第6話 ゆうご 3
きん、と耳鳴りが脳内に響いた。それ以外の音は掻き消え、騒々しい静寂が僕を包んだ。
「何を・・・」
「キミは『胡桃』という人間なんだ。正直な話、キミは『胡桃』が創り出した一つの人格に過ぎないんだよ」
伊藤さんがまるで別人のように見える。小林さんと石川さんは、そんな伊藤さんと僕をただ静観していた。
「そして、キミが現実だと思っている世界は、全て『胡桃』が創り出したものだ。キミが夢だと思っていたものが、実は本当の現実なのさ」
そして伊藤さんは、あのたくさんの名前が載っているパソコンの画面をまた僕に見せる。
「ここに書かれている名前はね、私たちが今まで出会った、キミの・・・つまり『胡桃』の持つ人格の名前なんだよ」
――そんな・・・バカな。僕は、僕だ。本物も、偽物もあるわけがない。
「そうさ。キミは・・・いや、他の人格達もそう信じて生きている。一人だけ例外がいたけどね。つかさちゃんという子だ」
つかさ、という名前を聞いて、石川さんの体がぴくりと反応した。見ると、石川さんはとても淋しそうな顔をしている。
「そして人格の数もさることながら、私が何よりも驚いているのが、『胡桃』が自分の脳内に恐ろしいほど緻密な世界を創り出しているということだ。本当に驚愕モンさ。これは言うなれば、神の所業だね」
それは、単純に専門医としての好奇心からの発言なのだろうか。しかしその伊藤さんの口調からは、まるで自らを皮肉っているかのような感じも受ける。
「キミの脳内にはこの現実と同じような世界がある。キミはそこで暮らしている。他の人格の子たちも一緒にね」
さっきから、壁にかかっている時計の音が嫌に耳につく。コーヒーメーカーのコポコポというお湯を吐き出す音が、やけに不快に感じた。
「少し前までは、『胡桃』の世界に彼女の作った人格達が共存しているというのは、仮説の範囲でしかなかったんだけどね」
そこで伊藤さんは、小林さんに目を向ける。
「でも、ひよりちゃんという人格のおかげで、『胡桃』の人格達が一つの世界で、連続性、共通性を持って共存しているということが証明できたんだよ」
ひより・・・?僕と同じクラスの、あのおとなしい女の子か?
「ひよりという名前に心当たりがあるだろう?」
そしてその後に、伊藤さんは数人の名前を挙げた。それは僕と同じクラスの子たちの名前で、そのうちの一人は僕といつもつるんでいる奴のものだった。
「・・・・・・」
妄想の世界を・・・他の人格と一緒に・・・。
それなら、僕が毎日通っていた学校は?通学路は?
よく行く本屋は?
いつもつるんでいる友達は?
先生や、先輩や、後輩は?
好きだった、あの子は?
「――ここは、どこだい?」
またも唐突に伊藤さんが尋ねる。いつもいつも、この人は唐突すぎる。こちらの気持ちにはお構いなしだ。
「ここって・・・。ここが現実なのはわかっていますよ」
「そうかい。じゃあ、キミはこのあとどこへ行くのかな?」
「どこって・・・家に帰ります。もちろん、現実にある僕の家へ」
僕は「現実」という言葉を強調した。
「もちろん、キミの世界を虚構のものだなんて思っちゃいないよ。そう表現することは、キミ達にとても失礼だからね」
「どういうことですか!」
僕はついに堪え切れなくなって叫んだ。
「キミの『ココロ』は家に帰るんだろう。でもね、キミの『カラダ』はここを出てすぐにある、特別病棟の『白い部屋』へ帰るんだよ」
「な――」
あまりにも衝撃的なその言葉に、僕の体は硬直した。
いつも夢で見る、あの白い部屋。白い枕や布団、カーテン。格子の付いた窓。無機質な空間。何も考えず、ただベッドの上に座っている、あの夢。
「そんな・・・そんなの」
あれが、現実だなんて・・・。
「信じることは無理だろうね。私たちも長年の付き合いだからね。それはよぉくわかっている。それくらい、『胡桃』の世界は完璧なのさ」
胡桃の・・・世界?
僕が現実だと思っていた世界は、幻想でしかなかったのか?
「私たちの目的は、『胡桃』の主人格に会うことだ。そして『胡桃』の世界のルールと、歴史を知ることさ」
伊藤さんは葉巻の火を丁寧に潰して消した。
「治療法はわからない。と、いうより今は胡桃の持つ人格の数を把握するだけでも精一杯な状況さ」
僕は伊藤さんの言葉が、知らない言語のように聞こえた。しかし、何を言っているのかはわかる。変な気分だ。
「そして今回、私たちは新しい試みをすることにした」
そう言うと、悲痛な面持ちで伊藤さんは僕を見つめた。
「それはね・・・胡桃の持つ人格を消してみるというものだ」
伊藤さんはそう言って、慰めるように僕の手を握った。
「そしてキミが、その対象になった。すまない」
僕の中で、何かが壊れた。
でも、二つわかったことがある。
なぜ、『胡桃』という名前にあれほどの懐かしさを覚えていたのか。
胡桃というのは、僕を生んだ神様だったのだ。
胡桃というのは、僕の母親の名前だったのだ。
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