学芸会

秋野 柊

第1話

 僕は今、体育館の階段を降りている。二階では学芸会の本番が行われていて、僕のクラスが発表をしている最中だ。


 内容はクラスの生徒数人が考えたオリジナルの脚本で、よくあるファンタジーだった。

 僕の出番は既に終わっている。なので、こうして僕が途中で抜けていても誰も気がつくことはない。


 いや、例えそのまま僕がいたとしても誰も僕の存在を気に留めないはずだ。いつものように。


 土曜日ということで、たくさんの保護者が自分の子どもを見にやってきていた。

 中には僕の親のように仕事で来られない人もいるが、そんな人たちは大抵、友達の親が代わりに写真を撮ったりしているはずだ。


 階段を下りて正面口を右に行くと短い廊下があり、一番手前には図書室がある。更に進んでいくと家庭科室、理科室、多目的室がある。その突き当りには裏口があるのだが、今は重い扉が鍵と共に閉められていて開けられないはずだ。


 僕は、長いロープを丸めたものを手に持ち、足音を立てずに一歩一歩、理科室を目指す。

 僕には友達がいない。だけど、僕には誰よりも大切な人がいる。


 僕は、いじめられていた。同じクラスの竹本という男と、その取り巻きたちに。


 その内容はありきたりなものだった。


 まず、物を隠される。筆箱、上靴、教科書、体操服など色々。前に眼鏡を隠されたことがあったのだが、あれには焦った。何せ何も見えないのだから。その時に僕は、「眼鏡を探すのに眼鏡がいるじゃないか」ということを発見した。


 次に暴力。これは物理的にダメージをもらうので、あまり好きではなかった。しかも、奴らもバカではなかったようで、殴るということは一切せずに関節技をキメるという手段をとってきた。


 そうしておけば、あくまで「おふざけ」で済むというのをわかっていたのだろう。人間としてはかなりのバカだが、そういう面だけは賢いというクズらしい特徴をやつは持っていた。


 他にも、わざと僕と目を合わせてきて、目が合うと途端に「うわあっ」と叫びながら逃げるなど。しようもないけど、精神的にはジャブ程度の威力の嫌がらせをされてきた。

 

 そんな僕にも大切な人が一人いた。


 それが胡桃だった。


 胡桃はとても美しく、さらりとした黒い髪の毛は綺麗にボブに切り揃えられていて、それがとても似合っていた。更に頭が良くて、スポーツもできた。


 胡桃の両親は共に医者をしていたらしいが、二人とも胡桃が小さい頃に死んでいた。家族旅行の帰り道で、大型トラックの運転手の居眠り運転に巻き込まれたのだ。

 大破して、燃え盛る車の中で、奇跡的に胡桃だけが生き残ったという。


 そして、胡桃は叔父さんに引き取られた。胡桃の叔父も医者だった。そして、信じられないくらいのお金持ちだった。彼女の家には胡桃専属の世話役なんていう人もいたのだ。


 胡桃の叔父はとても厳しい教育方針を持っているらしく、習い事の数が尋常ではなかった。そして時折、しつけという名の暴力も受けていた。


 胡桃はそんな環境で今まで生きてきた。


 だからなのか、彼女は全ての出来事を、人を、どこか冷めた目でみつめていた。それはこの世界から距離を置き、自分と世界の間に一線を引いているようだった。


 もちろん、誰もが彼女と仲良くなりたがった。誰もが胡桃に憧れ、尊敬し、崇め、恋をしていた。誰もが胡桃の虜だったのだ。


 しかし胡桃は、そんな奴らを相手にすることはなく、上手にあしらったり、軽く受け流したりしていた。


 胡桃は僕以外の誰とも仲良くしようとはしなかった。


 そう、彼女は僕としか遊ばなかった。なぜか彼女は僕にだけ心を許していたのだ。

 それがなぜかはわからない。庶民で、容姿も頭も良くはなく、友達もいない上にいじめられている僕のどこが良かったのか。


 それでも胡桃は誰にも見せたことのない微笑みを僕に浮かべ、僕の手を握り、僕にささやきかける。誰も見たことのない胡桃の姿を、僕だけは見ることができた。


 そして僕も僕で、胡桃とは深い部分で通じ合っていることを確信していた。

 もし胡桃が信じられないほどの不細工だったとしても、僕は胡桃に恋をしていただろう。


 それでも僕たちは、人前で話すことをお互いに避けていた。なぜかそれは美しくないと思っていたのだ。誰にも知られず、こっそりと繋がっていることが、特別なものに感じられたからだ。


 しかし、それが僕のいじめられる原因となった。


 竹本はいわゆるガキ大将というタイプで、学校でも目立つ存在だった。顔は良くなかったが、運動神経は良い。常に友達に囲まれ、友達を引っ張る姿は人気者と言えなくもなかった。


