二五.歪な器

 それは急に目の前に現れた。森の中、その一角だけ不自然に木々がなぎ倒され地面がむき出しになっている。その中央でフェルとあの優男が激しい肉弾戦を繰り広げていた。両者ともまるで人とは思えないほどの動きをしている。状況はまだ完全には理解できていないが、うかつに近づけばフェルの足を引っ張りかねない。そして二人から少し離れた場所に誰かが倒れているのが見えた。その美しい銀髪を見間違えるはずもない。


「リタ!? どうしてここに!?」


 すぐさまリタに駆け寄る。ちゃんと意識はあるようだがその白い肌には痛々しく血が滲んでいる。まさか優男にやられたのか。心の奥底からどす黒い感情がじわじわと湧き上がってくる。


「クロ、リタを連れて逃げろッ!」


 男の攻撃をかわしながらフェルが叫ぶ。人狼であるフェルが人間にここまで押されている。優男が何をしたのかはわからないが、かなり状況は苦しいようだ。かといってフェルを置き去りにしていいのか。


「早くしろ! あたしがこいつに勝てるって保証はないんだぞ!」


「その通りだ、クソ犬ッ!」


 男の拳がフェルの体を捉え、そのまま吹き飛ばす。相当な威力だったのかフェルはすぐには立ち上がれないでいる。その時、男の体から何か嫌な気配が漂うのを感じた。今まで感じたことのないこの感覚、まさに第六感とでもいうべきものだが、それに感動しているような場合ではない。


「吸血鬼ィ! 仲間が細切れにされるところをよく見ておけェ!」


 男の放つ気配はどんどん強くなっていく。これはまさか、男の魔力を感じ取っているのか。そうだとするとまずい。しかしどうすればいい? 魔法すら使えない、ただの人間でしかない俺に、いったい何ができる?


「クロ……」


「リタ! どうすれば——」


 リタの顔はすぐそこにあった。紅い、宝石のように綺麗な瞳だ。そしてリタの口が俺の口を塞いだ。その瞬間完全に思考が止まる。これは、何が起こっているんだ?


 リタの舌が俺の半開きになった歯をこじ開けて、中へと入ってくる。血の味がした。ああ、人間も吸血鬼も血の味は同じなんだな。そして次の瞬間全てを理解した。理屈や疑問すら置き去りにするほどの圧倒的な力が、体中にみなぎっていくのを確かに感じる。声に出さずともリタの目がはっきりと語っていた。フェルを助けて、と。


「風よ、驕り、昂ぶり、怒り狂い、彼の者を——」


「黙れ」


 俺の拳は優男の顔面を捉え、吹き飛ばされた優男は車にでも引かれたかのように地面をゴロゴロと転がっていく。これだけのことをしたのに拳にはまったく痛みを感じない。まるでまったく別の存在に生まれ変わったみたいだ。


「ク、クロ……お前……」


「フェル、これどのくらい持つんだ?」


「え? い、いや、それはあたしにもはっきりとは……」


「じゃあ二人で一気に片付けよう」


 まだ優男からは強い気配を感じる。案の定優男は起き上がり、血走った目でこちらを睨みつけてくる。その気配からして、おそらく優男も俺と同じ状態であろうことが今ならわかる。さっきはうまく不意をつけたからよかったが、ここからは正々堂々正面切っての殴り合いだ。


「お前もだ……。お前も殺してやるッ!!!」


 突進してくる優男をそのまま受け止める。体格も力もほぼ互角、だがこちらにはもう一人いる。素早く優男の側面に回り込んだフェルが、その脇腹に豪快な蹴りをかます。すかさず体勢を崩した優男の胸倉をつかみ、思い切り地面に叩きつけた。あまりの衝撃に地面にはひびが入り土埃が舞う。そのまま馬乗りになって追撃しようとしたが、優男の掌底を胸に食らって体が浮き上がる。肺が押しつぶされ、呼吸ができない。


「風よ、刻め!」


「危ない!」


 放たれた魔法が俺の首筋に触れる直前で、フェルが俺に飛び掛かり攻撃をかわす。再び優男の体から嫌な気配が溢れる。俺の魔力に対する感度はどんどん上がっているようだ。今度は優男の放つ魔力が手に取るようにはっきり感じられる。これなら次の魔法はかわせる、そう確信した。


「風よ、刻め!」


 詠唱と同時に優男に向かって走り出す。しかし、その時気づいた。優男はこちらを見ていない。その視線の先にあるのは——リタだった。


「やめろォッ!」


 鮮血が散り、地面を赤く染める。風の刃を受けたのはリタではなくフェルだった。驚異的な脚力と瞬発力でとっさにリタをかばったのだ。その背中は切り裂かれ、露わになった肌からとめどなく血が流れている。


「フェル!? 大丈夫か!?」


「よそ見をするなァッ!」


 しまった——。優男の強烈な蹴りをもろに食らってしまう。吹き飛ばされた体はずるずると地面をえぐりながら、10メートルほど進んだところでようやく止まった。体中の骨が軋み悲鳴を上げているのがわかる。


「お前らならそうすると思ったよ。本当に馬鹿な奴らだ……!」


「ぐッ……ぅ……うるせぇ……」


「安心しろォ……お前はすぐ楽にしてやる……!」


 優男の魔力が高まっていくのを感じる。立ち上がろうとするがまだ体が思うように動かない。やっと、やっと力を手に入れたのに、また俺は何もできないのか? 自分を救ってくれた仲間を守ることもできずに、ここで死ぬのか?


「風よ、驕り、昂ぶり、怒り狂い、彼の者を切り刻め!」


 いくつもの風の刃が飛来し、俺の体を切り裂いた。






「……なに?」


 優男が小さく呟くのが聞こえた。確かに身を裂かれるような痛みを感じたはずだ。だが俺の体はまだ原型を留めている。体に刻まれた傷跡からは血の代わりに何か黒いものが滲み出ている。液体ですらないそれは重力を無視するかのようにゆらゆらと揺らめいていた。これは、なんだ?


「異世界人め……妙な真似をしやがって……」


 優男にもこの現象は理解できないもののようだ。だが生きているならとにかく戦わないと。そう思った瞬間、黒い揺らめきは急に膨れ上がり俺の体を包み込んだ。視界は少し暗くなったがその他に特に異常はない。これはまさか、俺の体を守ろうとしてるのか?


「風よ、連なり、逆巻き、我に従え!」


 詠唱と同時に優男が凄まじい速さで突っ込んでくる。優男の体に強い魔力が纏わりついているのが感じられる。風によって自分の動きを補助することで、身体能力を強化しているのだろう。だが俺の体に触れた瞬間、優男の纏っている魔力がかき消されていく。理由はわからないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。持てる力を全て振り絞り、優男を殴りつけた。


「ぐがァッ!?」


 吹き飛ばされたその体には、まるで炎が燃え移ったかのように黒い揺らめきが纏わりついている。まさかこれが魔力をかき消したというのか。はたしてそんなことが可能なんだろうか。魔法に関する知識の乏しい俺ではわからないことだらけだ。


「はぁ、はぁ、貴様……貴様ァッ!!!」


 優男はまだ立ち上がる。お互いにもう限界は近いはずだ。一体どれほどの執念がこの男を突き動かしているのだろうか。その血走った目からはもう正気は感じられない。この戦いを終わらせるためには、もうこいつを殺すしかないのかもしれない。フェルの傷だって相当深いはずだ。もう迷っている時間はない。


「許さんぞォッ!!!」


「これで……終わらせる……!」


 覚悟を決め、俺は一気に踏み出した。

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