4話.一階の監視者

 警視庁の特殊捜査課特殊部隊に配属しているはずの一人の女。光世橋市の人通りの少ない歩道沿いに建てられた元廃ビルであった建物の一階の借り部屋で鍛えぬかれた肉体を、不本意に持て余していた。

 彼女に課せられた特殊任務は、ある一人の男を無期間永続に見張ることであった。


━━四年前。



 特殊任務を警視庁副総監から直々じきじきに任命された為、捜査対象者や任務概要を見るまでは、大層名誉なことだと思い込み、自身の日頃の努力の成果だと歓喜していたわけだが。

 しかし、長期の張り込み捜査とだけ書かれた書類一枚と彼女の周辺の捜査官たちの反応から彼女は察した。半身が、どす黒い沼の中に浸かっているような感覚に見舞われた。


 「……あたしはお邪魔だったから、組織的に強制的に疎外されたんだ」


 捜査中には猪突猛進。犯人に向かっての命令に背いた発砲行為。気づいた時には既に、話せる相手などいなかった。

 若くして、警視庁の特殊部隊という名誉ある一団に配属されたのに、見事な空回りばかりしていたコトを、彼女の正義感が彼女自身の認識から遠ざけていた。

 気づいた時には警察という組織の外へと、肩書きだけを両手に抱えて弾き飛ばされていた。その後、一番に連絡したのは特殊部隊の鬼と恐れられていた男だった。


 「宮下さん!あたし……あたしっ……」


 宮下総一郎は彼女の所属する特殊部隊の高位であった。


 「オジサン風情の立場じゃあ……どうにかするのは、むじいかなぁーー。でもさぁー、まだ、若ぇーんだから、危険な任務なんかよりも安全な場所でゆっくりすんのもいいんじゃねーかなぁ?しっかり国家公務員としての給料も入ることだしよー」


 彼女は予想外だった。信頼していた大先輩から発せられた言葉に足が震え、その場にへたり込んでしまった。勿論、どうにかして欲しかったわけでは無かった。

 しかし、正義感で世の為、人の為と言ってしまえば傲慢にしても、平和を守るために尽力したいという誠心は人一倍あった。

 辛く苦しい訓練にも耐えて努力してきた彼女にとっては、これほどにむごい仕打ちの後にかけられる言葉としては不相応で、人生最大の悲哀を感じせざるおえない。




 表向きは長期捜査の一環でも、実質は人事異動。蝉の声が道路からでも聞こえる暑い八月。

 警視庁特殊捜査課の彼女のデスクの荷物ーー段ボール二つ分という簡素なソレがトランク内で揺れる音と、冷房の音だけがパトカーの車内で響く。

 運転席には額に汗をにじます宮下総一郎。

助手席には気まずいという感情を通り越して、覇気のない表情を浮かべている彼女が窓ガラスの淵に ひじを置いて通り過ぎていく白線をただ眺める。二時間の沈黙にしびれを切らした総一郎が、二回り年下の後輩に声をかける。


 「なぁ、その……なんだ。前の捜査官の残したマニュアルとやらがあるそうだ。目……通したか?」


 「異動先の……お部屋にあるので。まだ見てません。それより、宮下さんは知ってるんですよね?捜査対象って。出所したばかりの凶悪犯とか何かですか?」


 「そっ……それはだな……」


 言葉に詰まらせるベテランの顔を横目で見て彼女は悲しく笑った。


 「いいんです。すいません。私みたいな組織の汚点がそんな危険かつ重要な仕事を任さられるわけないですよね」


 「パトカーじゃ、録音マイクがあるから話せない。でもなぁ、大切な任務だ」


  丁度、会話が途切れた瞬間にパトカーは停止した。


 そこは、三階建ての廃ビルだった。無機質な白色が夏の日の下では揺れているように彼女は感じた。


 よっこらしょっと、宮下が若い後輩の荷物の入った段ボールを二つ軽そうに持ち上げる。年の割に鍛え抜かれた両腕が彼の生き様を象徴しているようだ。一階の少し古めの引き戸を開くと空調だろうか。涼しい風が彼女の身を包んだ。


 「そんじゃあ、俺は二階で挨拶してくるから。ちょっと待ってろ」


 「あっ、はい」


 引き戸を開けたら土間があり、すぐに腰あたりまでの段差。その先に生活空間のようなスペースが広がる。

 奥に入ると、二枚のマニュアルと印字された茶封筒にキスマークが押されている。

 一瞬の間を開けてから、読まずにそっと茶封筒を裏返した。


 「……なかなか、下りてこないなぁ」


  一階入り口の横にある、もう一つの扉からコンクリートの階段をゆっくり上がる。二階の古びた鉄枠の扉の向こうから声が聞こえてきた。


 「あぁ、今、下で待たせているんだ。あいつは、真面目で一生懸命なやつなんだ。よろしく頼むぞ」


 扉越しに、宮下の低めの声が聞こえ、もう一人の若めのだんせいの声も聞こえてくる。内容もそれなりに聞き取れたはずだ。


 「私の監視者だ。しっかりしてくれていないと困る。日和だっているんだ」


 「もう、日和ちゃんも中学生かぁ」


 総一郎は、まるで自分の孫の成長を感じる祖父のように感慨にふける。


 「もう少ししたら帰ってくるから、総一郎も残っておいてくれ。日和が喜ぶ」


 扉の勢いよく開かれる音が、彼女の真後ろで聞こえる。


 「ひゃっ!!」


 リズミカルな足音が近づいてきたのと、同時に元気な声が彼女の背後から掛けられた。


 「お姉ちゃん、誰ですか?」


 その声に反応し私は扉を開いた。日和と私に挟まれて立ち膝だったであろう彼女が、うつ伏せにつんのめるというカオスな状況が生まれた。


 「日和、おかえり」


 「ただいまです!照望さん!!」


 自己紹介が彼女の上司。総一郎を通して彼女に告げられる。


 「彼が、涼川照望。お前が監視する相手だ」


 「よろしく。お嬢さん」


 ピシッと敬礼をして彼女━━堂川どうかわ清香きよかは、私と日和と初めて顔を合わせた。


 涼しいエアコンの風が充満した部屋を人の暖かい空気が包んだ。



━━四年後。



 今や肩甲骨けんこうこつの下先まで伸びた黒髪は、警視庁配属頃の動きやすさを優先させていたベリーショートの面影を一つも残していない。

 彼女自身、前監視者のマニュアルの内容は期待こそしていなかったが意外と分かりやすかったと笑っている。今となっては、日和とは家族同然まで仲が良くなり『きよねー』と呼ばれている。


 「きよねー!ただいまー!これ、きよねーのお土産です」


 「あーー、日和ちゃん。修学旅行楽しかった?お帰りなさい」


 警視庁特殊課所属の監視者としての彼女の仕事は、私━━現名げんめい涼川照望のつねの身辺調査。戸籍などの不備や欠落の解消、法的手続き云々と共にボディガードを取り行うことだ。




 要するに……死ねない私を、監視、警護すること。


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