 竹本は、胡桃のことが好きだった。それも、かなり。

 竹本はよく胡桃のことをこそこそと追い回していた。そしてそのせいで、僕と胡桃の関係性に気づいてしまったのだ。


 それからいじめが始まった。負け犬が、なんとか自分の惨めな気持ちを慰めようとしているのだろう。


 しかし、何をされても胡桃は僕のものだ。僕は胡桃のものだ。

 僕がいじめに耐えられていたのは、単にそういうことだ。


 しかし、それも今日で終わる。

 この学芸会で。



 僕はあの頃を回想する。


「――なにをしているの?」


 胡桃が下駄箱で立ち尽くしている僕に向かって声を掛けた。


「いや、ちょっとね。上靴を隠されただけだ」

 僕は何てことはないという風に答えた。


「また?」

 胡桃は静かに呟いた。その表情に変化はないが、それでも不快に思っているのがわかった。


「大丈夫だよ。もうやられ尽くされたことだから。今更何とも思わないよ」

「でも、上靴はどうするの?」


 胡桃は笑うこともなく、少し首を傾げて僕に尋ねる。


「どうするもこうするも。自分のお金で買うのも癪だ。もう上靴は履かずに過ごすよ。上靴ごときに神経を遣うのも煩わしいと思っていたんだ。ちょうどいいさ」


「それならちょうど良かったわね」


 胡桃はそう言ってやっと微笑んだ。


「あなたは打たれ強いわね。やり返そうとは思わないの?」


 僕はふん、と鼻を鳴らした。


「くだらないね。奴らと同じ土俵に立つ気はないよ。ほっとくのに限るさ」


 本当は逆らえない理由もあるけど、それは言えない。


「素敵な負け惜しみね」


「そうさ。僕は受け身、受け身の人生だよ。笑うがいいさ」


「別に笑うつもりはないけど」


 そこで胡桃は少し黙り込む。


「でも、少しはやり返して欲しいわ。何だか悔しいもの」


 それに対して僕は何も言い返すことができなかった。


「そういえば、あなたは学芸会で小道具を作る係だった?」

「そうだよ。通知表も図工だけはいいからね。唯一の特技だよ。そして劇での役は町の人Bときたもんだ。セリフは一つだけ。ぴったりだろ?」


 胡桃は小さく微笑む。


「そして君はヒロインのお姫様役だ。惨めなもんだよ。格差社会ここに極めり」


 僕がそう大袈裟に嘆いてみせる。


「いいじゃない、それでも」

「そう言うけどね。小道具係に町の人Bじゃ、君と釣り合わないだろう?おひめさま?」

「精々、働きなさい」


 なんだと!と僕が言うと、胡桃は声を上げてころころと笑った。




 ――体中がひどく痛い。


 私が持つ一番古い記憶は、全身を襲う激しい痛みだった。鉛のように重い身体、頭の中はじんじんとするような、ぼんやりとするような気だるい感覚が支配している。

 ガソリンや、熱せられたアスファルトの匂い。胸がやけるような金属の匂い。


 私は大破した車に閉じ込められていた。車の中からはかろうじて外の景色を見ることができた。雪がはらはらと降っているのがわかった。

 なぜこうなっているのだろう、と私は考える。


 年末だからと車で旅行に行ったのだ。父さんと母さんと一緒に。春から小学生になる私の思い出にと。あの日私は旅館でたくさん美味しいものを食べて、寝るのが惜しくて夜遅くまで起きていた。


