22話 冥土の旅の一里塚

 息も凍るようなある日の早朝、ケイから無線で一斉に「今日が大晦日だ」と告げられた。どうやら時計すら存在しない堅洲村カタスムラにも等しく年の暮れはやって来るようだ。

 ヒデは湯気のように真っ白な息を吐きながら、真っ赤になった手で雑巾を絞った。宿イエ中の拭けるところは全て拭ききったという満足感が汗となって頬を伝う。

「毎年当日連絡なんですよ。もう少し早く年末だと教えてほしいものですよね」

 アレンは困ったような表情で箒やバケツを玄関の片隅にまとめる。ひと段落だというように手をはたき、ヒデに振り返る。

「ヒデ君のおかげで気持ちよく新年が迎えられます。去年は一人だったので宿イエの掃除は骨が折れましたよ」

「お役に立てて嬉しいです」

 ヒデは笑顔でアレンに応える。

正月は一年に一回、誰しもが祝う年中行事だ。しかし、ヒデはいくら記憶を辿っても新年を祝った記憶は存在しない。生まれて初めてにも近い感覚で年末年始の準備を手伝っていた。堅洲村カタスムラには新年の飾りもごちそうもないらしいが、誰かと過ごせるだけで気持ちが弾んだ。

 囲炉裏でかじかんだ手を暖めながら取り留めもない話をしていると、玄関の引き戸が急に開けられた。入り口から吹き込む寒気は部屋中の熱を奪い去ってしまう。

 冬将軍を連れて来た犯人は、同じく寒そうに顔を赤らめたヤンだった。ヒデを視界にとらえると、玄関を跨ぐことなく「喜べ。今年最後の薫陶くんとうだ」と意地悪く笑った。

 薫陶くんとうと言えば日々イザナが行っている体力育成や射撃訓練などだ。大晦日だと宣言されても尚行われるのかと肩を落とす。

「大晦日まで薫陶くんとうするの?」

「俺たちには年末年始なんかねぇんだよ」

「せっかく新年らしい雰囲気になってたのになぁ」

 不満そうにヒデは腰を上げる。一方でヤンは早くしろと言わんばかりにヒデを急かす。

「まぁそう言うな。今回は一年に一回の楽しい薫陶くんとうだぜ」

薫陶くんとうに楽しいとかある?」

「行けばわかるって」

 半ば強引に連れ出されるヒデをアレンは「行ってらっしゃい」と笑顔で見送った。


ヤンに連れて来られたミヤの宿イエの庭には珍しく数人の宿家親オヤイザナが集まっていた。その傍らには杵と臼が置かれており、どこからかほのかに甘い香りが漂って来る。

「これってまさか」

「お餅つきだよー!」

 後ろから勢いよくヒデに抱き着いて来たのはキョウだった。

「ケイ主催の唯一年末年始らしいイベントだ」

 ヤンがキョウの言葉を補足する。どうやら堅洲村カタスムラでの毎年恒例行事らしい。キョウはヒデに引きはがされながらも、くりくりとした大きな目をきらきらと輝かせている。

「ヒデはお餅つき、したことある?」

「全然。年末年始のイベント自体やったことないかな」

「僕と同じだー! 僕もここで初めてお正月っていう行事知ったの!」

 キョウは仲間を見つけたとでも言うように満開の笑顔を見せる。ヒデは苦笑いしながら、お正月自体は知ってたけどなと心の中でつぶやく。

 ヒデが物珍しそうに遠目から臼と杵を見ていると屋内からケイの声が聞こえた。

イザナどもー! 今年最後の薫陶くんとうだー!」

 縁側から現れたケイは熱そうにほこほこと湯気を立てるセイロを持っていた。甘い香りの正体はどうやらこのセイロで蒸されたもち米らしかった。いつもしかめっ面でパソコンとにらみ合っているケイともち米の意外な組み合わせにヒデは思わず吹き出しそうになる。

「今日の薫陶くんとうって餅つきのことなんだね」

「いつもの薪割りとかと同じ扱いだな」

 ヤンは呆れたように笑いながら言葉を続ける。

「ただ良いように使われてるだけって感じだけどな」

堅洲村カタスムラって時計もカレンダーもないからお正月なんてしないのかと思ってた」

「まぁ大晦日と元日は緊急じゃない限り任務はない。それから元日はさすがに正装して大御言おおみこと謹聴きんちょうの儀するぞ。書類上死んでても一応帝国民だしな」

 にわかにヒデの顔が明るくなる。

大御言おおみこと謹聴きんちょうの儀、それはスメラギからの新年のあいさつを帝国民が拝聴する行事だ。帝国民がスメラギの言葉を賜ることができる唯一の機会となっている。その時間帯は全ての人間は歩みを止め、平伏して聞くことが法律で定められている。しかし「スメラギの言葉」と言っても帝国軍のトップである元帥が代わりに読み上げるため、直接玉音を聞けるわけではない。それでも葦原中ツ帝国アシハラノナカツテイコクで生まれ育った人間にとっては元日になくてはならない、帝国民の誇りとも言える行事だ。

