 理子はテレビを見ない。

 番組はもちろんニュースも見ない。他人の幸不幸には興味がない。


「ねえ」

「はい」

「何か良いことでもあったの?」

「ええとその。ちょっと褒められたんだ。きれいだって」

「男?」

「あ、女性の利用者ね。それ以上は言えないけど。だから何となく言われたことを考えててさ。お化粧、もうちょっとだけ頑張ってみようかな?  どんなのがいいと思う? 髪は縛るか纏める決まりだから――」

「メイクには時間かけない方がいい」


 ざらざらと音を立てて、私の頭の中が鳴る。

 神社の鐘のように何度も揺さぶられて、あるいは荒い紙ヤスリが私の中を削り続けるみたいなイメージが思い浮かぶ。

 

「ど、どうして?」

「介護が必要な人には、そんなの要らない。むしろ悪影響。ただでさえ若いってだけで、職員や利用者に妬まれたりする職種でしょう? きれいに見せる必要はない。最低限の身だしなみを整えるだけで。服装はもともとパッとしないからいいとして。それとも、不細工になる化粧でも教えてあげようか?」

「なんで……」


 おそるおそる視線を上げて、びくっと震える。

 整った顔が苛立ちを帯びていた。


 ――そんな事も分からないの?


 ああ、今私は。理子の機嫌を損ねているんだな。

 理子は喜怒哀楽をあまり表に出さないから、基本無表情に近い。これは相当に感情が高ぶっているってことだ。笑った顔は……確か二回見た。その時の顔と場面は思い出したくない。


「どうして……」

「どうしてそんなこと言うの。そう思ったでしょう? 説明したじゃない。要らないんだよ。化粧映えする顔でも無いんだし、時間かけたって逆効果」

「……」

「黙れば済むって思うな。とにかく職場に化粧は最低限。男ができてどこか出かけるんだったら全然かまわない。服もあたしが見繕ってあげる。でも彼氏いないでしょ? 浮いた話があれば分かるもの」


 倉田さんと散歩した時のことを言ってやりたい。

 私だって、誰かの心を弾ませることが出来るって。でもこれ以上は守秘義務を越える……それに、そんな倉田さんの想いまで、不当に貶められたくない。あれはきれいな風景と共にある思い出だ。心の奥底にしまい込んだまま、妹の罵倒や負の感情を少しでも混ぜてはいけない。


「はあ。さっきの気持ち悪いニヤついた顔……真相を暴けば何でもない話だ。誰かのちょっとした言葉で、感情が揺れて、気になって。あんたはとてもとても救い難い頭の構造してるわ。それが再確認できたってだけ」


 ごちそうさま、と理子が言って食器を流しに持って行く。

 本当は分かってた。伝えたらああいう反応をするだろうなって。化粧に関してもそう。過度なものは避けるべきだって、分かってた。

 だけどもし、そこから話が続いたとしたら。最近のメイクや服のことじゃなくたって大学の話とか、進路に悩んでいるなら自分の体験や失敗談だっていい。理子が望むなら子どもの頃の話だっていっぱい……そうだ。私は理子と、何でもいいから話がしたかったんだ。昔は仲良かったんだしさ。


 口で噛んでいた物をのみ込んだ。ドロドロとしたものが私の胃に落ちる。何の味もしなかった。いつものことながら本当に理子と同じものを食べているのか? 味見はだいぶ怪しいが、母の遺したレシピ通りに作ることは出来る。私にオリジナルや創意工夫は向いてない。決められた食材を下拵えして、決められた手順で作るだけ。倉田さんや母のように新たに何かを創り出すことはホント無理だから。

 それとも鉄かこれ? 胃の中に鉛が溶けたみたいに重くなっていく。その重さで姿勢が丸まり、引きつれるような痛みが背中からやってくる。

 漏れるため息も重たかった。




 *  *




 ああ、すっきりしない。

 頭の中に霧が立ち込めているようだ。

 理子はなんであの時、どうしてあの時、と百万回考えても分からない。

 考えてもしょうがないのにずっと考えている。嫌われてるだけならいいのに、妹の邪魔にしかなれない自分をどう扱ったら役に立つんだ?


 汗かいてる。壁に掛けてある時計……外したら埃がたまってるなきっと。壁の色が時計の形に褪せてるのはどうすればいいだろう。壁紙を張り替えた方がいいのかな。それよりも時計を元に戻した方がいいか。電気の輪郭……子どもの頃、父が切れた蛍光燈を取り換えるのにカバーを外したら小さな羽虫が何匹か死んでいたっけ。あれから大掃除でも中を拭いたことはないから、今も小さな亡骸はいるのかな。寒い。呼吸が大きすぎるか? でも小さくすると目覚まし時計の針の音がうるさいし、心臓の音も気になって来るし。


 そんなこと気にして何になる?

【頭が悪い】【どうしようもない存在】


 自問自答を繰り返しても、私は私だ。

 なんで。どうして。いつもいつもこうなんだ?

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