 父さんは寡黙だったけれど、私にも母さんにもとても優しかった。父さんの優しさは言葉がなくとも、私を見つめる瞳や、私の頭を撫でる手の温度で感じることができた。


 反対に、母さんはよく喋る人だった。いつも笑っていて、母さんの悲しい顔など見たことがなかった。

 母さんの手料理はとてもおいしく、父さんも寄り道せずにいつも真っ直ぐ帰ってきて一緒に食卓を囲んだ


 二人とも、私を愛してくれていた。


 ――なぜ、こうなっているのだろう。


 私は重い頭を何とか動かし、周りを見渡す。

 父さんの手が見えた。


 私の頭を優しく撫でてくれた父さんの手は、まるで人形の手のように別のモノに見えた。その手は何かを守るかのように助手席だったであろう所に伸びている。

 私はその手の先を見る。


 そこには母さんがいた。


 いつも楽しそうにおしゃべりをしていた母さんが、人形のように横たわっていることに私は心の底からぞっとした。


「かあさん」


 私は胸やお腹が痛むのを耐えながら呼びかける。


「かあさん」


 かすれる声でいくら呼んでも母さんはぴくりとも動かない。もっと大きな声を出したかったが、思うように声が出ない。


――かあさん、とうさん。


 私の意識はそこで途切れた。

 次の記憶は病院のベッドの上だった。

 私は肋骨を何本かと足の骨を折り、気管支を火傷して入院していた。


 あの日、対向車のトラックが居眠り運転によって私たちの乗る車に衝突してきたそうだ。父さんと母さんは即死だった。


 私は奇跡的に助かった。


 そして、退院してから私は叔父の家に引き取られることになった。

 叔父はいくつかの学校を経営している。結婚はしていたが、子どもはいなかった。

 叔母は叔父の海外に学校を作る事業の為、海外に移り住んでおり、今までに二回しか会ったことがなかった。


 叔父はとても冷たく、厳しい人だった。先に生まれた父さんに人間としての優しさを全て取られてしまったのだと私は確信している。

 叔父は私に完璧を求めた。勉強も、運動も、言葉遣いも、態度も、習い事も。上手くできないと叩かれることも多々あった。


 父さんと同じ血を分けあったとは思えない叔父の手は、私の頭を撫でることはなく、私を傷つける為に存在した。

 私は普通が良かった。


 奇跡なんていらなかった。


 私は、父さんと母さんと同じところへ行きたかった。



 ――どうも最近、胡桃の様子がおかしい。


 胡桃は精神的に不安定な時期がある。それは家庭での生活が原因だろうけど、それでもいつもは何とかバランスを保っていた。

 しかし、近頃はそのバランスが崩れつつあった。


「家に帰りたくない」


 この日も胡桃はそう言って、図書室の端に席に座り込んでいた。


「おいおい、どうしたんだよ。いつもの飄々とした胡桃さんはお留守なの?」


 僕はそんな胡桃を励ますように言い、隣に座った。


「もううんざりだわ。良い子でいることに疲れたの。家に帰ったらバカみたいに習い事のパレードを行進して、自由に遊ぶこともできない。好きな本も読めない、テレビだって見られない」


 胡桃は瞬きせずに早口でそんなことを言った。


「でも、私は逆らえない。従うしかないのよ。そうしなければ私は生きていけないもの。あの人は良い子しかいらないんだから」


 そして胡桃は涙をぽろぽろと流した。


「逃げ出せばいいじゃないか」

「小学生の私が?どうやって?」


 胡桃は責めるように僕を見据える。いつもなら、僕がなだめすかして何とか落ち着かせているのだが、最近はそれが上手くいかない。彼女がいつまでも食い下がるのだ。


 「父さんと母さんに会いたい」


 胡桃はそう呟いて、自分の膝に顔を埋めた。僕はどう声を掛ければいいのかわからず、ただ黙って胡桃の顔を覗き込んだ。


「あなただけよ。私の心の支えは。他の人なんていらない」

「僕だって、そうさ。胡桃さえいればいい。胡桃の為なら何だってできるよ」


 僕は力強い口調で返した。それだけは確信を持って言える。


「それに、僕を見てみろよ。親がいたってこの有様だぜ?家でも学校でも透明人間さ」


 僕は小学生になってから、親とごはんを食べたことがなかった。朝も夜もだ。僕は小学一年生の時から、誰もいない家を出て、誰もいない家に帰る生活をしていた。

 胡桃はそんな僕を、涙を溜めた目でじっと見つめる。その濡れた瞳は、何よりも美しかった。


「私の為に、何でもできるの?」

「ああ、できるとも。」


 胡桃は目を逸らすこなく僕を見つめる。


「・・・それなら、私のこと殺してってお願いしたら、殺してくれる?」


 思いもよらない胡桃のお願いに、僕は面食らった。


「おいおい。できればもっとかわいらしいお願いをされたいけれど」

「・・・」


 胡桃は無言で僕を見る。いつもお互いにいきすぎた冗談を言い合っているが、それは冗談の類にはとても思えなかった。


「・・・まさか、本気じゃないだろうね?」

 僕は真面目に聞き返す。


「さあ、どうかしら」


 胡桃ははっきりと否定せず、手をひらひらさせた。

 僕はぽん、と手を打った。


「よし、わかった。じゃあもし君を殺したとしよう。そうしたら、僕はどうなる?」

「殺人犯ね」

 胡桃は冗談を言うように呟いた。


「おーけい。よしんばそれで良しとしよう。でも、僕が言いたいのはそういうことじゃない」

「どういうこと?」

 胡桃が少しづつ平静を取り戻しつつある様子で尋ねた。


「胡桃がいなくなったら、僕はどうすればいいの?胡桃がいない世界なんて僕には何の価値もないよ」


 そうだ。僕は心から、そう思っている。


「殺人の罪なんて、そのことに比べたら苦でもなんでもない」

 僕ははっきりとそう告げると、胡桃の瞳を見つめた。


「・・・ありがとう」

 そう言って胡桃は、僕の胸に寄りかかって目を閉じた。そして小さく溜め息をつく。


「どういたしまして」

 僕は胡桃の頭をそっと撫でた。


「それなら、私が死んだら、あなたも死んでくれる?」

「もちろん」

 僕は迷うことなく頷いた。


「私より先に死なないでね。絶対よ」

「ああ。でも、自殺なんてバカな真似はやめてくれよ」


 すると胡桃は僕の言葉に応えることはせずに少しの間だけ黙り込んだ。


「――少し考えたいことがあるの」


 胡桃はどこ見ているのかわからないけれど、真剣な眼差しでそう呟いた。その含みのある言葉が、僕を不安にさせた。



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