 ヒデが物心ついて以来覚えている正月の記憶と言えばたった一つ、部屋でひれ伏してラジオ放送を聞く母親の姿だけだった。そんな光景を思い出しているうちに、いつの間にか餅つきが始まっていた。嫌々連れて来られたらしいジライが文句を言いながら杵でもち米をこねている。今日はみんなのいつもと違う一面が見られるなとヒデがぼんやり眺めていると、後ろから足音が聞こえた。

「お、やっとるやっとる」

 野次馬にでも来たのか、真っ赤な綿入れを着込んだチャコが白く声を上げる。

「一年って早いもんやなぁ。ついこの前も餅つきしとった気がするわ」

「俺もそう思う。それで、多分来年もチャコは同じことを言うと思う」

 ヤンの言葉にチャコはけらけらと笑い、「せやなぁ」と同意した。

「来年も達者で生き抜けたらえぇよなぁ」

「お互いせいぜい頑張ろうぜ」

 一体ここで何度目の年末を迎えるのか、ヒデにはまだわからない「たった一年を生き抜く」ことの難しさをヤンとチャコは認識し合う。ヒデが再び餅つきの方に目をやると、ちょうどキョウが小柄な体型に似合わない力強さで餅をついているところだった。

 そうして年は暮れていった。


 翌日、新年。

 居間で正座をしたヒデは「あけましておめでとうございます」とアレンに礼をした。

「ここへ来てまだ半年ほどですが、精一杯精進したいと思います。今年もよろしくお願いします」

手をついたままヒデは今年の抱負を述べる。そんな真剣な眼差しにアレンは笑顔を向ける。

「私は今年もヒデ君の無事と健康を祈っています。どうか何事もありませんように」

 ヒデが迎える初めての正月らしい朝だった。こんな風に新年の挨拶ができる日が来るとは夢にも思っていなかった。自分に居場所を与えてくれた既死軍キシグンへの感謝を忘れずにこの一年を生きようとヒデは心の中で強く誓った。


 正午より少し前、無線で全員が会議場へと集められた。イザナ既死軍キシグンの制服、宿家親オヤは黒の羽織袴姿だ。既死軍キシグンの人間が一堂に会する機会はないに等しい。初めて既死軍キシグンのほとんどが集まっているところを見たヒデは思っていたよりも人数がいたことに驚く。会議場の入り口で目に焼き付けるようにその様子を見ていたヒデに後からやって来たヤンがブーツを脱ぎながら話しかける。

「これ、壮観だよな。俺も何回見てもすげぇって思う」

「今日しか見られない景色だよね」

「そうだな。ルキ以外は全員来てるはずだ」

「ルキさん、寂しがってるだろうね」

「まぁ正月とは言え、さすがに事務所空けるわけにはいかないからな。俺は絡まれなくて済むからラッキーだけど」

 ヒデは独り駄々でもこねていそうなルキを想像して小さく笑った。

 二人はイザナの最後尾に正座をする。前列は宿家親オヤ、後列はイザナだ。正面には年季の入ったラジオが文机に置かれている。そこからは繰り返し国歌が流れ続け、もう間もなく儀式が始まることを告げている。

 いくつもの囁き声が聞こえる中、ミヤが列から前に出て宿家親オヤイザナの方を向いて正座し直す。ぴたりと声が消え、国歌のみが会議場を包む。

頭主トウシュさまに代わり、わたくしミヤがご挨拶致します。第肆拾陸期戊子つちのえね之年のとしとなりました。宿家親オヤの皆様、イザナの皆様、本年もどうぞよろしくお願い致します」

 よく通る声でそう挨拶をすると、手をつき深々と頭を下げた。それに合わせて全員が同じく座礼をする。ヒデは事前に一連の流れを聞いてはいたものの、実際に二十人近くの人間が同じ服装で同じ動作をするという初めての経験に戸惑いを隠せなかった。なんだか軍隊みたいだなと身も蓋もないことを考えていた丁度その時、ラジオから正午を告げる時報が鳴った。

「最敬礼」

 静かだが威厳のある声でミヤが号令をかけると、全員が一糸乱れぬ動作で畳に額がつくほど頭を下げた。

 玉音ではないとは言え、スメラギからのお言葉が流れる電子機器より頭を高く上げていることは許されない。大御言おおみこと謹聴きんちょうの儀が終わるまで帝国民は最敬礼の姿勢のまま微動だにせず聞き続ける。

 古来よりスメラギは人前に出ることはなく、帝国の実権を握っている元帥ですら顔を見ることはそう何度もあることではない。しかし、それでも帝国民はスメラギに畏怖の念を抱き、神と等しく崇拝する。普通ではない人生を歩んできた既死軍キシグンの面々もそれは同じだった。

 十分に亘る元帥の代読が終わると、ラジオからは再び国歌が流れ始めた。それを合図にめいめい顔を上げる。間髪入れずシドが立ち上がり、正面に座す。

イザナを代表致しまして、わたくしシドが宿家親オヤの皆様へ、新春を寿ことほぎ謹んでご祝詞しゅくしを申し上げます。本年も相変わりませずご厚誼を賜りますよう、 お願い申し上げます」

 形式的な決まりきったあいさつとは言え、流石の堂々とした振る舞いだった。ヒデは周りに合わせて再び頭を下げながら、今年はどんな一年になるのかと思いを巡らせた。

 一連の儀式じみた時間が終わり、会議場内の空気も緩む。話し声は囁きからざわめきに変わり、会議場を後にする人の流れができる。正座が疲れたのか隣に座るヤンは早々に足を崩している。

大御言おおみこと謹聴きんちょうの儀とかミヤとシドのあいさつとか聞くと新年だなーって思うけどよ、結局明日からはいつもの毎日なんだよな」

「僕は初めてのお正月で楽しかったよ。何と言うか、気持ちが改まった感じ」

「まぁ、そうだな。こんな機会ないとホントに同じことの繰り返しだしなぁ」

 ヤンは立ち上がり目いっぱい伸びをする。そこへ帰ろうとするシドとミヤが通りかかった。ヒデにとっては一人でさえ近寄りがたいのに、二人も揃っていると視界に入れるのすら恐ろしく思える。しかしヤンはお構いなしに声をかける。

「今年も決まってたぜ」

「当たり前だろ。俺とシドの年に一度のお役目だ」

 ミヤは立ち止まることなく、そっけない返事だけを残してその場を後にした。しかし、いつもミヤと行動を共にしているはずのシドがそんな背中を見送る。

「年に一度とは、鬼が笑う話だな」

「俺がいる限り、シドは祝詞しゅくしを読み上げ続けるんだよ」

 表情を変えることなくシドはヤンを見遣る。何も言葉は発さないが、ヤンは視線に応えるように口角を上げ、小さくうなずく。シドは相変わらず眉一つ動かさないまま会議場を出て行った。

「シドって、ヤンのこと見るときだけちょっと違うよね」

 幾度となく射殺さんばかりの視線で睨まれ続けてきたヒデは困った表情で笑う。些細な違いではあるが、ヒデには確かに感じることができた。ヤンは優越感たっぷりに自慢げな顔をする。

「俺とお前を一緒にすんな。何回シドと死にかけたと思ってんだよ」

 そう言うと、今度はいつもの意地悪な笑顔を作る。

「お前も死ねば優しくしてもらえるかもな」

「死なない程度に頑張るよ」

 肩を落としヒデはぼやく。

 会議場を出ると、雪が降っていた。うっすらと積もり始めている景色を見ると急に寒さを感じ、足早に宿イエ路についた。

 玄関を開けると、一足先に帰っていたアレンが羽織袴姿のままちょうど火鉢に火を入れているところだった。

「お帰りなさい。堅洲村カタスムラでの初めての大御言おおみこと謹聴きんちょうの儀はどうでしたか?」

 ヒデはさっさとブーツを脱ぎ、まだ温まらない火鉢の傍に陣を構える。

スメラギ、というか元帥大将のお言葉はさすがでした。あと、ミヤさんとシドも格好良かったです。何か、みんなで集まるのっていいですね」

 ヒデはつい数十分前の会議場での光景を思い返す。羽織袴姿の宿家親オヤと制服姿のイザナが一斉に座礼をする様子はまさに圧巻の一言だった。

「また来年もあの祝詞しゅくしが聞けるように頑張ります」

 アレンは静かにうなずきながら微笑む。

「では、ヒデ君の今の言葉を書初めにでもしましょうか」

 アレンさんはたまに突拍子もないことを言うなとヒデは思わず声を出して笑ってしまった。

きっと自分は惨めな人生を歩み、誰にも知られることなく死んでいくのだろうと思っていた。そんな自分でもこんなに幸せな新年を迎えることができるのかと、ヒデは泣きそうになる気持ちを笑いでかき消した。

 少なくともこの村では、死ぬまで平穏に過ごせることを願った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る